日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

何かをやらない言い訳。自分から湧いた不安や恐怖と丁寧に向き合っていくこと。

を、ずっと自分につけていたように思います。

元々は自分の育ちでついた習慣。

ヒステリックスイッチが入りやすい母を気遣って、私は幼い頃から、自分の想いを言葉にしたり、行動にしたりということを諦めてきたので、自分の感情を味わう経験値が低かったのです。

 

でも、今となってはそれも私の経験で、それが低かった子ども時代と、今を比較して見えてくるものがあります。

だから私の人生の個性だと思ってそれでいいのだけれど、そういうようなことを考え続けた結果、大人になって、自分の中に「何かをやらない言い訳」をつけるようになったように感じています。

 

「いまは忙しいから」

「子どもが小さいから」

自分がそれを本当にやりたいのか、やりたくないのか、精査することもせずに、やりたいって思っては、やらない言い訳をつけて流してきたんだな、ってハッとしたのです。

 

若い時も、そんな感じだったので、思い返してみると、せっかくやったことに対しても中途半端で、自分がそれを日常の中で活かすところまで、育てることができなかったのだろうと思うのです。

 

そして子どもが生まれてきてくれて、子どもが小さいからできない、、って格好の言い訳を見つけた私。

 

小さくても、本当にやりたいことに絞れば、自分の身の丈に合わせてできることがあるはずなのに、そんなことすらせずに、せっかくの経験を逃してきた。

 

なぜやらなかったのか、って、それはやってみるのが怖いから、だったんだろうなって、いろんなことを振り返り感じています。

 

私にとってやらない言い訳をつけるのは簡単です。

幼い頃からずっとやってきたことだから、いとも簡単に諦め、時折愚痴りながら過ごしてればいい。

本当にそんな風に生きてきたんですよね。

 

学校に行って周りに気を使って、うちに帰って、家族に気を使って。

塾やピアノに行って。

忙しさのあまり、自分が本当にしたいこと、今、何に楽しいと感じているのかをじっくり味わうというかことをしてこなかった。

 

自分がやりたいことのために自ら動いてみることをしてこなかった。

それに気づいてハッとしちゃったんですよね。

 

そうして、いろんなことを繰り返し、いま、ようやっと自分で動くという習慣をつけつつあるなかで思うこと。

 

やらない方が楽だったから、やらなかったんだよね。

でもそれで、自分の人生は楽しいかを考えたこともなかった。

 

でもさ、虐待母に入りかけてて、命がけでやりたいこと、ということをかなえてみて、気づかせてもらいました。

やってみたら自分の人生は楽しくなったってことに。

まあ、変わっっていくということのエネルギーはかなり必要だし、怖かったりめんどうだったりするけどね。

しのごの行ってられない状況だったから、今回はかわらさったけど、そんな事態でもなけらば、やりたくないよね。

 

投資だけしてお金かけて終わっちゃうのとか一番怖い。

子育て中に新しいことして疲れてイライラして、そんな自分を責める状況がやってくるのも怖い。

そのことの没頭するあまり、今を投げ出しちゃわないか、怖い。。

 

新しいことって怖いんだよね。

でも必要な変化を受け入れなければ、変わっていかない。

変わっていくという実感を積み重ねていくうちにかわらさっていくんだって、私は感じてます。

 

だから、やってみたいことがあった時、私が一番にかんがえること。

「それは私にとって本当にやりたいことなのか?」

それを、精査する、ということ。

本当にやりたいこと以外にかけている時間はないので、中途半端にやってみたいようなことはやらないって決めてる。

 

そんな風に定まったのは、ジャングル暮らしに飛び込んでみたから。

自分の興味があることをやってみて、そこに飛び込むという恐怖や不安とじっくりと向き合えたから。今でもそれは積み重ねています。

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(森に入る怖さもあります。でもそれも一つずつ経験を積み重ねていく。自分がどんなことがこわいのかを知っていくことも大切だと思うけど、私たちの時代はもう、いそがしくてそんなことを自分の感覚で味わって解決していく時間もなかったように感じています。)

 

不安や恐怖。

多分、ずっとそれはつきまとうものだろうと思います。

でも私は、それにコントロールされたくないなって思った。

だから湧いてくる感情は丁寧に受け止めて向き合っていかないと、それにコントロールされてしまうのも必須。

日常の中で自分の不安と恐怖を感じるたびに、立ち止まるようにしています。

 

立ち止まれる生き方をしていこうと今は決めています。

その訓練を繰り返せば、もっと生きやすくなっていくでしょうから。

 

 

ライフラインのないジャングル暮らしを家族で経験しました。

 


数日間の体験ではなく、そこにじっと身を置いて「暮らす」という経験を。

身体に染み込むくらいじっくりと時間をかけて味わってきました。

 


娘2歳、息子6歳。

母である私、不安と恐怖による「それをやらない言い訳」に目をつむって、思いっきりそこから逃げ出して、体当たりで飛び込んで暮らしをあじわって得た多くのこと。

 


人は不安と恐怖をに支配されてはいきていくのが困難になると思います。

そんなところとどう向き合っていくか、たくさんの経験をさせていただいて私の今はあります。

不安と恐怖を整理しきれなくて、でも、抱え続けることもできなくて、今でも時折、意識的に逃げ出してみることもあります。

色々やってみて、それを、何も考えず手放すか、腑に落ちるまで抱き続け、手放されていくのを待つか、自分なりの方法を見つけたらいいのかな、って思っています。

 

何もすぐに手放せばいいものばかりではなく、しばしの間、その不安と生きていく選択をしたっていいのだと思ったら、ずっと楽になりました。

ずっと不安なのは嫌だから、抱き続けてるうちにどこかでそれを変えていく力が湧いてくるんですよね。それも経験しました。

 

そうしてそこから卒業してはまた新しい不安がやってきて、同じように繰り返していくうちに、強く、優しくなっていけるのかな、って想像しています。

 

 

自分の暮らしを丸ごと変えて飛び込んでみる。

それはとても大きな経験で、自分で変わっていくのではなく、身体そのものが体感によって風のようにさあーっと感覚が移り変わって行きます。

その心地いいこと。

 

私はそれが好きで頭で考えて変わるということを手放しました。

もちろん長いこと染み付いた習慣、今でも昔の感覚に引っ張られることはあります。

けれども、自然に変わらさる感覚の方が好きなので、身体がそっちを選んでくれます。

手放したい習慣は時間をかけて手放していけばいいだけ。

それまでは一緒に共存してたらいい。

 


スイッチ一つですぐご飯が炊けるわけじゃないことを知った。

ある意味大変、でもある意味、簡単。

手のこんだものは作らないから。

それでも食べれるだけでありがたいんだって、かぞくみんなで、体得したことは大きくて、ご飯と野菜炒めとスープの日々のばっかり食でも、誰も文句が出ない。

 

そんなジャングルライフでちょっぴり豪華なお食事。

(パンがあるから、笑)

調理は全て自分たちで集めてきた薪でやります。

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米粉のバナナ蒸しパンにフライパンで焼いたブレット。

蒸しパンはもちろんノンシュガー。

火を通すとバナナは赤くなります。

 


山から分けてもらったいちじくでジャム。

 


あとはチリソースにジャックフルーツ炒め。

 


ご飯ももちろん薪で炊いてます。

ご飯は沸騰後、水分がなくなる頃蓋を開けて蒸気を飛ばすのがジャングル風。

 


炒め物は多めの細い枝やココナッツの殻を用意して一気に火をあげます。

それが美味しくするコツ!

 


パン🥖やパンケーキ🥞は太い枝が炭に近くなる頃がいい。

じっくり火を入れてやらないと中が焼けず、外だけ焦げてしまうから。

 


薪料理の腕が上がるにつれてオーブンがなくてもこんなに色々できるんだって嬉しくなりました。

時折作るこんな小さなご馳走に喜ぶみんな。

あるもので十分豊かだって実感させてもらった経験は大きかったな。

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(ちなみに水もね、泉から水道管を埋めていきます。

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小さな泉。

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やまに溝を鍬で水道管を掘ってうめていきます。

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そうしてやってきてくれた水。

シャワーは昼間の2時間ほどしか温水状態にはなりませんが、これが本当にありがたいのです。

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こちらはキッチン。

水があるのがあたりまえではありません。

逆に、災害レベルの何かがあった時は、汲んでくればいいのです。(状況にもよりますがそれができるなら)。

それで一つ不安が減るかもしれません。

 

それともう一つ。

そんな時があるかもしれないから、川を綺麗に守りたいと思う。

そうしたら水には困らない。

同時に他の生物も生きることができる。みんなが不安を一つでも減らしていきていけたらいいなっておもう。

環境のために、ではなく全ては自分のためになんだと思います。

そこから行動は始めるんじゃないかな。ハイ、余談でした!)

 

 

そして、こんなで暮らせるの?を超えて、こんなで暮らせちゃうんだよね、って不安を超えた喜び。

この経験がたくさんの不安を消してくれました。

コロナ渦で街にいかずとも、森で必要なものを生み出せてしまうことを知ってるから。

 

野菜を育て、野草をいただき、箸やら子どもたちのおもちゃや遊びもここから生み出せる。

人様の支え合っての暮らしだけど、町で暮らしてた頃より、ずっと自分たちで生み出せる力と知恵が多くなったから、その安心感がとても大きなものだと感じているのです。

 

 

やらない言い訳をしなくなって頭がスッキリしました。

これからも丁寧に向き合っていこう、そしてステキなおばあちゃんになりたいな。。