自分の人生は自分の感覚で決めていく。
多分、私にまだその力は弱いです。
だからこそ、ジャングルで暮らして以来、思うことがあるんです。
わたしが思い込んでることはほんとうなのか、って。
危険もね、わたしはすでにルールで教わってきた人間だから、それは集団生活で大人が一人しかいない時の身の守り方に過ぎないんじゃないかって感じていて。
自分の感覚で決めてみたい、今更ながらそう思いながら今があります。
そんな日々の一コマ。
子どもたちが座ってる場所、ここって危ない?危なくない??
実は彼らが座っているのは手作りの竹の手すり。
何人もの滞在者がヒヤヒヤしながら彼らを見守ってきてくれました。
だってね、実は彼らの足の下、猫が飛び降りる時ですら気をつけるくらいの高さがあるんです。
手作りですから日本のように安全規格なんてありません。
以前のわたしなら危ないよ、って言ってました。
でもね、ジャングルで自分たちで作ったものの中で暮らして、自分の感覚で判断する、ということを肌で知りました。
わたしが危ないと思うことは本当に危ないのだろうか、と一つずつ考えるようにしています。
危ないか危なくないかは、その人の経験値次第。
たとえ小さくても彼らに経験があれば、注意力はわたしより、彼らの方が大きい。
ましてや小さな怪我や恐怖をした人はなおのこと。
経験したことからの想像力がいかに大きいかをわたしは大人になって知りました。
危ないからしてはいけません、という決まりから学べるのはたった一つのちいさなこと。
自分の身体を使って経験したことは、一つの注意力だけではなく、様々な方向からの注意力と、手の置き方、バランスの取り方などの感覚、周りに対する配慮、わたしが想像し得ない多くの感覚を身につけさせてくれるのだと思います。
彼らはこの年齢になるまでに、この手すりでたくさん遊び、川の岩場を歩き、堆肥で山盛りになった車の荷台に乗ることを自ら好み、しがみついて家に帰る経験もしてきたし(これは流石に結構怖い)、パパをはじめ、大人たちがこんな風に家の屋根で仕事を(自分たちで家を建てるので)している様子を日常の中で眺めてきました。
(こんなとこにも行ったねー。
力持ちの男性が心配して途中から担いでってくれてけど、本人は平気顔でした、笑笑。でもこんなとこを担いで自分も歩ける男性、かっこよすぎます、笑笑)
(さすがにわたしも怖いので遠慮してもらってたけど、少し大きくなってデビュー。がっしりと掴んで車の揺れとバランスを取ってる子どもたち。楽しかったそうで、、びっくりしたのはわたしでした。。)
(「暮らしのペースを子どもに合わせて落としていくことが、小さい人の一番の学びだと思う。ただし、親に経験があればね。」
わたしの人生の先輩の名言です。大人になってからこんなことを始めた私たちですが、一つずつ、経験を積んでいます。
自分で手足を動かし、五感で感じ、危険も知恵も学んでいくこと。
それに寄り添える大人になりたいと、わたしは師匠の言葉から感じています。
ちなみに、これは屋根を張るパパ。パパは高所作業のプロでした。
こんな大人の姿からも子供達は、経験のある大人がどんなことに気をつけているのかにも心を研ぎ澄ましてきたのでしょう。)
だから、わたしからみたら「危ない気がすること」でも、彼らは大丈夫って判断したことなのだろうと思います。
幼児とはいえ、少し大きくなった彼らに言わせれば、僕たちも経験してますから、どこが危ないかなんて分かってるからそれを自ら注意すればいいだけでしょ?ってことなんだろうな、と。
そうは言っても最低限のチェックをする責任はわたしにもあるので、手すりが割れてないかをチェックするようにはしています。
でもね、経験泥棒にならないようにしたいから。
わたしの経験を増やしていく必要があるんだと思います。
寄り添いたいと思うからこその責任。
わたし自身が自然の中での経験を一つずつ増やせるようにしています。
その上での声かけならいいよね、って考えています。
恐怖を植え付けて彼らの経験をじゃましないように、それでもわたしが必要だと思う注意はそっと伝えて。
でもどんなに頑張っても大人になってからの遊びの経験値と子供の好奇心からくる経験値は叶わないんだよなあ。
寄り添うって難しい。
こんなわたしは寄り添えているかすら怪しい。笑笑😆
結局彼らに必須でついて行って、ほとんど怪我なんてしないんだね、、、と知る。
少なくともわたしはすでに経験としてではなく、ルールとして危険を教えられてきた世代だとひしひしと感じています。
でも、自分の手足を使って経験していく大切さも知ることができ、そこから自分の感覚をフルに使って育てていくことの豊かさもわずかながら知ることができました。
自分の経験を通して身体で考えていく感覚を身につけていきたいな。
子どもの生き方って面白いなって思います。