日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

今でもこれは、やっぱり、自分のために書いてるブログです。

優しく生きていきたいなあって思うようになった。

 

自分がどんな風に考える人間なのか、どんな感情を持った人間なのか、いまおもいついたことは、わたしがほんとうにしたいことなんだろうか。

 

本当にしたいことなら、きっとできるけど、一瞬の思いつきだった場合、結局「できる」というところまではたどり着かないっていうことを最近感じてるんだ。

 

 

自分のしたいことをしてこなかった時間はたくさんの矛盾を私の中に生み出していて、したくないのにしてしまう、という行動が多い大人になってることに気付かされた数年前。

あー、やりたいやりたい、ってそのばではいっておきながら、結局やる時になったら面倒くさくなって、何だ、別にやりたくなかったんじゃんって気付いたり。

 

ゆっくりゆっくりと、自分の感情を味わい、本当にそれをしたいのか、と1つずつ向き合うという毎日の作業を始めてから数年。

そして実はやりたくなかったことも多くて、自己矛盾で、疲弊してるんじゃないかーって気づいて、この時間の無駄(ほんとにやりたいことをやるだけでも相当時間がいるので)をなくしたくて、自分が本当に望んでることなのかな、っていうこととすり合わせ、修正していくという習慣を身につけ、やっと1つずつ手放していくことができるようになった。

 

まだまだ1つずつの成長過程。

 

だってね、じかんがたらないんだもん。

やりたいことをとことんやっていくという時間の使い方にしたい。

 

そのために今はまだ時間をかける。

 

まあ、結局のところ、やりたいこともほどほどで、って思っといて、全ては意識の底の見えない部分でできていて、流れ着くとこに流れ着くのが全てだってことも気づいちゃあいるんだけどね。

人間だからねえ、そこんとこある程度ジタバタしてから、数十年先か、来世で、何が起こってもまあしゃあないねえ、それでいいかねえ、って言えるようなおばーちゃんになれたらいいと思う。

 

優しくなりたいんだ。

自分にも人にも優しく生きて行きたいんだ。

まあ、いいんじゃないー??って。

優しくてわがままでいつもケラケラ笑ってる可愛いおばあちゃんになりたいなー。

 

そう思いはじめたら、意識の下で全てがそちらに向かって動き始める。

ここ数年で私が得た法則。

思い描き始めたらどれくらい時間がかかるかはわかんないけど、もうすでにそうなり始めてるんだよね。

思い続ける限り、ただただ向かっていくし、思うのを緩めたら緩んでいくし。

 

よくわからないけど、そういう人生を実験中。

家族で楽しく行きていくんだー。

森の中でくらすんだー。

ゆるい仲間と笑い、助け合いながらね。

 

自分が不安にならないようの済むくらいのお金もいただけるようになりたいな。

 

お裁縫や自然物の細工とか、誰かが喜んでくれるような手仕事と、自然の中からいただいた私なりの感覚、子どもに寄り添う感覚も生業につなげて行きたいな。

 

小さいうちから、自分は血縁だけでなく、いろんな人から愛されるてるなあって感じてもらいたいなっておもってね。今は虐待だったり、毒親だったり、核家族によるメリットだけでなく、デメリットも結構あるからね。

だから、街の子どもたちとその親御さんに、自然のなかでのサバイバル暮らしをしてもらって、生かされてる喜びとありがたさを感じてもらえたらいいな。それが自分が生きていく安心感と優しさになって行くと、この暮らしの中で知ったから。

自分たちが知らなかった暮らしをしてその満足感を経験して、これから自分はどう生きて行きたいか、考える材料にしてほしいな。別に街での暮らしが好きでもいいの。ただ経験をして選択肢が増えたらいいなって思うだけ。それぞれが自分にとって何が幸せかをかんがえるヒントになったらいいなって。

 

あとね、私たち家族と旅をしたいっていう人と一緒に旅に出られたらいいな。

旅の学びは大きい。

世界は優しいことを知れるし、今、言葉が通じない世界のどこかで、目の前に起こったことをみんなで超えられたってすごく自己満足度と喜び度が高いから。

「誰と比較するわけでもない、自分がいまを超えられたことを喜ぶ。」

そのことって、とてつもなく豊かなことであるし、希望だと思うんだよね。

誰を蹴落とす必要もなければ、蹴落とされる不安も必要ない。

 

不登校で悩むご家族は親子で来てもらったらいいなって思う。

子どもにとって新しい興味があるでしょうし、子どもの目の輝きの瞬間をまたみれた親御さんは、不登校への後ろめたさではなく、この子が生きていく希望を見つけたことの喜びで、寄り添い方のヒントを得られると思うんだよね。親も一緒に成長していく、子育て世代って、ステキなチャンスをいっぱいいただいてる時間だから。

 

そんなことがしたいんだ、って心で伝わった時に、私はこういうことが生業になれてるのかな、そんなことを夢見、思い描きながらほそぼそと積み重ねる日々。

 

現代の暮らしと昔に近い暮らしを経験させてもらって、頭での想像ではなく、心と目で気づいたことがある。現代も限りない恩恵をいただいてるのはありがたいと思うんだ。

だけど、社会が抱えた不安と、怒りがこの世界におおくあることも切ないなとおもうから、そこを私ができることの中で、明るい生き方ができる方に向けていけたらいいなっておもう。

 

そんな思いを言葉で整理できるようになったんだね、って自分に嬉しく思う。

誰かのためではなく、自分がやりたいからやる。

それで喜んでくれる人がいる幸せ。

 

そんな私のやりたいこと。

たぶんそれは、自分の生い立ちから生まれたものだから、本質からくるもので数年は変わらないと思う。

私の性質上、何かをかたちにしようと思うと、焦って走って言い過ぎたかなーとか不安になったりするから、そうではなく、ゆっくりあっためて、満を持して自分から溢れるのを待とうと思う。

言葉ではなく自分が心から在りたい人間になろうと努力することで溢れていく何かをまってみようと。

 

伝えたいことは言葉にしても伝わらない。それぞれのタイミングがあるもの。

だから伝えるのではなく、伝わっていくの静かにまつ。

その時がきたら、伝わる、ことが揺るぎない自分になっているから、ケラケラ笑ってるだけで、きっと伝わってるんだよね。

 

世界から見たら、ちっぽけな私のちっぽけな夢。

私からみたら、ちっぽけな私の大きな夢、笑。

自分が幸せで、誰かも幸せになってくれる夢のような生き方したいなー。

 

私はいつまでもちっぽけでいたいし、このブログも自分のためのつぶやきであるっていうスタンスは変えずに行きたいなって改めておもうんだ。

誰かに伝えようとした時にずれていってしまうから。

常に生きやすい方向に成長して行きたいと思いながら日々を積み重ねる。

結局のところ、自分の平和が世界の平和だしね。

生き方をシェアさせてもらってるだけのものなんだ。

自分に嘘をつかずに真摯に生きて行こうと思う。

ゆっくり行こう。おー!!