日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

暮らしの中で小さな危ない経験を。

薪割りデイズ。

三軒分も作るので、当初の三倍のいきおいで、身体も手も慣れていくよなあってふと気づく。

三年分の仕事をしちゃうわけだし。。

 

薪割りをやってみて知った。

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50キロ前後ある薪を転がして運ぶ時。

回転がうまくいかず戻ってきた丸太に少し挟まれただけでめちゃ痛い。

 

10キロ弱の薪もこうして一輪車に乗せる時、手のコントロールをミスって、一輪車と薪の間に指を挟みかけただけでこれまた、うおおー、いてー、って程度の痛みを味わう。

未だに青あざが残ってる、笑。

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そんなこと知らなかったんだよね。

そんな時間を味わいながらふと、思い出したことがある。

 

タイの村にいた頃。

村の2歳間近の男の子が、ハンマーを小脇に抱えながら操り、左手で釘を持ち打っていたんだよね。

右手と左手の、動作が全く違う動きを2歳間近の子ができることにびっくりした。

 

日本なら、あなおとしやら、ボタンハメ遊びやらのお年頃だから、わたしの人生の10本指に入るくらいの驚愕さでございました。

 

彼の二年間の経験と、先進国の子の二年間の経験値の違い。

 

本当に危険なことがあった時に、身体が反射的に避けれる力はどちらがついてるのかって思うと一目瞭然だよね。

 

なので、我が家は暮らしの経験は子どもたちも一緒にやってもらいたいなってスタンス。

 

小さな危ないはたくさん経験しておいた方がいい。

そしてね、興味を持ったことはそのタイミングでなんでもやらせてあげたらいいと思う。

 

あ、でも、大事なサンドットさんの言葉もここに添えておきます。

 

「子どもたちは自分の手足を使って学んでいく。

それを親はそっと見守って行くひつようがある。

 

ただし、その親に経験があればね。」

 

親が日々の中で工具を使ってる状態であれば、子供達がそれをみて、覚えているでしょうし、大人もいい塩梅で声をかけることができるでしょうが、そうでないのに、いきなり本物をあたえてしまったらそりゃ危ないですからね。

使い方わからないのに振り回されたら危険だし、もしそれなりにつかえていても、大人がいろんな経験がなければ、危ない危ないって手を出してしまうでしょうし。

 

子どもにできるようになってほしいと願うなら、まずは自分からなのだと思います。

危険予測の苦手な私たちの世代。

便利な暮らしはありがたいけれど、暮らしはいろんな危険や苦労もあった方が豊かなのかもしれません。

 

機械はありがたいけれど、一歩間違えればいのちとり。

手動の工具より、危険度が増します。

そう思うと、便利な道具も、アナログな道具も、一長一短。

それも身をもって学んでいる最中のわたし。

何度かひやっとしたこともあるし、危ないことに触れることの少なかったわたしはまだまだ学ぶことがたくさんです。。

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