自分のことと娘とのこと。
今年は持病寄りの年のようでだるい日が多くて忙しいこの時期、ちょっと参ったなあと思う。。
けれどもお付き合いしていく覚悟は決まってるので、戦うこともなくできることを積み重ねる日々。
ちょっと重い身体をゆっくりゆっくり動かして行く。
畑をしたり、手伝ったり、それもここで暮らす日課なんだよね。
こうして暮らしていくうちにひと月後にはこの身体もかわってゆくかもしれないしね。なるべく日々を楽しむよう、日々自然の中の空気を吸うように暮らしてみようと思う。
たった四年できせきのように変わってくれた思考と身体。それはもちろん一部に過ぎないけれど、わたしにとっては大きな希望の変化だから、これからもそうあれるように日々をすごしてゆきたいとおもう。
そんなわけで仕立てた服。
疲れで思考が奪われない限り、ミシンにはむかえる。
大好きなことが自分にできることであるのはとてもありがたいこと。
思い切ってピンク。
いいハーフリネン に出会えたのでワンピの定番になりそうです。
久々に布帛のブラウス。お友達の汚れたら染めちゃえばいいんじゃない?って言葉に背中を押してもらって白。汚れたら藍で染めたいな。
きてみるとふわっと嬉しくなる夏の白。
ホルターネックのキャミ、つくるかなー。
娘ちゃん。
ただ今、難しい期を迎えております。
なにか小さなことがあるとぼっかんって怒りで表現するのです。
大ちゃんとの喧嘩は前に増して激しい。ついでに男子にありがちな、喧嘩の最後に相手をからかう(ちょす、っていうやつ)もんだから女子は激しい噴火をしだすのです。
そうなったらいくら大ちゃんが逃げようがお願いだからもうやめて、と言おうがどこまでも食いついて離れない。すっぽんのように食いついて怒りをぶちまけるのです。
それは私たちに対しても同じで、うまく伝わらないと、ぼかぼか叩いて怒りまくる。
で、痛いもんだから私も怒る。そうすると大人の方が強くなるのは必死で反省する私、
ちゃんと話を聞こうと次の時はまずは話を聞こうとするけれど、本人の答えはいつもわからない!
ならば冷静なときに聞こうと試してみるけどなんで怒りで表現するのか、本人にはわからないのだそうです。
ならば時間がすぎるのを待つしかない、って思いながら私自身が、彼女に思いを巡らせながら整理をしています。
でおもうこと。
わたしもがんばってみたけど察することが難しかったから、あせってことばできいちゃったけど、言葉で表現できることって大人でも少ないよね、ってこと。生きてる中で、言葉で伝わってることと、雰囲気や態度で伝わること、どっちが多いのかなって、タイにいるときにも考えていたのです。
タイ語も英語もままならない私でしたが、場の雰囲気、相手の持つ雰囲気、態度、いつもの習慣や癖で感じることって大抵その人そのものだったりするんだなと。
言葉で聞かない、できれば言わないことも含めて、しばらく娘ちゃんだけでなくいろんなことにたいしてそうしてみたいとおもいます。(もちろん大人に対しては本人に聞かないが故に誤解をしそうなときはきくようにしていますが)
そうしてかんがえるうちにふとおもいついたこと。
うまく表現できなかったり、自分の中で自分が納得いくようにうまく処理できない娘ちゃん自身が一番もどかしい思いをしてるんじゃあないかと。
怒りという表現を受け止めるのは私だけじゃない、旦那さんも大ちゃんもしていること。
でも怒りという表現をするしかないもどかしさのなかで頑張ってるのは彼女。
自分で越えるしかないことを超えている最中ってとってもつらいものだから。
そう思って胸がキュッとなりました。
そうして思い立ったその日に娘との二人旅に出かけました。
彼女が怒らないで済む状況の中で一日を過ごせたら、何か彼女に寄り添えることが見つかるかもしれない。そして何より、一日だけでもかのじょの気持ちが楽になれないだろうか、と。
そこからお互いにもがきから抜け出すヒントが見つかるかもしれないと。
チェックインから滞在した宿は空いていて、ロビーのそばで絵本を延々と読んでいると、別の場所を見ているので、私も顔を上げたら、娘ちゃんは私の方を向き、
「ゆめみたい。」
と伝えてくれました。おんせんに3回も入り、2人で飲み会もして寝るのがもったいなくて初めて夜中まで起きるって頑張って力つきた一日。
おたがいにヒントが見つかったかどうかはまだわからないけれど、「ゆめみたい」と言ってくれた言葉は私の中で毎日、きこえてきます。
彼女がここを越えるまで、彼女の経験を邪魔しないために私がすべきことはなんだろう。
女の子だからの繊細さもある。私が経験したことない思いを経験してるのかもしれない。
彼女の怒りにわたしからまた怒りを返すのが嫌で、初めて幼稚園のスタッフさんに相談しました。
人に相談することが極端に苦手な私が初めて、自然に聞いてもらいたいと思って言葉が出てきて自分でもびっくりしてます。
そのスタッフさんがくれた言葉は、娘ちゃんの怒りはどこから来るのか、丁寧にみていってあげたらいいのかもしれないね。
ということでした。
その感情はどこから来るのか、自分自身も含めて、いつも考えてるところではありました。
そうしているつもりでした。
でもね、丁寧に、って言葉にハッとしました。
今、この状況に対して「丁寧に」みているか、と自分に問うてみたのです。
近頃、自分の不調で、丁寧に家族に寄り添うことができていただろうかと、ハッとしました。
自分自身、いろんなことがあるから仕方ないことなのだとももちろん思います。
そんな今の自分も受け入れつつ、ああ、私は丁寧に見ていく、という動作を忘れていたんだなと気づかせてもらいました。
丁寧に見ていく、丁寧に寄り添って行く。
しばらくはそんなことを心にちゃんと止めていく努力をしてみようと思います。
スタッフさからお借りしたリンゴの木の園長先生、柴田愛子さんの著書、「あなたがじぶんらしくいきればこどもはしあわせにそだちます」という本を今読んでいます。
まだはじめの方しか読んでいませんが、裏表のある子育て、からはじまり、一章「なぜこどものきもちとおかあさんのきもちはすれちがうの?」というところからすでに私は今の自分を振り返るヒントをたくさんいただいています。
外ではいい顔して、でもイライラに耐えきれず、我が子をこっそりとつねったこともあります。そんなわたしでもこどもたちはりかいし、うけいれようとしてくれてるんですよね。
そんな自分を私はもちろん、嫌だなって反省しています。で、その反省を繰り返すだけのこともある自分がいることも知っています。
そうではなく、本当に裏表のない人間でいたい、そこにしっかりとむかっていきたい、そうあらためておもいます。
子どもとの時間は自分を深めてくれる。
丁寧に寄り添う努力をし続けたら、もっと私は深まってゆくのだろうか。
もっと自分が好きになって行けるだろうか。
とにかくやってみようと思います。
さて、娘が呼びにきたので外に行ってきます。
今日は雨。
濡れたらそのままお風呂にぼちゃんだ!
ひと月前にできたおふろ。
お風呂にいつでも入れるってありがたいことです。