日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自分の負の感情と向き合っていくこと。

起こることは全て自分の問題なんだ。

自分の中に取り入れて整理していけば、自分の細胞の1つになる。

苦しいことも越えれば、次はそこを楽に超えられる。

 

〜自分にとって嫌なことがあった時のこと〜

〜相手の言葉に違和感を感じるのは自分と大事にしていることが違うからなんだ〜

〜自分が大事にしているものをきちんとりかいしておく〜

〜思考が変わって行くということ〜

〜自分の人生を豊かにするために変わってゆくこと、それが成長なのだと思う〜

 

 

〜自分にとって嫌なことがあった時のこと。〜

 

誰かの言った言葉が引っかかる。

誰かの言った言葉に嫌な思いをする。

 

そんな時どうしてますか??

 

先日わたしもそんなことがあった。

ある人の言葉が引っかかった。

なんでこんな表現をするのだろう。

そんな違和感が残った。

 

昔のわたしは、自分を攻めて落ち込んで見たり、相手が悪いと思う愚痴ることでそこを通り過ぎてた。

 

でもね、今のわたしは生きてる時間を少しでも気持ちよく過ごしたいと思ってる。

だから、なぜ違和感を感じたのか、自分に問う。

 

そんなことをここ数年積み重ねてきた。

そして負の感情が起こった的に、人のせいにするのでは無く、なぜ自分がそこを気にするのかな、と時間をかけて考えるようになった。

 

負の感情も自分。

そこをしっかり味わって、自分がどういう人間なのかを1つずつ理解していく。

 

あの人に違和感を持ちたくなくて、なんとなくみないふりしてきたけど、自分の感じてることと向き合ってみる。

そうしないと自分に嘘をついてることになる。自分の気持ちと向き合って答えを出して、自分の生きてる時間を丁寧に過ごしていきたい。

それが自分に対する誠意。自分に誠意を持てなくて誰かに誠意を使うことはできない。

かんじた違和感を自分の誠意と照らし合わせて、その結果、離れることになったらそれもひつようなせんたくなのだろう。

 

〜相手の言葉に違和感を感じるのは自分と大事にしてることが違うからなんだ〜

 

自分の感情を味わってきて、今思うこと。

相手の言葉に違和感を感じるというのは、自分と違うものをもっているということ。大人になると、話をしてみてもお互い理解し得ないまま終わることも正直多々ある。家族ならとことん話をするが、そこそこの距離のある相手なら、今はお互いを理解するのは難しい、という答えを出すのも1つの方法だとわたしは思ってる。

 

その時の違和感は感覚の違い。

大事にしていることの違いなのだと感じてる。

わたしが、そこを理解して、と押し通す必要もない。

大事にしてることが違うから仕方ないよね、という相手への理解でいいとおもう。

 

そして相手さんとはそれなりのおつきあいでよくて、ここで、自分が何を大事にしてるか理解するきっかけを頂いたと思えばいいだけ。

 

誰かの言葉や態度に嫌な思いをした時もそう。

ひととしていきているかぎり、そこは付いて回る。

だからそれに愚痴を言ったり、怒り返したりするのでは無く、冷静になぜそういう態度をとったのかを聞けばいいだけだし、聞かなくてもいい。

ここもやっぱり、自分がなぜ嫌な思いをしたのかを考えればいいだけだと思うから。

自分が大事にしたい生き方が見えてくることがおおい。

 

そしてね、それを繰り返してるうちに、自分が大事にしてるものが常に胸にあるようになるから、誰かがそこに立ち入ったとしても、それは相手の問題だ、とスルーできるようになる。

わたしが誠意をもって接してることに対して相手が怒って迫ってくるならそれはもうわたしの問題ではない。

そこを冷静にわたしが見極めればいいだけだとおもう。

もちろんね、わたしが間違える時もあると思う。そこも自分で気づけるように、なるべく穏やかに対応したいといつも思い続けてる。

 

ここで怒らなければならないその人の問題。そういうことも多々あるなと見えるようになってきた。

 

〜自分が大事にしてるものを自分できちんと理解しておく〜

自分が大事にしてるものを理解しておく。

傷つくたびに、自分がなぜそういう感情になったのかをその都度丁寧に考える癖をつける。

それを繰り返して自分がどうありたいか、自分の誠意は何かという意識をつねにもてるようになったことで、傷つく回数が減って生きやすくなった。

 

違和感を感じる人とは距離を置く。

経験も生きてきた時間も違う、そして今話をしても理解し得ない、ならばそれは必要なことだと思うう。

理解し得ない人というのもいるもので、そこを通しても理解し合いたいと思うか、しかたないか、とおもうかは自分次第。

いまのわたしは家族でなければそこまで努力はしない。

生きてる時間を、そこにさくのがもったいなくなったから。

それなら子供に寄り添う時間にしたいから。

 

いつかまた交わって仲良くなることがあるかもしれないし、そのまま離れていくかもしれない。

お互いが変わって行くから、いつまでもその関係に依存する必要もない。

 

 〜思考が変わって行くということ〜

わたしは、生活が変わって思考も変わった。

食事も変わって思考がかわった。食べるものは自分になるというのはわたしも同感で、いろんなものを食べなくなっていって、友達100人いなくてもいいと思うようになった。

出会う人は大事にしていく。けれども全員を同じように大事にしていたら時間が足りない。いい塩梅に距離を持って少しだけ大事にする人もいれば、そばにいてくれたありがたくてしっかりと大事にさせてもらう友人もいる。

 

思考が整理されて所有するものがへった。

断捨離はものを捨てればいいというものではない。

「思考が整理されたから、きづいたら身の回りのものも整理されてた。」

そういうものなんだと思う。

心が混沌としている中では整理もできないと思う。

目の前に現れてるのは自分の内側。

 

大事にしたいことの優先順位が自然に整理されてきた。

結果、お付き合いする人も変わっていった。

 

何かが起こるたび、自分を見つけることで、いろんな余計なものが削ぎ落とされていくよね。

 

昨日話したお友達のくれた言葉がずっしりと胸にのこった。

嫌な思いをすることで自分の大切にしたいことがはっきりとわかってゆく。

余計なことにかける時間がそぎおとされてゆくんだ。

 

そうして自分の感覚を研ぎ澄ませていくことに時間をかける。

毎日それを繰り返し、自分の感性をもっと繊細のしていくさぎょうが日々の中にある。

 

〜自分の人生を豊かにするために変わって行くこと、それが成長なんだとわたしは思う〜

 

いいことも嫌なことも自分の人生を豊かにするためにある。

自分の嫌な感情に対し、勇気を持って嫌な自分を見たときに、自分がどんな人間を目指してるのか、見えてくるから。

そしてそこを超えたらもっと生きるのが楽になる。

それが成長なのだろうと今は思う。(未来はまた変わってるかもしれないけどね。)

 

これからもそうあろうと思う。

全ては自分の問題なんだ。それを整理する力をいかにつけられるか、ただそれだけだとおもう。

 

 

 

今朝のラジオ聞いてびっくりしたんだけど、休校で在宅の子どもたちのために、漫画を配布するらしい。。。多くの子どもたちが自分でやりたいを探せないのだとしたらそれの方が問題じゃないでしょうか。遊ぶ力は働く力、生きる力。

こんな事態になって見えてきたことがありますね。黙っていたらゲームばっかり、っていう話をよく聞くけど、その本質じゃないかな、ってかんじています。みえてきたこの問題と今後どう向き合って行くか、この経験を無駄にしちゃならんと思います。

 

 

うちの子どもたち寝るのも惜しんで遊んでます。

今日は雪をとってきてかき氷、、、だそうな。

あんまりきれいだとは思わないけど、道民の子ども時代の思い出よね。

心ゆくまで楽しんでくだされ。

我が家のかき氷シロップはストレートりんごジュース。

北海道最高♬

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