当たり前なんて何もないっていう意識。
日々が当たり前ではないという意識。
わたしがこれに本当に気づけたのは6年前。
自分の暮らしがどうできているかを知り始めてからです。
家に住めることも、ご飯をたべれることも、家族が笑っていられるということも、身体が動くということも、決して当たり前ではないと気付いて以来、何故こうも全てが当たり前のように感じながら日々を過ごしてしまっているのだろう、って考えるようになりました。
我が子に暴言を吐いていた7年前。
わたしは虐待寸前である自分の在り方が当たり前だった。
だってね、自分がそう育ってきたから。
そして、そうしながらもそんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。
でもどうしようもならない自分。
その状態が当たり前で、当たり前からぬけだす方法がわからなかったから。
そしてムスコを投げ飛ばし、旦那さんが仕事から離れた。
そして家族で過ごすようになり、自分が日々、どれだけやりたくないことをしてしまっているかを目の当たりにした。
やりたくないのにやってしまうのは、なぜか。
それを毎日問うた。
そしてね、気付いた。
やりたくたくないならやめたらいい、そう自分に素直に行動してくることが今までなかったということに。
自分がやりたいことをする、自分がやりたくないことはしない。
それを少しずつ始めた。
そうして気付いたら、私たちは家族でライフラインのない村で暮らすことになっていた。
自分で決めたことなのだけど、自分でやってみたいって一つ一つをこなしていったら、こういう形になっていた。
朝から薪で火を起こす。
火を起こさないと温かいご飯が食べられない。
ひをおこす薪を集めてこないと、火が起こせない。
薪は乾燥してないないと、ひがうつらない。
水だって組んでくるか、泉を見つけてそこから引いてくるしかない。
水道管を埋めて引いてきた水は時々断水する。
どこかで埋めたくだが破裂していたり、魚やカエルが詰まって水が流れてこないこともある。
車はもちろんない。
1週間に一回、10キロの道のりを歩いて市場に向かう。
タイとは言っても北のほうですから、朝方は5度くらいまで冷え込みます。
ストーブがあるわけでもなく、もっていった服全てと寝袋をかぶってしのぐ。
人が思うように室温を調節したり、水をえたり、火を起こせるのは当たり前ではないということを経験を通して知りました。
雨が降れば洗濯物はしばらく乾かない。
それでもお天道様任せでそれを恨むのではなく、知恵を絞って今を暮らせるようにしていくのみなのです。
そして考えれば知恵は出てくるもので、どんなに土臭い暮らしでも、最低限の生きていけるものがあれば幸せな気持ちになれることを知った。
そしてね、全てが、当たり前ではなく、人が生きるのは、自然から限りない恩恵をいただき、人様の支えをいただいているのが現実ということも知りました。
わたしなんて、と自分でいくら思おうとも、大自然はいつだって誰に対しても同じ恵みをくれていて他の誰とも比較しようもないんだよね。
当たり前は当たる前なんかじゃあないんだ。
って今でもおもう。
そしてね、その都度、当たり前だと思ってきたこと一つ一つをを整理してみる。
そして自分はどういきていきたいかを考えています。
当たり前のように生きる日常ほどもったいないものはない気がするから。
旦那が忙しいのは仕方ないよね、って諦めて、忙しくすることが美学だと思いながら必死で働いている旦那を思えなかったあのころ。
時折誰かに愚痴りながらやり過ごしてた。
お互いに家族を思って持ち場を守ってきたのに、お互いに大事にされてないって思い込んでね。
子供たちがどれだけ親のことを思ってくれてるのか感じようともせずに、大人だからって偉そうに余計なことばっか押し付けてたあの頃。
自分がイライラしてると、こんなにしてやってんのにって思ってた。
そんな親を誰よりも気遣ってくれてるのは子どもの方で、わたしからのそんな偉そうな言葉も引き受けて黙っててくれたこどもたち。こんなにしてやってんのに、なんて、そんな言葉はそっくりそのまま子どもたちに使ってもらわなくちゃならなかったよね。。ごめんね。
そんな、当たり前について、くるくる考えた結果、一つ見つけた答えがあります。。
当たり前という意識の中に、ありがとうという思いは生まれてこないのだ、ということ。
子供達の習い事のために、大学までいかせてやるために、共働きをしてくれている、そのことに感謝できる子どもはどれくらいいるのだろうか、と思うのです。
塾に行かせてもらうことも、習い事をさせてもらうことも、自分たちがしたいようにさせてもらってることが当たり前になっていやしないかって思うのです。
それとは逆に、本人がどこまで学習能力をつけたいかを丁寧に話し合わずに、塾にやって、成績を上げるのがいい、って思い込んでる大人もいると思うのです。
習い事も、ちゃんと身につくまではやめさせない、そういうご家庭もあると思いますが、それは果たして子ども自身にとっての生きる力になっているのかな、っておもうのです。
自分に合わない、そう感じる力もとても大事で、だから、思い切って辞めたいっていってみる。その経験もすごく大切なものだと思うのです。
自分の考える当たり前は本当に当たり前なのだろうか、って時折考えています。
自分がどんなことを当たり前だと思っているか知るって本当に大事なことだな、ってさいきんとてもかんじています。
旦那さんが今日も元気に帰ってきてくれることは当たり前じゃないから、もっと優しくなれる自分であろうとおもうのです。
子どもたちの、他人さんへ対する配慮がすごいなって思うのです。相手の背景を想像する力が強くて、そんな時に使う言葉のとてもあったかいこと。
一般的には学校に行かない分、能力が劣ると捉えられがちなのかもしれませんが笑、(引きこもりにならないようになんて心配してくれる方もいますが、笑)、本当に優しいんです。それはきっと周りを安心させる力になる。お前死ねよ、っていう言葉を使うおこさんもいますが、わたしはこの言葉が好きじゃありません。どんな言葉が人を傷つけるのかを意識しながら大切に言葉を使っていくことって大事なことだと思うのです。
生きていく中でとても大事なこのことを、彼らが自分のペースで身につけたその能力をわたしは嬉しいなって思うのです。
積み重ねてきた彼らの生きる時間に、当たり前も、無駄も一つもないんだって思わさる。
今ある日々は一つとて当たり前じゃないんですよね。
そう捉えられることで、日々の豊かさを自分で増やしていけます。
当たり前と思うことが当たり前の時代に生きてきたから、これに気付いたことが衝撃だったわたし。
時折寝込む私にとって、今日一日身体が動いてくれることも当たり前ではない。
家族で当たり前会議をたまにします。笑。
どんなことを当たり前に思っていたかを気づき合うきっかけがそこにはあります。
そうしてその裏にあるそれぞれの苦労も知ります。
親が子供の想いを知り、子供が親の思いを知る。
いろんなことがあって、いろんな感情があって、怒鳴っちゃうこともありますが、ふと、呼吸を正常に戻すと、日々は感謝でできてるんだ、って毎日、どの瞬間も思わさります。そして、さっきはごめんね、っていう言葉を口にできる。
自分がどんなことをあたりまえにおもっていたのか、これからも探求は続いて行きます。
うちはお手伝いお小遣い制っていうのはありません。
遊んでる時に無理にお手伝いを頼むこともしません。
手伝ってもらうのが当たり前だとは思わないのです。
でも暮らしに忙しいので、大変そうだからって、遊びが落ち着いた頃に手を貸してくれるこどもたち。
大変な姿を見て手伝おうと思う。
そんな想いがありがたくて、我が子を大事にしたいとおもう。
当たり前なんて何一つなく、ただただそう想ってくれることが、そんな想いの巡る家族関係であることが、ありがたいと思うのです。