私たち夫婦の日々。
愛着障害って言葉を知ってますか??
岡田尊司さんが出してる本がわかりやすいかな。
そんな言葉があったけど、素人の私もそれには同感なんです。
自分がそうだったから。
大勢の中に馴染めなかったり、自分の不安を解消するためにこだわりが強かったり、あることに対する極度な不安を抱えてる状態っていうのも愛着障害からくるものだと私は感じています。
私は免許を取ったけど運転が怖くてできなかった。
みんなはじめはそうよーって言われてきたけど、それでも多くの人はそこを超えていくけど、私は、前方確認後方確認の死角ばかりが妙に気になって怖くて動けなくなってしまうのです。死角や動いてる時の安全確認が、その見えてる世界は本当なの??って思ってしまって怖い。
これも何でだろうってずっと思ってて、10年経って愛着障害を学んで見えてきたことでした。
それがわかって、どうしたら自分の愛着障害からくる、いきずらさを生み出すこだわりから抜けられるかをずっと考えてためしてきて、ようやっと、親がこう私を育てねばならなかった背景を理解し受け入れられて、仕方なかったね、ってすっと腹の底に落ちてね。
自分の生きてきた過去を、子育ての時間の中でぶつかった辛さと照らし合わせながら一つずつ整理して受け入れて、じゃあ自分はこれからどうして行きたいかを考えて、行動してみたらいい、って思えるようになった。
たくさん試して失敗したら謝って、いろんな自分を知りながら歩き直そう、そう思った。
未熟さからは逃げられないから、今の自分が未熟だって思われてもだいぶ怖くなくなったな。
すてきなおばあちゃんめざせばいいかな、って。
今までの自分と今の自分が全て自分の人生であり、だからこそ得たものもあるって思えたらずっと自分が愛しくなれて、生きていくことが嬉しくなった。
親にもらえなかった愛は、彼らも持ち備えていなかったんだっておもうから、じゃあ今からでも自分で、ホッとできる人様との時間を過ごせばいい、って思っているから、今の家族には本当に世話になってる。
子どもからの愛なんて親から以上だよね、ありがたいことです。
生き直させてもらってるんだよね。
そうして私はもう大丈夫、って思えて。
そう思えたことが大きくて、自分に対する不信感がとんとなくなった。
だから人に怒ることもとんとなくなった。
楽しいことは消化するのが簡単。
負に感じることがあったときにどう受け止めていくか、そこには時間をかけてます。
何かがあって嫌な思いをした時。それは私自身の問題かを考える。そうだった場合は、そこを認めて謝りつつ、これから自分はどうしていくかをかんがえる。
相手の問題が見えてしまった時。理不尽に怒られた時などは、あなたの問題ですよね、って自分の中でいやなおもいをひきづらないように気持ちを整理する。
気持ち悪い思いをひきづらない行動を自分に対してとる。
今までずっと不安だったのは、「自分のよくわからない部分」。
でも自分がどう感じてどう考えて、どう生きて行きたいかを考え続けた結果、今の自分の本質的な部分が見えてきて、不安がなくなったんだよね。
そうして運転のこと。
車を動かせなかった理由がみえて、運転はしないってスッキリきまったんだよね。
「よくわからない」不安は無くなったけど、やっぱり死角は怖くて、長い間の習慣だったから多分運転始めたら時折、怖い思いが顔を出すのだと思うの。
出先でそれが顔だしたらこまってしまうしね。
それを抱えたまま、鉄の塊は動かせないなって思ったので、今のとこ運転するのはやめることにしました。
そしたら、交通機関での移動や、雨の中の移動も覚悟決まるので、それでいいんだよね。
そしてこの夏の徒歩キャンプ。
運転しないからこそ得た楽しみ。
運転できたら便利って言うけど、できないからこそのこんな楽しみがあるんだし、できてもできなくてもいいじゃんって思えて、ますます、今、目の前を受け入れる、ってことをすっと積み重ねられるようになって嬉しい。
できないっていうのも、いいことだなあ。
ざっと、私の場合はこんなだけど、先日岡田尊司さんの、新書を斜め読みしてね。
「死に至る病」ってタイトルになってて、ああそうだな。っておもったの。
子どもの鬱も増えてるそうだけど、これを斜め読みしながら、うんうん、そうだよねえ、って。
自暴自棄も生み出すよね。
現代の多くの人が愛着障害なんじゃないか、って言っていて、そんな目で見てみたら、上司が部下を小馬鹿にするのも、いじめが大人社会でも子供社会でもあるのも、多分愛着障害を抱えた人がそういう行動をしてしまうんじゃないかなって想像してます。
そうして自分に立場を作り上げないと、不安で生きて行けないから。
不安で生きていけない、という弱さを自分で認められないから他者を落とすことで自分を保つ。
幼い頃からなるべく多くの人が関わる子育て社会になっていくこと、大人が子どもを教える対象ではなく、感性の違いや豊かさを感じる余裕を持ちながら共に育ち合う社会であること、そうなったら今よりは良くなっていくんじゃないかな、って自分の経験上感じています。
私がお世話になった人は、幸せになるためにはどう生きていったらいい??なんて会話を日常的にたくさんしてくれてさせてくれたんだよね。
私も話をする中で、自分が今まで何が生きづらかったのか、何が好きで何が嫌いなのか、などを時間をかけて話して、自分で話したことで、自分が思っていたことを改めて整理できたり、意識の上で気付けたりして、今の自分がどう生きて行きたいのか、行動につなげられるようになった。
そして、今どんなことがあっても、それは自分であり、逃げようもなく、その自分が好きかを問うていく。
そして好きでなければ、手放し、好きであれば大事に育てていく。
昨日ね、久々に子供たちに対してボッカーン。
薪割り疲労による頭痛の疲れが抜けてなくて、まだイライラスイッチが入りやすい状態にあるんだなっておもう。
息子に伝えたいことが小言のようになってしまい、「うるっさいなー。」って言われて「うるさいじゃねーわ、このバカ!!」っていっちゃったんだよね。ああ、恥ずかしい。。って直後に思ったけど遅し。
伝えたいことはちゃんと伝えたらいいけど、この場合、いちいち長々ということもないんだよね。
でも不調だったのでダラダラと。。
そりゃ、イライラしながら伝えたら相手もイラつくよね。
お互いにボッカーンと。
時間が経って、やっぱりそんなことを口にした自分が嫌で謝ったんだよね。
悪い癖、まだ顔出すね、ごめんね、って。
言われてきたから、自分で自分を丁寧にみてあげないとまだ出ちゃうんだよね。
手放すって決めてるから、こうして謝れるようになった。
こんな自分嫌だって意地はらずに思えるようになった。
だからそういってしまっても、自分が次にどんな行動をとればいいかわかるし、それをっくどうにうつせるくらい成長したから、これからはそうでなくなっていくだろう自分に期待もできる。
嫌な部分を今は抱えつつ抱きしめつつも、いつかはかわっていくように、自分に希望を持つ。
そうゆっくり変化していこうと意識しながら日々を積み重ねています。
なりたい自分に自分を育てていく、生きたい環境で生きていく。
それを冷静に思えるようになったという自分への信頼度は高くてね。
生きるのがずっと楽で楽しくなった。
自分の夢や生きづらさを日常で話せるような環境になっていったことが、わたしをすくってくれたのだけど、自分の弱さを家庭内の日常会話で話せたらいいよね、って思います。
私たちの夫婦に会話はそんなことも含めていつも話してます。
自分がどんな風に育ち、いきてきて、いま何に不安で、何が嬉しいのか。
毎日毎日何度も何度も言葉にすることで、自分が見えてくるし、自分がどう行動して行けばいいのかも少しずつ見えてくる。
お互いを理解する努力と自分のことを理解する努力。
子供に何かを教えるよりも、ずっと大事な作業だと思っています。
夫婦仲良くしていれば、子供たちはちゃんと自分の好きなことをできるから。
そして夫婦がお互いを思い合う努力は、家の中を安心で包み込んでくれるから。
そんな日々をもっともっと積み重ねていこうと思います。
それがきっと私にとっての生涯学習。