日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自分が伝えたい事を「いま、日常の中で自らそれができている大人であるか」を問い続けていく事。

やらないよりはたぶんいい、って思うので否定するつもりはないけれど、「食育」の授業になぜか大きな違和感がずっとあった。

授業で畑を見に行って、農家さんの話を体育すわりできいて、さつまいもを1人一苗だけ植えて、次は収穫の日にだけはたけをおとづれて、収穫して食べる。

 

そして、「食べ物を作ってくれる農家さんに感謝しましょう」っていう授業に違和感があってね。

旦那さんにやらないよりはいいでしょ、なんで意味ないと思うの??って言われて、自分でもよくわかんなかったけど、最近それの違和感の意味が1つわかった。

 

「感謝する」事を前提に教えることに違和感があったんだということに。

 

「感謝」って湧いてくるものだから。ああ、ありがたいな、って感じることだもの。それって、感情。

みんなで同じタイミングでありがたいって思うことってそんなにないと思うんだよね。

こんな時はありがとうっていうんだって教えることはできるけど、感情は教えられないよね。

 

幼稚園の卒園式の時とかなんかに、祝辞のあと、「さあ、みんなでお礼を言いましょう、せーの!」、ってお礼を言わせたりなんかするけど、あの言葉に対し、おとながどんな言葉かをこどもたちにちゃんと説明してから卒園式をしてるのかな??っておもう。

 

いつだったか、わたしが学校に息子も先生に用があっていったときも、入学したての一年生が学校を散策をしててね。他の先生がすれ違うたびのすれ違うたびに、担任の先生が、せーの、でこんにちは、って言わせちゃうのとかもどうなのかなー??っておもったなー。

挨拶って相手を大事に思うからするものだとおもうから、とりあえず会う人会う人と無難に挨拶する方が世の中は平和に回っていく、という教えならばわかるけど、気持ちを込めて言葉を大事に使う、っていうことは身につかないんじゃないかな、って思うんだよね。

 

 

それに気づかせてもらう今のわたしのうちでの日々。

先日花火を買ったのね。今は100均で花火が売ってて、花火って一瞬で終わっちゃうから、この花火を数回やる方が、こどもたちにとって楽しみ続いていいんじゃないかって勝手に思ってね。

 

そしたら子どもたちが、花火買ってくれたんだー、ありがとう😊と満面の笑み。

台風から大風が続いていたけどやっとやんで昨日花火の準備をしながら、楽しみだなー、ありがとうってまたまたいってくれて。

やってる最中まで、きれいだなー、ありがとう!!

そして終わってから片付けしながら、たのしかった。またやりたいなー。本当にありがとう!!

 

花火1つでありがとうシャワー。

そのあと、わたしにとってプラを買ってちょっと遊んでゴミになるという禁断の(だからかったのは初めて、笑)水風船も、ワクワクのためにひとつかったのだけど、終始ありがとうー。といいながらそちらも大事に使っていて。

ありがとうシャワー再び。

 

思えば、わたしが畑の手入れをするときもそうなんだよね。

ちょいと畑仕事してくるんで、ってうちを出るときに、いつもありがとうねー。ってかならずいってくれちゃうんだよね。

わたしが幼い頃はありがとうは時々しか使わない言葉だったから、今、1日のなかでのありがとうの多さに正直びっくりしていて。

 

自分が今楽しい思いができるのは、誰かが自分を思ってくれてるから。

自分が今美味しいものを食べれるのは誰かがそれを願って作ってくれたから。

言葉が先ではなく思いが先にあって言葉が出てくる彼らとくらして、一般的な食育に対する違和感の意味と、自分がどんな風に生きてきたかがわかったんだよね。

 

 

感謝というのは自分で感じること。

わたしが幼い頃のように感謝する余裕のない中で生きている人もいる。そういう人にとっては形として感謝を示す言葉を身につける上記の先生のようなやり方もやくにたっていくからね、決して無駄ではない。

 

けれども、できれば、ちゃんと自分のペースで感じた上で言葉を乗せていく事を大事にしたいなといまのわたしは思うなー。

 

ありがとう。

うれしい。

ごめんね。

ついでに言うと

それはわたしは嫌だよ。って言う表現も。

 

嫌だ、っていうマイナスな表現を相手がした時も日本人は否定されたように感じてしまう傾向があるけど、ああ、あなたはこれが嫌なんだね、ってそれだけのことなんだよね。嫌な事をしない、嫌な事をされない、お互いの特性を知っておつきあいできたらもっとたのしくなるわけで。

嫌だっていう言葉をつっけんどんにいうのではなく、自分なりの気配りや正直な思いを乗せていえばいいだけだしね。

そんな時こそ、気持ちの上に言葉を載せるという経験をつんでおけばかなりやく立つと思うんだよね。

 

言葉を強要していくうちに無意識に使うようになるとおもうの。

だから自分で感じて、それを言葉にしてみて、相手の反応やそこで得る自分の気持ちを整理しながら、どう生きていきたいかを探っていく経験を奪っちゃう事でもあるって気がして。

 

 

なんのせよ、ひとつだけわたしの中で見えたことは、「教える」というのはほんにんが望んだタイミングの時がいいなってこと。

 

日々はそれぞれが感じて自分の思うように表現する積み重ねから、自らの成長が見られるんじゃないかなって、今ふと思いました。

自分で痛い思いをした時の成長ってすごいし、そうして優しさも強さも、次にそんなことが起こった時に自分を守る方法も身につけていけるわけだし。

 

それにしても改めておもうのは食育って、ほんとのとこ何を教えたいんだろう。。

感謝とか、誰かを大事にする思いっていうのは、教えることは不可能なことだと思う。

 

ある程度の期間、傍らで共に生きて伝えていくもの、なんじゃないかな。

いや、伝えていくというより、それを伝えたいって思う人自身が例えば感謝で溢れる生き様をした時に初めて「つたわっていくもの、」なんじゃないかな。

 

誰もが教えられるのはきっと読み書き計算だけ。

道徳とかって多分教えるものではなく、伝えていくもの。

感情までコントロールすることはできないし、道徳の教科書で起こったようなことが必ず目の前で起こるわけではないから、それぞれが起こったとこに対して考えて、自らの力で動いてみて初めて身につくものだとおもうんだよね。

考えただけで動くことができなかったわたしのような人は、多分たくさんいて、でもそれじゃあ意味がほぼなくて、自らうごく勇気を持って動いた上で、学んで進化していくものだから、こればかりはみんなで意見をかわしあってこたえを出したところで多分、現実的には使えないと思う。

 

正論は自分の中で腑に落ちて、その人に動くちからがある時に初めて役にたつものであり、みんなで出した正論は理想でしかないものだとわたしは思うなー。(自分の経験上、苦笑と反省)

いじめに加担しないけど、見てるだけの人が多いのはそいうことなのでは??

どうなんでしょ。

 

教えたり、伝えたりすることよりも、自分が「心から生きていたいように今を生きられているか」、実際の姿と自分の作り上げた理想の自分をごっちゃにしていないかをしっかり見て、調整していくだけで、日々がすぎていくんだよね。

でもそれが何よりも大事なことだと思うから、丁寧にやっていきたいな。

 

それにしても、わたしが子供達の喜ぶ顔を見たくて買った花火。

わたしのタメ、なのに願い通り喜んでくれて嬉しかったな。

でも、結果、こんなにありがとうをもらえる日々を生きてる自分がどんなに幸せかを感じました。

ありがたいね。

 

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