日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

褒めることと認めること。

褒めることと認めること。

 

最近ある経験からそのことについて考えてる。

子どもたちが過ごしてきた幼稚園が生活の一部、暮らしの一部として存在しことなも子どもも対等に人として成長していこうという考えのもとであるから、自分自身がどう我が子と関わり、こどもたちにつりあうように成長していけるかをいつも考えてる。

 

わたしはね、保育士時代、褒めて伸ばす、のが自分の仕事だと思ってた。

すごいねー、よくできたねー。

でも、わたしはジャングルでの暮らしと、ここで、自分はどんな人間として行きて行きたいか、子どもたちにどんな自分として写りたいかを考え続けた結果、褒めることと認めることは違うんだなって答えにたどり着いた。これはあくまでもわたしの答えであり、そう思わない人がいると思うからそれはそれでいい。

 

とにかく褒める。日常の中でいろんなことを引っ張り出して褒め続ける。それは、そのことができるあなたがすごいということで、褒められてばかりいると褒められない部分が不安になると感じてる。何かができることがすごい、という大人の認識はその答えに応えなければ自分は認められないということにつながるのではないかと感じてます。

 

認めるって難しい。どんな時のあなたも大事なあなたです、という前提のもとにあることで、ああ、わたしはこう我が子を受け止めたいんだなって大事なことに気づかせてもらった。

ここ数年、めっきりわたしは褒めない。

ご飯を作ってくれてたむすこに、すごいねえということばがあふれる。別に褒めてるわけじゃなくて、センスも味も、彼が家族四人に寄り添ってくれる姿(アレルギーの妹に配慮することとか)、わたしいじょうのものをもってることがすごいと思うから。褒めたくて褒めてるんじゃなく、ただ、すごいよねって感動し、美味しいねってわたしが感動と感謝をしてるだけ。

娘の絵がわたしは好き。わあ、上手だねえ。本人は照れくさいのか上手じゃないよーって言うけど、目の感じとか表情の優しさがわたしは大好きで、上手だねえっていう。でもそれはわたしに取って、可愛いねえ、これ好きなんだよねえ、って言葉と同じ。

 

でもね、褒める言葉を使うことが必要なケースもあると思う。そういう人はその下に想いがあって使ってるのだろうなっておもう。こないだ見た小児神経科の先生のカウンセリングはそれをとっても感じた。

 

褒めて伸ばすことをやめたら自然体になった。

認めるということはあなたがそこにいてくれてありがとうということなんじゃないかな。

今は暮らしが忙しくて、薪運びを手伝ってくれた子どもたちにありがとうと思い言葉も溢れる。でも彼らが自分の時間を味わうことも大事だからできなくてもいい。そんな気持ちをたまにでも持ってくれることにありがたさを感じ、彼らの存在に感謝してる。

でもね、そんな時に息子はいう。動いてる私たちに気がつき、いま遊ぶのが楽しいんだ、やってくれてありがとうと言葉にしてくれる。もういいのいいの、そんなこと。自分の時間はとても大事だよ。いつもありがとうね、気遣ってくれて。

 

家族でジャングルで暮らすその時間、家族一緒だから味わえる感情がたくさんある。あなたがいてくれたから、その笑顔で元気になった。あなたと経験したことが辛かった。けれどもあなたがそのチャンスをくれたおかげでわたしは成長できた。

 

あなたがここにいてくれることがわたしは嬉しい。

 

この想いは子どもたちだけにとどまらず旦那さんにも思う。

男の人だから言葉にする必要もあるかなって意識はしてる。

けれども日常を共に過ごす旦那さんに、わたしはたくさんのありがとうを思う。

洗濯を干してくれてありがとう、子どもたちといてくれてありがとう。

子どもたちと一緒になって遊ぶのが苦手な旦那さんは、ずっとソリとかして遊んでくれない。

それが以前のわたしは不満だった。けどさ、彼なりの思いで寄り添ってくれてることを理解する努力をしてみたら、ああ、一生懸命やってくれてるからそこに感謝しようってすっと思えた。

子どもたちからはブーイング。だから時々旦那さんにも他にできることはないかな、と相談する。逆に子どもたちにも申し訳ないけど本当に苦手なんだって。あなたたちの好きなことでパパのできることあるかなあって相談する。わたしが中継の役目をしてみたらお互いがイライラせずに何かを見つけられることがあるかもしれない、そう思って今はそうしてみてる。

 

お、少しはいいかあさんになれてる?笑。

 

彼の思いを理解する努力をする。

その前提は彼にここにいて欲しいから。彼がいつもここにいてくれることがありがたいから、彼が気持ち良く過ごせるように自分ができることがなんだろうと考える。彼が大事に思うものをわたしも大事にするにはどうしたらいいかなって考える。

 

そうしてるうちに、あなたがいてくれるからわたしはこんなふうに嬉しかった、ってことが多いことに気づき、いまがそれしかなくてね。

ママ友との会話の時に家族への愚痴がなくて困る、笑。いや、わたしは言いたくないからいいんだけどね。

 

旦那さんがいてくれてすごくありがたいけど。。。

子どもたちが次々に散らかしたまま?まあ片付けたいへーん!ってボッカーンってなることもあるけど、子どもたちの想像性の高い遊びは見てて面白いからまあ、いいかなと。わたしも片付け得意じゃないから問題性があがるんだよね、すまん、、そう時々子供達につぶやく、笑。

 

それが家族に対しての認めるってことなのかなって最近考えてる。

 

そして家族以外でそう思えない相手と出会ってしまった時に、消化できない、いまだ未熟な自分もいる。

いまのわたしの器での解釈にすぎないから、その時の違和感をひきづるのはもったいないよ、そう思うのにひきづる。自分の器がまだ小さいことも自覚してる。だから自分が正しいわけでもない。正しくないと言いたいわけではなく、自分が心地よくない気持ちで過ごしたくないというだけなんだろうな。

 

今のところのわたしの器ではそれも自分的には間違ってない。

相性がどーしても合わない人もいるとは思っていて、そんな時は静かにどーもー😁と言いながら通り過ぎたらいいだけだよって自分でも思うんだけど、みないふりがいまのとこできなかったりする。まあ困ったなって人にも出会ったりするわけだけどそんな相手のいまの生き様も認めるしかないんだよね。

 

それができたら悟りであるような気もするけど、そこにいつか到達したいと思う笑。

 

大ちゃんがろうそくを作ってきたのを教わってこっこと作る。

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また大きくなってきたこっこ。いまのこっこは何が楽しいんだろう、そういつも考えながらそばにいる。

わたしは大人になって初めて自分の好きなことって何かなって考えた。そしてあるひふとはじめてハマった。好きなことを通して自分を知る。そしてそれを積み重ねた日々は自己肯定感を自分でたもって行く力をくれる。嬉しい時は一気に進み、辛いときはそれをしてわすれえることもあるし、できない時もある。なによりも好きなことをしてる時のワクワク感がたまらない。

 

おくらばせながらそんな自分の経験を通して、こっこのワクワクに寄り添えたらいいなとおもう。

自分の経験をおもいだし、丁寧に感情を整理し、子どもたちと過ごしてきた時間。なんどもあやまってやり直して自分はどうしたいのか、そうすることでこの子はしあわせかを考え続け時間をかける。

わたしがこの子たちと暮らす間はそばにいる、と決めた選択は間違ってなかった。

自分が成長できてたくさんの感謝と幸せを感じるようになった。子どもたちが素直な感情を表現してくれる。(彼らが色々気遣ってくれることも知ってるのでそこに甘んじないようにしていきたいけども)。

 

幼い頃からいつも消えてしまいたかったわたしは辛かった人生を自分の力で変えられるようになった。そしてその積み重ねが今は、辛い先にはそこを超えた自分がいることを信じてゆっくり進めるようになった。

幼い頃に闇を抱えた母は脳に損傷を受けていたんだとおもう。いつも父ともご近所さんとも喧嘩し、自分は幸せになったことなんかない、と生まれてきた私たち兄弟に言い続けていた母。わたしは結果的に、母から苦しい思いを変えられずに生きることの深い苦しみを学ばせてもらったのだと思ってる。

わたしは争うのは嫌いだ。いま理解し合えないならしかたない。相手が妥協できないことならしかたないからわたしがひく。のほほーんとしてたい。その方が自分が気持ちいいから。

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母は気づけなかったけどわたしは自分を保つために自ら争う必要はないんだって知ってる。そんな自分を愛しく思うと共に家族に感謝してる。

幼い頃のわたしの苦しみは母の60年分の苦しみなのだろうなとふと思いながら。

子どもはどんなおもいをしてもいつまでも母を思うものだから苦しみが少しでも癒されることを祈りながら。