何もしないを味わう。
何もしないを味わう。
子どもから大人になる過程で気づいたら、何かをしてないともったいないとおもってた。
何もしない自分は無気力??もったいない??
今の私はそうは思わない。
〜なにもしない時間〜
〜なにもしなくても私の人生は回ってる〜
〜なんであなたは今つまらないの?〜
〜こども時代を味わう、ということ〜
〜こども時代を味合わなかった自分が思う事〜
〜何もしない時間。〜
何もしないを味わう時間。
それも自分を知る作業。だからしっかり味わう。
なんとなくしたいことがそんなにない。
この3ヶ月くらいそういう時間を過ごしてる。
ミシンすらもいまはいいかなーって思って触らない時間を過ごしてる。
またやりはじめたら、楽しい気持ちになることも知ってる。でもあえてやらない。
ウクレレも。タイ料理も。
そうしてみたらあたらしいはっけんがあったの。
自分が好きな事を何もしなくても、わたしのじんせいはたのしい、ということにきづいた、笑笑。
子どもたちにもう少しつきあえるじかんがうまれた。
自分のことについてぼけっと考える時間が生まれた。答えを出す事を目的とするわけではない考える時間。本当にぼけっと。
その時間の中で私は自分のブログを書いて、自分が思ってる事を知ったな。
朝のストレッチをするようになった。
腰痛とくしばりぐせをゆるめたくて、やろうと思ってたのにできてなかったの。
自分の身体に目を向けるって実はすごく難しくて、ここではじめてこれができるようになり、つづけてる。
しなくちゃって思ってた頃はできなかった事だったよね。
途中でふと、何もすることがないのに、何かしたいという感情にぶつかって、うーん、無気力症候群になっちゃったんではないだろうか??って不安になりかけた。
何もしたいことが見つからないのか、なにもしないをあじわってるんだかわからなくなった。
けど、そういう時は寝ちゃおうっておもった。そうしてみたらすぐ寝れる。私の身体は寝ることも好きなんだと知った。
私は時々何もしないを味わってきた。
そうこうしてるうちにやりたいことがある期間に入ってくる。
でも今回はそこに入るまでがながい。
とことん何もしないを味わってる。
何もしなくても、私は生きてるからね。
何もしなくても、必要な家事は出てくるからね。
何もしなくても必要な家族の関わるもあるからね。
何もしなくても、必要な自分との関わりもあるからね。
〜何もしなくても私の人生はまわってる〜
ようするに何もしなくても私の人生は楽しいんだよね。
そう気づく。
何もしなくても私の人生は楽しいって気づいたことは私にとってとっても大きなこと。
何かを伝えなくちゃって焦んなくてもいいじゃーん。
いま、じぶんがかわらなきゃってあせんなくてもいいじゃーん。
結構いまの自分が好きなんじゃーん、ってふときづく。
たくさん迷走もしたし、頑張ったよねえ、私。
いまは今でいいっしょ。
〜なんであなたは今、つまらないの??〜
日常にはたくさんの生きるために、することもあるよね。
それにも気づいたからこそ、わたしはそんなあえて なにもしないを味わう。 という事を心にとめてる。
そんな事を考えながら、ふと思い出す。
昔、子どもたちが小さい頃、遊びが見つからないと
「つまんなーいー。おなかすいたー。」っていってたんだ。
「もうお腹空いたんかい、今食べたじゃん。つまんないだけっしょ。」
ってちょっといらっとしたな。
つまんないって言われると、勝手に私が責められてるようにかんじて嫌だったんだと思う。
んで、いまおもう。
小さいうちはね、おとなが彼らの興味の場面でお付き合いできたらいいと思う。
大好きな人が一緒にいてくれる、という安心した環境で、楽しい事をじっくり味わい、興味のある事と真剣に遊ぶ。
「大人になるとなんで子どもと遊ぶのが楽しくなくなっちゃうんだろうね。」
「そんな大人になりたくないね。」
クレヨンしんちゃんを見てて出てきたこの言葉がクッと胸に響いた。
「大人が子どもと真剣に遊べないのは何故だろう。」
私はこれを真剣に考えてる。箸が転がっただけで笑える彼らくらいワクワクとユーモアのある人間でありたいなと思いながら。
こどものワクワクを真似したくて、そのきっかけを探してる自分もいる。
年長さんくらいになって、休みの日とかにつまんないとか言ってるのを聞くと、私はこう答える。(うちの子はそれを言わないんだよね。だから、それを言われたときにふと考える。このこはなんでそうおもうのかなーって。)
「へー、つまんないの。その気持ちを味わったらいいと思うよー。いつも何かをしていなくちゃいないわけじゃないんだから。」
そして小学生くらいの子にはこう答える。
「それはあなたの人生ですから、楽しくするもつまらないも自分の責任ですよー。私はいま、ぼけっとするのが楽しいもん。つまんないを味わうのも面白いし、別のことを見つけるも自分次第だと思いますよー。」
とこたえる。
我ながら面白い答えだなあと思いながら、そんな言葉を使う。
それと同時に楽しいことがワクワクの幼児期にどれだけ寄り添えるかが重要だよなあと感じる。
自分がそれが足りなかったのを知ってしまったから、いまその気持ちに近づけるよう努力しながら生きてる。
我が子が、「いくつになっても、自分で楽しい事を見つけられる人」でいられるように願いながらよりそっていく。
同時に自分もそうありたいと願う。
〜こども時代を味わう、ということ。〜
子どもの頃にうんと、遊ぶ時間を味わったら遊ぶように仕事ができる大人、豊かな心を持った大人になれるとポールトウルニエはいう。
同じようにムヒかさんはいう。
効率、便利さが優先で帰って人々が忙しくなり、人の心がゆっくり触れ合う時間がなくなってる。豊かさとは何かを大人が考えていかねばならない時代だよ。
そうしてこどもたちにもかたりかける。
たくさん遊んで遊んで子ども時代を味わっておくれ。その中にたくさんの大事なものがつまってる。
子どもは大人のミニチュアではない。そしてこどもが急いで大人になってはいけないんだと。
私もそう思う。
リアルに想像しながら彼らの言葉を理解する努力をしつづける。
人はそこから優しさとワクワクが自分の中にいつまでものこしていくのだろうと、おもう。
〜こども時代を味合わなかった自分がおもうこと。〜
わたしは、それをしてこなかったから、いまになってやりたい事を欲張っちゃうんだよね。
自分がやりたいことがありすぎて優先順位がつけられなくなる。
こども時代を子どもの心で存分に味わったらいい。
私は我が子にそう願う。
そして少し大きくなったらつまんないもたんと味わったらいい。何もしないもたんと味わったらいい。
大人は特に、何もしないからもたくさんの感情が生まれてくる。
私はね、そうおもう。
だから何もしない気持ちを大事にするんだ。
自分の中の未知の感情ってとても面白いものだから。