日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

ゴミのこと。

せっかく月に一度の燃えないゴミを出したのに、またうちの裏を掃除しちゃった、パパごめん。

 

ぱーっとたのしいことでもないけれどちょっと呟いてみることにしました。

 

改造前に二つのコンテナをつなぐために外した石膏ボードとか、断熱とか小さいものがまだあって、町に住むということは生きてるだけでゴミを出すんだなあってつくづく感じてます。
石膏ボードを壊したときの埃を吸うのがすごく嫌だったけど、そういうものを日々たくさん作りながら、使いながら、わたし達はいかせてもらってるんだよなあってすごく感ていて。

 

ゴミ掃除が大変なことを知ってる子供達が一人でやらせてごめんね、って言ってくれる声を聞きながら、便利や快適であることの代償は大きいなあってしみじみと思います。
こういう暮らしを自分がしてるんだよなあって。

 

便利である世の中に生まれてきて、便利であることが当たり前だって思ってきたことに近頃気づいてはっとして。

快適であることもそう、当たり前だと思ってた。

仕事の分業化のおかげもあって、便利であることの裏にあるもの、快適であることの裏にあるものを見ようとする習慣もなくてね。

 

便利である、ってありがたい。

けれどもデメリットも必ずあって。

わたしが思う一つのデメリットは、便利であるがゆえに頭も体も使わないでできてしまうことが多いということ。

それに慣れると同時に、自分で動くことが面倒くさくなる。

身体を動かす習慣がなくなる。

それでは運動不足にもなるよね。

知恵もつかないよね。

 

不便であることにもメリットがある。

便利な道具を使わずに自分でできたときの嬉しいこと。

自分でまた一つ、できた自分を好きになれる。

 

タイのジャングルにいた頃、チックの木で柱を立てて、竹を割って床を作った。
竹は七変化をし柱にもなれば床にもなるし、カトラリーにもおもちゃにもなる。
屋根は一年目に住んだ家は草を編んだもので、その次は瓦のようなものだった。
それでもそこはすまなくなったら放置しておいても森の循環に戻っていくものでできていたから。
日々使うお皿もココナッツの殻、スプーンも竹で作ったもの、使い終わったら森に投げる、ただそれだけで、誰かにゴミを押し付ける必要がなかったので気持ちが良かった。
それを体験できたことはとっても大きかったな。

 

核のゴミも、いつなくなるか正直わからないもので、人はどこまでもゴミを出して暮らしているんだなあって感じています。

 

森の動物は木の実を食べてウンチから種をだして、そこから芽がでてくるんですって。
アリンコは虫の死骸やウンチを食べて分解してくれて。
木々は二酸化炭素を吸って酸素を出してわたし達を生かしてくれて。

 

彼らは死ぬ時まで、循環の中に入っているけれど、私たち人は循環に協力できるんだろうか、ってふと感じてます。
自分の出したゴミすら抵抗を持ちながら処理をしてる、本来なら、なら使うな!って自分に言いたいとこだけど、住む家ばかりはそうもいかないから、そこから丁寧に向き合いなおさにゃならんよね、って我が身を振り返る、ゴミ問題。

 

やっぱりゴミの溢れた時代になってるということだけは確かなことであると思うから、どうして行きたいかを考えて行動に移していきたいなとわたしは思います。

 

小さなことだけど我が家はミツロウラップも使いません。氷点下になるので割れて使えません、笑。
おかずは基本、このランチボックスに。

 

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おむすびはタッパーに入れてのり巻いて頂いちゃうので。

 

スーパーで野菜もお米も納豆もおやつも買わない。

時折お肉などを買う程度。

それでもゴミはそれなりにでちゃう現実。。

しかと受け止めまする。。