子どもが刃物を持つということ。その2。
昨日の続きですね。
私は小さいうちから刃物を使う機会をもち、ある程度大きくなったら自分の食べたい物は自分で作れる、そんな風になれたら楽しいことが増えていいなって思っています。
なので基本的には言葉でのコミュニケーションが取れる様になったらその子の興味の時期に合わせて小さいうちから刃物を持ったらいいと思っています。
そんな風にはっきりと言葉に整理されたのはこの3つの経験を頂いたからです。
1つ目はムスメが2歳から料理をしているのをそばで見てきたから。昨日の記事でお伝えしたことです。
2つ目は私の山での経験。
3つ目はライフラインの村に家族で暮らし、暮らしを丁寧に行う人たちから、生きていく強さを学んだから。
今日は2つ目のお話をしてみます。
私が山で暮らしてからの自らの経験です。
危険予測や回避力は経験によってのみ、使える様になると身をもって知ったのです。
どんな時が危険で、どんなことを配慮して、それを避けるか。
危険だけを知っても避けることはできません。
その作業に向かう一連の流れの中で初めて、その経験は「自分ごと」として考えられ、生かされ始めると、わたしは思うのです。
私達は時折、必要があって木を切り倒すことがあります。
周りに通行人がいないかに目を向けるため補助に回った私は、自分なりに危険予測はしていたつもりでした。
木を倒す時、チェーンソーで「くの字形」に刃をいれて倒れてくる方向を決めます。
倒す人ともコミュニケーションを取っているし、そのタイミングを間違えない様に目を離さないでおりました。
一緒にやってるおじいちゃんたちは元プロですから、重機も出ます。その動きにも配慮を向けたつもりでした。
その時は無事に作業が終わりましたが、おじいちゃんは私に話してくれます。
「木を切る時に一番危ないのは、倒れ始めた時、上の方でツルが引っかかっていたり、他の木の枝にあたったときだ。」と。
もしも読み誤って、自分のところに倒れて来たら、ほぼ確実に命が奪われると想像できるだけの経験値は私にもその時、すでにありました。
今年、丸太から薪割りをして、たった1つの丸太ですら私は持ち上げられなかったのですから。
森にはたくさんの木々が身を寄せ合い、ツルが絡んでいます。
それを私は自らの身体と感覚を使って、行動してみることで、おじいちゃんの言葉がズシリと刻まれ、芋ずるの様に経験者の話が理解できる様になったのです。
街で育った私にとって、木を切るという習慣が幼い頃からついてたわけではありません。ですから、私にとって、この作業は今でも危険がたくさんあるのです。
山での暮らしはそんなことがいつもおとづれます。
危険予測もその作業をするのに必要な感覚も、経験を積み重ねることでついてきます。
そんな日々を続けてハッとしました。
私のこの感覚はきっと小さい人と同じなんです。
私にとって山での暮らしはまだまだ刃物を持ち始めた小さい人と同じです。
今まで知らなかったことをしてみる、それは楽しくもあるけれど、難しくもあります。
けれどもそれに向き合っていくのが生きるという事だと思うのです。
経験をしなければ危険はいつまでたっても危険なままであり、人から教えてもらっただけでは危険の回避力は弱いのです。
木を倒すことに関して言えば、背の高さも視力も違います。なので、確認する時の立ち位置も変わってきます。
自分の目線で経験をし、危険と、配慮事項を知り、身につけていく。
刃物も同じです。
生きている以上小さい人も学びの中にいます。
どんな時にどんな事態が起こるか、様々の想定が必要ですが、それを想定して動くという力は経験によってのみ、つく力です。
小さい人も持ち備えた力です。
もちろん生きてる時間は長くなりますから、小さい人と大人、初めてナイフを持った人のうちどちらが安全かといったら大人の方が上手いこと回避できるとは思います。
でもやはり、経験がない以上、危険は危険であり、大人の方がやる事が大きいので怪我も大きくなってくると思っています。
これが私が小さいうちから刃物も使ってみるといいな、って思う2つ目の理由です。
そうはいっても3つになったからとりあえず刃物を持たせるのは危険です。
何も知らない私が木を切るのと同じです。
もし、小さいうちから刃物を持たせてみようかな、と思うならば、彼らが見て学ぶ、そんな期間が必要です。
小さい人は自分が興味のあることをやっている大人の姿をよく見て、そのやり方を身体に刻み込んでいる様なのです。
冒頭の写真の様に大人の中で作業を共にし、経験をつけたり、教えて貰う時間も大切です。
でもそれよりも前にもっと大切なことがあります。
これが3つ目のお話です。
その話は次回に。