こっこのペースで寄り添う、ということ。
こっこは人一倍シャイな人だってちかごろおもう。
〜こっこのこと。〜
〜言葉にできない思い〜
〜おおきくなったからことばにできるわけじゃない。〜
〜こっこの問題じゃない〜
〜こっこのこと〜
ずっとそばで見てきて、こっこの人見知りは一時的なものじゃないんでは?ってなんとなく感じてた。この人はどんな人なんだろう、って時間をかけて彼女のことを知る努力をしてきたつもり。
気づけば6年、彼女と毎日を共に過ごしてきた。
自分のわずかずつの成長に合わせて見方を広げて行こうって意識しながら、どう寄り添えるかなっていつだって考えてる努力もしてきたとおもう。
その都度、彼女に合わせて寄り添い方を変えながらつい重ねてきた時間。
子供たちのおかげで人に寄り添うということはどういうことか、自分が成長して行くとはどういうことか、自分の成長に合わせて寄り添い方も育てて行くという感覚を得られたように思う。
これは旦那さんに対しても誰か他の人に対しても、私がいきて行く限り絶対に必要な力でそれを育ててもらってきたなあ。
子どもたちに感謝。
でね、こっこのこと。
人一倍シャイで、誰かに挨拶をするのも言葉が出ない。緊張が強いし、繊細だって思うので無理に言わせることはしてこなかった。
自分が必要になった時に、言葉になればいいって思って、代わりに私がずっと行ってきた。
ありがとうも、ごめんねも。何かいただいた時に、代わりにありがとうって伝えた時には、あいてのかたにも彼女の喜びが伝わるように、ありがとうございます、の後に、よかったねって添えながら彼女が嬉しそうに笑うのを見てもらってきた。うーん、イマイチだなって思ったのかよかったね、って言葉にはにかみわらいなこともあった。でも、こっこは露骨につまらない顔するのは悪いもん、4つくらいの時からそんな風に配慮する感覚は育ってたよね。
思いは言葉じゃないから。
形だけありがとうございます、って言えても意味がないって私は思ってる。だからある意味、幼児さんに無表情でありがとうございます、って言われた時は違和感すら感じることもある。敬語を使う歳じゃないし無表情で、そう言われてもうれしくないな、って。
もらって嬉しいからありがといっていう、たいして嬉しい贈り物じゃないけどその気持ちにありがたいな、っておもうからありがとうっていう。
これあんま好きじゃなかったー、って正直に言われて大人に、ああごめんなさい、って言われる、笑。(言われたことないけど)
それでいいとわたしはおもうんだよね。
大きくなったら形だけ感謝することもある。
けど小さいうちはそれはいらない。自分の気持ちに素直に生きることを積み重ねてほしいなってねがう。だから、せーの、で挨拶をさせる幼稚園とか学校にはちょっといわかんがぬぐえない、笑笑。そしてそういう教育が学校や幼稚園任せになってることにも。苦笑。
〜言葉にできないおもい〜
おっと話が逸れました。
こっこのこと。
昨日、旦那さんからこんな話を聞いた。
前の晩、こっこが旦那さんとやりとりしていて、なにやらバタンと倒れたとのこと。
なのでそばに行ってのぞいて見たら背中にメモが置いてあったそうな。そこに書いてあったこと。
「かなしくなってたおれた。」
それを聞いて爆笑したけどね、彼女が今どういう状況にあるのかを改めて考えたんだよね。
もう、小学生になる彼女に言葉にしてほしいことがあった。
いつもいっしょにいる幼稚園の家族ならいい。
けど、タイであったウエスターナーさんや、どこかで接した人との間で、気持ちを伝える必要がある時。
以前よりは言葉は溢れるようになった。
お店のレジでありがとうございます、って商品を受け取ってきてお店の人が笑ってくれたよ、なんてはなしてくれることもある。
こっこがこぼした水を拭いてくれた人がいたよね、ありがとうでもごめんね、でもいい。一期一会の関係に言葉で伝えて欲しくて何度も何度もこっこに話した。
でも言えなくて、代わりに伝えつつも怒ってしまったわたし。一期一会だから言葉にしなくちゃならないこともある!と。
もう大きいから、ってまわりはおもってる。だから言えないと本人が困るんじゃないか、というわたしの焦り。
でもね、心の中ではたくさんの思いを抱えてるこっこ。
こっこもじぶんでも、「なんでこっこは言えないんだろうって思うの!」そう言ってた。
たくさんの本人の思いと、私たち大人の思いを組んで彼女が形にしたこと。
覚え始めた字でメッセージを伝える。
こないだわたしと喧嘩した時もそうだった。
しばらくしてこっこが手紙を持ってきてわたしの手に握らせたんだよね。その手紙には
「さっこ、ごめんね。だいすきだよ。」
たくさん待ったし寄り添ってきたつもり。
だから、もうそろそろ自分で言ってごらんって伝えてもいいだろう、って思って伝えたけど、彼女は言葉にはできなかった。
勇気をだしてやってみなよ。
そのことに対して4ヶ月くらい、何度も彼女に伝えてきた。
でもね、自分の寄り添い方が間違ってたな、ってやっと気がついた。
結果、多分、彼女はじぶんをせめてきたんじゃないだろうか。
伝えるのは数回で十分だったよね。今はできない。そう言うこと、わたしにもたくさんあるじゃない。
ああ、またか、って、わたしの気持ちを伝えることの力が入ってしまい、彼女の今、が見えてなかった。
〜大きくなったから言葉にできる、訳じゃない。〜
言葉では言えない。
今の彼女はそうなんだ。
緊張なのか、恥ずかしいのかはわからない。
でも、今はまだ言えない。大きくなったっていうのは大人のこじつけで、こっこのペースで成長しているのだから、いまは、いえない、のだ。
子どもは大人の期待に応えようとする。
時には自分を責めたり、大人を心配したり。
こっこは覚えたての字や大ちゃんにこそっとおしえてもらって、手紙にして伝えてくる。自然にそうなったのならいいけど、無理させてしまったのも事実だとおもう。
大人の期待に答えるためにじかんをさく。
わたしはそんなじかんをもたせるのが嫌で一番気をつけてきたつもりなのに、そうさせてしまったね、ごめんね。
意地があったり、空気を読んだり、うまいこと気持ちが言葉に乗せられずに伝えられない。しっくりくる表現が彼女に今はないのかも、しれない。
ああ、そうだね。
やっとそれがわかった。
ごめんね、こっこ。あなたのペースをわたしの基準に合わせてたことに気がつけなかった。
優しさが行動になるこっこ。
言葉にしなくてもその人に起こったことをじっと見つめて大事な人に寄り添えるこっこ。
言葉ではない感性はもう十分すぎるほど持ってるのにね。
言葉じゃない、感性だよね。
あなたにとって本当に必要な時に言葉でも行動でも出ればいい。
今は、今あるその形で良かったのかもしれない。
いつでもその時にぴったりの言葉が出る人なんていないよね、きっと。
言葉にしてほしい、わたしが思ったあの時は実はとてもちっぽけな瞬間で、他の瞬間にこっこはもっと大事な表現を、他の誰かにしてるのかもしれない。
〜こっこの問題じゃない〜
こっこの問題じゃなくて、結果、わたしの問題が浮き彫りになった。
今回、いいすぎたことははんせいしてる。
けれどもわたしの思いはこれからも言葉でも伝えていこうとおもう。
でもね、わたしがわすれちゃいけないこと。
何度も何度も言う必要はたぶん、ない。大事なことは日々の積み重ね。
わたしが今、見出してる必要なことはもう伝わってる。
彼女のたくさんの経験の中でいま必要なことは、彼女自身で大方見えてる。
親のするべきことは、彼女がたくさんの経験をし、その時間を味わうための邪魔をしないこと。わたしよりずっとたくさんの経験をし、多くの人のいきかたを見て、素直な心でそれを吸収して考えてるから。
彼女のペースにわたしが気づきよりそうこと。
そう、彼女のペースをこうして気づかせてもらった。
時間がかかってごめんね。
体裁を保ってありがとうを言うより、いつだって矛盾しない、自分に誠意のある生き方の方がずっといい。彼女がそうあることは知ってたのにね。
未熟な母ちゃんでごめんね。
子どもたちの方がずっと大人に寄り添うのが上手だとおもう。
いつもありがとう。
そんなあなたたちをいつまでも信頼できるわたしであれるよう努力しようとおもいます。
あなたたちが巣立って行くまでいっしょに過ごす時間は、いろんなあなたたちを知ることで、離れてもあなたたちを信じ、おうえんし続ける力をつけていくためにあるのかもしれません。
どんな世界になってるかわからない未来。でも何が起こっても誰かが自分を信じて愛してくれることからうまれる希望と安心は何にも負けないはずだから。
自分を信じられなくなって病気になることだけはさせたくない。
わたしができる小さなこと。
ついでに、これからはペンと紙を持ち歩いて、今言葉にしてほしいなーってわたしがどーしても思ってしまう時は、そんな時だけはありがとうってお手紙渡すかーって言えるようにしてみようかなー。ありがとうカード。明日こっこにそのアイデアはどうか、聞いてみよう。
そんなときだけ。でもそれも面白いと思うから🤣