日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

有事に気づくこと。その2。

さてさてその1に続き、もう1つ気づいちゃったことがある。

生き方についての個人的考察。

生きるための心の使い方は子どもの方が実はとっても柔軟。

でも、わたしも昔は子どもは未熟で教えてやるものだと思ってたな。

ようやく自分の思考がすこし広がったなってかんじるきょうこのごろ。

 

〜突然の休みに何をすればいいかわからないこどもと、何かをさせようとする大人〜

〜昔ながらの暮らし方をする村でともにくらしてかんじた人の生き方〜

〜音葉が彼らのためにと思って与えたことが、逆に彼らの経験を奪っているのではないか?〜

〜わたしが自分がいいと思うことを子どもに提案するときに問うこと〜

〜今朝、目にした赤ちゃん学の研究者、小西行郎さんの言葉〜

 

 

〜トツゼンの休みに何をすればいいかわからない子供と何かをさせようとする大人たち〜

 

突然の長期にわたる休校。

学習はどうするのか、うちにいる間何をしたらいいのか、家庭に問題を抱え、うちにいるのがつらいこども(その大変さはわかる気がします。。)たちへの配慮は?、食事をがっこうでとるという貧困や家庭に問題を抱えたお子さんもいるという。

たくさんの問題が浮き上がってきて、私たちの目に触れる機会となってる。

それぞれが自分の考えうることを考えて行ったら方向性はいい方向に向かっていくのかもしれないな。なのでこちらも自分ができること、考えうることの考察。

 

これらの報道の中で色々かんがえさっていて、でも問題視してる人が少ないと感じてることの1つ。

うちにいる間何をすればいいかわからない子ども、何かをさせなくちゃいけないと思ってる親が多いように思う。

 

学校にいかないと何をしたらいいかわからないって、生きる上での本質の問題なんじゃないかなーと感じてます。

自分がないというか。。

それって定年後にやること無くなっちゃったお父ちゃんと被ってしまう。。

それとね、専業主婦はお金を稼いでないという後ろめたさを持つ人が多いけど、その問題にも繋がってる部分があるんじゃないかとふとリンクした。(これって意外と大きな問題だってわたしは思ってまして。)自分が今何を大事にしてるかがはっきりしていたら、専業主婦であることで旦那さんにひけめをかんじるひつようはないよね。一人の人間の育ちによりそう、それも24時間休みなく、って、経験してみないとわからない責任の大きさと、愛の深さが必要なんだよね。

子どもが生まれたらお母さんになるけれど、自分がどんなお母さんとして愛する命によりそうか、ってね、命がけだから。自分が何をしたらいいか、どうすれば自分はわがことしあわせにひびをあれるか、そういう思考はすぐできるものではなく、こういうことのつみかさね。自己肯定感は一朝一夕にはならずだから。

 

出版社が漫画の無料配信をしてくれたり、オンラインで学習の機会を作ったり、いろんな動きが出てきて、それは選択肢が増えるという意味でとてもありがたいことだとおもう。

 

けれどもね、与えなければ自分のやりたいことがない、というのは真剣に向き合ってみないとならないことなんじゃないかな、っておもう。

 

おもえば、私たちの時代は物質的には恵まれた時代で、休みの日はレジャーができる(しょっちゅうではないけど)し、テレビもあるし、ゲームも出てね、与えられて遊ぶことが増えてきた時代だと思う。

 

好きに遊んでおいで、と大人に見守られた人は遊ぶことを味わっただろうけど、大人に監視されるように、彼らの「しなくちゃならない」という概念の元動いてきた人は子供達にも無意識のうちのそれをしてしまう。

 

〜昔ながらの村でともに暮らして感じた人間の姿〜

タイの昔ながらに暮らす村人たちと暮らしを営ませてもらって、それを肌で感じて知った。

彼らは目の前の状況の中から自分たちで遊びを生み出す。

なた一本と魚を取る網を持って川に出かけ、川に入って魚やカニを泥んこになってとる。

どこの国の子も、子供は水が好きなようで、学校が終わると川に遊びにきて宙返りしながら飛び込む。男子の遊びも女子の遊びもなく、一緒に遊ぶのが普通。

釣りをしたり、網を使ったり、泳いだり、海藻投げ合ったり。

 

そしてなた一本で竹を刈ってお皿を作り、枯れ枝を集め、焚き火を起こす。

時にはバナナの葉を拾ってきて基地を作りながら。

なたは竹や木、バナナの葉を使ったおもちゃを作り出し、料理に使い、自分の畑の収穫にも使う。

 

お腹が空くと山に入り、食べれる木を見つけて果物を取る。

取れなければどこからかボッコを拾ってきて工夫する。

 

目の前にあるものを使って今を楽しんでいて、わたしたちはそこにいくたび、たくさんのきづきをいただく。

 

そんな彼らは自然を大事にする民族で、毎年森にかんしゃするおまつりをする。

 

そう、自然の中から彼らは豊かさを生み出しているんだよね。

だから何かが起こった時、彼らはそれぞれが自分の知恵で動き始める。

まったりなやんだりにじかんをかけるにではなく、自分ができることをする。

 

それは小さな頃から自分で楽しいことを生み出してきた知恵なんじゃないかと私は考えてる。

 

それにきづいたジャングル滞在。

 

〜大人が彼らのためにとおもって与えたつもりが、逆に彼らの経験を奪ってはいないか?〜

 

だから今回のことで、私がとっても気になるのはそこのところなんだよね。

大人が何かを与えないと、やることがゲームしかないって、その日々のワクワクのなさが、その人の人生は今後どうなっていくのかな、と。

自分の経験を持ってすると、それがうつ傾向につながって行ったんじゃないか、って気がしてる。

 

そんなことに気づいちゃったのは、私の思い込みなのか検証しつつも、子どもは大人を受け入れてくれる力が強いし、寄り添ってくれる優しい存在だから、ああ、諦めて宿題するかー、手伝いするかー、ってなってる部分もあることを一人でも多くの大人が知る必要があるんじゃないか、とおもう。

 

大人が彼らのためにと思って与えたつもりが、逆に彼らの経験を奪ってはないかかんがえるひようがある。

 

今回の休校で、子供に1日をどう過ごすか決めさせてゲームをやる時間も勉強をやる時間も作ってる、っていう記事をみたけど、私が想像するのは、本人が出したたたき台に対して、ゲームの時間長すぎない??って親の言葉が入って、それに合わせて子供がきめてるんじゃないかということ。

 

そうだとしたら自分で決めたのではなく、「決めさせた」ということで、すなわち、「おとながもとめるこたえをだすように誘導した」にすぎないと思うんだよね。

 

彼らが自分で決める経験を奪っていくうちに、自分が何をしたいかわからなくなって大人になってパニックになった結果うつになるんじゃないだろうか。

 

自分で決めてやったことで起こった結果を自分で味わう。

年が小さければ小さいほど、起こったことの結果は大人から見たら大きく誰かを巻き込むものでもなく、人生全体には関わらない。

 

子どもたちはなんだかんだで楽しそうだよね。

多くの大人たちはそういう。

けれども、本当に心から楽しめてるのかな?

親が言い過ぎてることで諦める習慣がついてて、どうにかやってるだけなのかもしれない。

わたしにはそういう見方ができることも多々ある。

 

その結果は大人になって初めて私たちの親の目に見えるきがする。

自分の意思を諦めてきたことで、何かをやるときのいっぽがでない。

何をしたいかわからないってこともそう。

だって3歳の子は起きてる間中、興味を持って遊んでおり、それにかんして大人が自分の経験で切り上げたり止めたりしなければ、多分そのまま大人になる。

まいにちたのしいことをみつけて大きくなる。

いろんなことをしてみたいと思って動いた経験は自分の感情と人の感情をたくさん味わう機会を与えられ、勇気や苦しみを越えた先の自分を想像できる力が生まれる。

 

いいことも嫌なことも自分の人生だってわかる。

 

この有事はそのことも、表面化したのではないかと思う。

 

〜大人は子供を思い通りに動かしていないか。〜

 

いつだったか、自分が口うるさく言ってきたことにきづいて、中学生になった子どもに自分で考えれば??って言うようになったけど、きいてくるんです。。どうしましょう??

って話を聞いた。

でもさ、そりゃ無理だよね。大人が経験を奪ってきたのだとしたら今度は、おやが彼らが自分で動けるようになるまで忍耐してまつしかないとおもう。自分がしたどんな態度が彼らにとって余計だったのか、検証して、みづからの態度を変えて行く必要があるのは大人の方だってきづかされる。(きびしいけどさ、そうして大人も成長していくしかないんだよね。)

 

大人は子どもを自分の思い通りに動かしていないか?

 

喧嘩をした時や、大人が悪いことだとはんだんした行為に対して、あやまってほしいとおもう。

彼らがなぜそういう行為をし、なぜわたしがそれをよくないことと判断したのかをすり合わせる必要がある。何が悪いかなんてわたしの思い込みのことが多々ある。そしてしれは悪いと思うから謝ってほしい、と大人は答えを急ぐけど、彼らはそれは良くなかったって、その時点で気づけてるのだろうか。

 

わたしと同じ、こんな場面をたくさん経験して、その都度周りの様子を敏感に感じとって理解していくことなのではないだろうか。そして自分の苦い感情をたくさん味わってある時ふと、これは嫌だったよね、って相手のことを思える。

それが最終的に到達したいことなわけで、大人がいまここで言葉を誘導する必要があるのかを考える必要が、大人側にある。

 

子どもは褒めてそだてることがいい、っていうけれどそれは状況や関係に応じて使う必要があり、褒めてばかりで大きくなると、褒める大人の期待に添えるような動きをしなくちゃいけないとうプレッシャーをうむ。

褒めるという行為は相手を自分の思うようにコントロールするかもしれない、という側面も意識しておく必要がある。

 

わたしはそう思う。

 

わたしはひねくれ者な面もまだ多々ある。

そんな部分を1つずつ見つめて整理してる過程にまだいる。

けどそうして自分を整理してるから見えてくることだった。

 

自分の常識は世界の非常識だって知る努力をこれからもして行きたいなと自分に思う。

 

大人が何かをさせようとすることをやめれば、やりたいことが出てくるとおもう。

多分、人にはそういう力がある。

今まで自分の思いで誘導していたならば今度は大人が何も言わずに待つ努力をしたらいいんだと思う。それがしてきたことへの責任。

 

〜わたしがいいと思うことを子どもに提案する時に、問うこと〜

 

これをいいと思ってるのはわたしだけかもしれない。

わたしは自分に問う。

 

その問いかけを必要としてるほかの大人の方もいると思うから、そんな方におすそ分けです。

 

大人の皆さん。

今までも、今現在も、自分は幸せですか?

YESならば、そのように子どもたちを導いても間違ってないかもしれません。

でももしNoと言いたくなったり、迷ったりするならば、黙てたほうがきっといい。彼らはわたしではない。だからそれは彼らにとってのベストではないかもしれないから。まず自分の子に、自分の感覚で彼らの人生の地図を作るのはやめてみませんか?

彼らの方がずっとしなやかに生きるのかもしれません。

 

今目の前にいる、わたしのこどものたちのように。

 

子どもの精神は未熟なものではないから。

しなやかで大きな器を持ってる。

わたしはそれに気づかせてもらって、どんな哲学書よりも大きな学びをもらった。

目の前で生きる大きな存在とくらせるいまにかんしゃをしています。

 

〜小西行郎さんの言葉〜

にグッときた。

 

近頃の親は子どもに手をかける時間があるゆえに、自分の価値観を押し付ける。

子どもは大人の思う通りにならないとおもっておいたほうがいい。

 

本当にそう思う。

わたしにも気づいていないことがまだたくさんある。

小西さんの本を読んでみよう。

久々に読みたい本を見つけました。

 

夕飯に食べたいものがある。

だから自分で作る!と台所で仕事を手分けする子どもたち。

自分が食べたいから自分で作る。おなかいっぱい食べたいからって二人で30個のお芋のめとりと冷たい水で洗う作業。

でも自分でできる、という経験はかけがいのない人生の一部になって行くよね。

休園から得たもののうちのひとつ。

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きたきた吹雪!!

雪女出るかと思うくらいの大雪。

昨夜からの吹雪は外に出た途端の銀世界。

でも自然の造形は美しい。

電線にも木の枝にも雪が積もる。

雪国の神秘。

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この写真を取るために外に出たら娘が走って追いかけてきて、わあっ、きれい!!と歓声をあげる。

こうして美しいものに対する喜びや神秘の感覚が磨かれていく。

厳しい冬をここで過ごしたご褒美でもある。

うれしいね、こっこ♬

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わたしはこれから除雪だ。

パパが帰ってくる道を作っておいてあげたいから。