言葉の暴力による脳の傷について考える。
最近、親が与える子どもへの影響について考えてます。
愛着障害で脳に損傷を受けた人に育てられた自分。
私も多分愛着障害の状態で育った。母が、脳に損傷がある状態だったために、家族にも他人にむけても争いがひどかったから。そんな母の罵声で私も脳に損傷が起きていた状態だったと思う。
自分がいつも消えたい状態だったし、人と会うのが怖かった。誰かがいるということに極度の緊張があり、思春期の頃はフラットに人とお付き合いできなくて、友達と楽しそうにしてる人が憧れだった。
うちにいても外にいても母の機嫌をとるために良い子にしていたのに、彼女の機嫌が悪いと怒鳴られる。
あんたがおかしいと言われるのが怖くて、自分を消すようにいきてきた。兄弟も気持ちが荒れており、姉もカリカリしているのが日常だったので、自分のうちが一番居心地が悪いという辛い実家時代だったな。
色々勉強してね、いまはおもう。そんなうちで育っていたからそうなったんだな、って。仕方のないことだったのだとおもう。一連の流れ全てを理解した時に、これは自分のせいではなく、仕方のなかったことでここから自分がなりたい方向に変わって行くしかないのだともうかくごがきまってる。
そんな若い頃をいきてきたけどありがたいことに私は旦那さんに出会ってから全てが変わり始めた。
こんな私でも大事に思ってくれる人がいる。
そうなったことで、楽しいこと、ができた。
家族ってなんだろう、楽しいことってなんだろう。。私の大学時代はそのことをずっと考えていたけどまだ親元にいた私は親の影響が大きくて、その答えを出せずに苦しんだな。
こちらも脳の損傷により生きる希望がなかった状態なのだろうから仕方ないよね。
カウンセラーのとこにも言ったのに、問題は何もありません、、といわれて、さらに混乱したこと、自分にとって希望の大人にも会えなかったこと。それに自分の母親が、どこに言っても誰とでも言い合うほど争うのに、ちょっとおかしいのでは??って周りから聞くことがなかったことも自分が抜け出すことのできなかった苦しみに影響してるのだろう。
「親の脳が変われば子供も変わる」という友田明美さんのことを知ったのは、我が子が通う幼稚園の園長の紹介書籍からだった。
その後にプロフェッショナル仕事の流儀で友田さんの仕事っぷりを見せていただいて、このことをずっと考えてる。
転勤族だった我が家は引越しを6回は繰り返した。そしてそのたびに両隣お向かいトラブルを起こす母。
私たちの学校の先生や友人の親に対しても評価した。
それはエスカレートし続け、小学生の時から父のことを気持ち悪いというようになり、自分の姉たちを罵倒するようになった。優しいお姉さんと私はずっと思っていたし今でもそう思う。
肩身がせまい思いで、いつもすいませんっていう気持ちで、会うたびにご近所さんに挨拶を交わした。
ご近所さんはたいていいつも優しく私に挨拶してくれたな。
「母がなぜ人と争うのか」
ずっと不思議だったけど、友田さんの研究の結果から、どんぴしゃりで、愛着障害による脳の損傷により、攻撃的になってしまう状態に陥っていたのだとやっと理解できた。
そして彼女のそれはとてもひどかったのだろうと思う。
「私は幸せになったことがない!」といつも怒鳴っていてね。
ついでに私が結婚するときに旦那さんに言った言葉。
「幸せって何ですか!!!!!!!」
嬉しいって思ったことがないのかな。
そういえば、私たちが誕生日パーティーを企画してもいつも黙ってむっつりしてて、喜んだことを見たことがない母だった。
当たり前すぎて、大人になってから気づいたことなのだけど。
私たちが生まれた時もその時は嬉しかったのかもしれない。
けれどもそれが薄まってしまうくらい辛い日常を過ごしてるし、過ごしてきた。
だから彼女は幸せを感じる脳の感覚機能を失ってしまったのかもしれない、と今は感じてる。
いろんなことを整理していく中で自分が育ってきたときに母の心境を知るために母の過去を調べたことがある。
そしてわかったこと。
母は幼い頃にしんせきのうちにあづけられた。五歳のころのその1年間の悲しみによって母の人生は変わってしまった。
私は今、いろんな人に助けてもらって、自己否定の状態から抜け出した。
でも母は実に母に自分が捨てられてしまったとおもう感覚を手放せぬまま、大人になっていった。
悲しいことを克服していくことも、人を信じることも、自分がどう過ごしたら心地いいかも考える余地のないままいきていった。
そうだとしたらいろんなことを敵視して自分で自分を守ろうとする気持ちがわかる。
わたしもそうだったから。
自分は生きている限り生きていくしかない。でも誰も助けてくれない。だから自分で自分を守るしかない。
自分1人の、悲しすぎて脳が萎縮した状態の少ない知恵で考えた自分を守る方法だったのだろうと思うと、胸が痛くなる。
脳の損傷が世代を超えて引き継がれた例なのだとおもう(ちょっと他人事っぽくいってみる、笑笑。もう超えていくって決めたからそれは笑い話でいいんだ。)
今のわたしは好きなことをできる自分が、好きだって思える。
そんな辛いことに囲まれた人生だったから、嬉しい気持ちになれることが幸せだということを誰よりも知ってるんじゃないかとすらおもう。
そこをこえたことで、不調の時の自分だって、そこを抜ければまた新しいことを受け入れられる自分になることをわかってるからそんな自分を待つこともできる。
誰かのせいにして責めることが苦しいことだって知ってるから、母から受け継いでしまったその部分を丁寧に整理して、前よりずっと、前向きに自分の問題として答えを探していける思考になった。
誰かのせいにしてしまう癖は私のせいではなく、引き継いでしまっただけ。
自分を責めるのではなく、そこをどう変えていくかに意識を集中させて変わって行けばいいだけ。
そんなわたしは今の家族のおかげで育ち直すことができた。まだまだ未熟だけど、わたしは我が子と気持ちよく過ごしたいから、必死に、じぶんをみつめながらくらしてる。
あふれんばかりのあいをかんきられるいまがきせきだとおもう。
そして、わたしがいつも今の自分より成長できるように、いつも目の前の人参をぶら下げてる。私は日常の中にこの方の生き方素敵だな、ってひとを目の前で見て、かんじるようにしてます。
そして、私は、どんなわたしでいたいのかな、と考え続けてる。憧れの人は憧れの人で、その人なりの苦しみもあって懸命に生きていて、私はその人にはなれない。だからその人の真似をするのではなく、だけどこの魅力は何だろうな、って感じさせてもらって、自分が好きな暖かさを考えるヒントにさせてもらってる。そして毎日小さな問題にぶつかったときに、その人のことをおもいだしながら時間をかけて、なりたい自分、なれる自分にたどり着いて行く作業をしてる。
毎日修正して、今の自分でこのままもいたいとおもったり、ここはかわっていきたいとおもったりしながら。
40代になった私だけど、50代になる頃には私ももっと素敵な人になっていたいってゆっくり変わって行く自分を信じ、ささえていこうときめてる。
その作業の繰り返しで、自分を信じられるようになった。
未熟な部分はこれから育っていけばいい、今の自分にも十分に誠意がある。
自分には嘘をつけなくて、間違えたら謝るしかないし、心地いい自分に出会ったらどんどん好きになったらいい。
息子の年齢だけ私の脳は癒されてきた。
だからだいぶ今の自分を受け入れられるようになった。
誰から評価される必要もなく、自分の良さを自分でも感じて、喜んだり、次の目標を持ったりする。
ああ、わたしはやっと成長できる脳になったのかな、って感じてます。
母にも、そういう風に生きて欲しかったな、っておもう。
今でもトラブルを起こし続ける母を切なく思う。自分で自分を認められない限り、どこまでいっても彼女が安心できる答えは見つからないとわたしは思うから。自分を否定されたと勘違いして防衛して、相手を責めて、自分を保つ。一番は自分を自分で認められないことが問題なのだとわたしは思うから。
脳の損傷受けて育つ人が少しでも減っていったらいいなと思う。
傷を持ってる人が少しでも癒されたらいいなと切に願う。
程度の差こそあれ、結構そういう人が多いみたいだから。
幾らかでも克服したわたしが、自分の苦しいけいけんをもってそれを願いながら生きていく。
我が子たちに、それを引き継がないこと。それがわたしのミッション。
豊かさって何だろうって考え続ける。
まずは家族が幸せな気持ちになってくれること。
自分もそうであること。愚痴る必要もないくらい日常を受け入れられる今がすき。
家族それぞれが自分は幸せだよ、っていってくれるように努力しようと思う。
我が子とも旦那さんとも人として対等な関係を気づいて行こうと思う。大事にしあえる関係をふかめていきたいとおもう。
それが溢れ出した時に、わたしはきっと、同じ苦しみを抱えてる誰かの支えになれるだろうから。
そうして幸せに生きていく人が増えていくことが豊かさなのかなってほんのりおもう。
今日から1日4キロくらいは歩くと決めた。
頭痛が落ち着き的はアレルギーのかゆみを脱したい。
身体を動かして体温を上げて腸を整える。
自分の身体を変えるために、わたしはまだできることがある。それはとてもありがたいことなのだと思う。娘とひたすら歩いた。マイナス5度の中、笑。
娘、路肩の雪にうもれる。思い切り楽しんで今の自分を謳歌して大きくなっておくれ。