日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

理性を失わない人間であり続けるためのレッスン。

ちょっと気になることが。

引きこもってるのでもっぱらヤフーニュース程度だけど、マスクに続き、スーパーの品薄で怒りをぶつけられる事態が続いてるそうな。

 

なんでだろね、未知の事態で普通に考えたらスーパー側も困ってるってわかりそうなものだけど、っていつものようにつぶやき相手の旦那さんに話しかける。

 

旦那さん。「うーん、不安なんじゃない??」

 

ああ、納得。不安でパニックになってそう表現せざるを得ないのね。

それって怒る側も辛いわけね。そんな自分も見えておらず、精神不安定に陥ってる。

 

ならどうしたらいいのかなーって考えて思ったのは、それ風を吹き込めるのは周りにいる人しかないだろうなあと。

「不安続きで、品薄で、困っちゃいますよね。でもお店側も同じように困ってると思いますよ。未知の事態で流通が滞ってるのは日本全国ですから。」

って、声をかけてあげられるといいのだろうなっておもう。

 

でも正直、怖いなとも思う。

今の時代背景上、それは関係性のない人でしょうから。

冷静に考えて、精神的に不安定になってる度合いがわからないで親切をして、逆恨みされることも今はあり得る社会状況だと思うから。小さな地域ではないこのご時世の抱えた問題だな、とおもう。

見て見ぬ振りではなく、ここを考えた上で行動をしなくちゃならないと思うので、いい答えは今はでない。

 

でもね、暗めのニュースを日々見ていて、おもう。

世の中が大きくなりすぎて、忙しくなりすぎて、人との関係が希薄になった故の問題が見えてきたな、と。

有名人の発言とか聞いてても、それは、相手の背景を想像できてないんじゃないかって発言が結構あるなあって。

 

タイで暮らして経験とかさねあわせてかんがえてみる。

 

いろんな年齢、考え、家庭環境の人と日常生活の中でリアルに接しながら暮らしてきたんだよね。

こまかなことはいろいろあるとおもう。けれども気本的にその村の人は優しい。

優しさの中で育った子どもたちもびっくりするくらい優しい。

相手の背景を創造する力が半端なく高くて会うたびにいつも、かんどうしてる。

もちろんその中に個性があってふざけるのが好きなタイプの子もいて、優しいんだけどそっちの興味が優っちゃって怒られてたりしてね、笑笑。

 

 

家庭環境がこんなに密閉されていないからこそ、あいての状況がみえる。

大人の都合でスケジュールを立てられてそれに沿って暮らしてないから自分で考える力が育って身についてる。

彼らは学校でもうちでも、何かをするときにものがないと自力で考えて動く。そしてうまくいかず試行錯誤してるうちにそれに気づいた友達が助けに入る。このパターン。

 

学校にいてもみんな平等に道具が用意されてるわけでもなく、その活動が始まると自分で探して変わりのものを見つけて動く。もちろん自分で合間を見て休みつつ、お互いのことを尊重してるから、サボるのではなく、(もちろんサボる人もいる、笑笑。それはそれでオッケーー。)じぶんのペースにあわせてうごいてる。

 

これって人の優しさを引き出す根本だと今改めて感じてる。

自分が関わる相手の背景に関して関わる度合いによっていろんなことを考え、想像し、自分の心で理解してその気持ちを味わうんだよね。私もそれをふっと感じてから少しずつそれを積み重ねてきづいたことがある。

 

それを積み重ねることで、気づいたら何かが起こった時こそ、相手の背景をかんがえるようになった。

ああ、そういう表現にならざるを得ないんだね、ならば私の問題は何か、相手の問題は何か分けて考えようとなる。

そしてそれについて考察し、自分の問題点を理解して、その気持ち悪さを腑に落とす。

例えば、何気ない私の一言が相手にとって嫌だったら謝ったうえで、じぶんがどういう意図でその言葉を使ったのかも伝える。

 

お互いの感覚の違いであることも多いしね、嫌な思いをひきづることもない。

それでも相手がさらに嫌な態度で迫ってくるならそれは相手の問題だしね。そこはもう私には関係ないので、ストレスのはけ口にされても困る。その人の怒る根本原因は多分、私じゃない。だから静かに身を引く。

 

 

いろんな環境な中で生きる人と絡みが少ないから生じる相手のはいけいを創造する力の欠如、ここをこれからもう一度見直していく時に来てると思います。

そもそもスーパーで文句言ってしまうお客さんは、ここの相手の背景を想像することが日頃から苦手なのかな、って思うんだよね。

で、それを普通だと思ってやってるからだんだん年取るにつれて自分は間違ってない、思い込んでいくというか。

 

私の場合なんだけど、私はここで自分の優しさをどう使えるだろうってかんがえる。

優しさの上に行動する、ってことに責任を持つ努力をする。

それがいつでも溢れる人になれるように、自分はどんな優しさを持ってて世の中に倒してどんな希望を持ってて、行動していくかを時折考えながらいきるようにしてる。まだ習慣付いてる途中だから、ここはすごく意識してるな。

 

そうした時にね、ふと自分の過去を思い出した。

私の不安は両親に自分が存在してることを喜ばれてないって感覚で育ってきたから、自分がここで生きてることが不安だったんだよね。自分はどうなってもいいって思ってたし、そもそも自分は何もできない人間って思い込んでたことで、自分が知らない部分の自分に対して恐怖で、誰かを傷つけたらどうしようって不安だった。

 

苦しいけどね、そこを時間をかけて整理したなあ。

実家から離れて、周りにいる人がくれる愛を感じる努力をした。

ああ、親からは願った愛をもらえなかったけど、私って愛してもらえる人間だったんだ、って気持ちが湧いてきたんだよね。

そうして、自分の中にある優しさをしった。それを紐解いてみたら、自分が思うよりずっと自分が優しかったことを知った。

ただ生きてくる道が苦しかっただけで、私は懸命に生きてきたし、優しさから両親を支えてどんなことも受け入れてきた。

そうして周りからの愛にも気付き始めた。母は精神を病んでたから、ひょうげんは良くなかったけど、愛する努力はしてたんじゃないかな、って感じられたし、私と関わって優しい気持ちでいてくれた人がたくさんいたんだよね。

だーって涙が出た。ああ、今までの自分は間違ってなかったし、意地悪なわけでもなかった。大丈夫、私は私として生きてていいんだ、ってね。

 

愛と優しさを大人になって知った分、私はその言葉の重みを感じてる。

そしてね、感謝してる。

自分を大事にしてくれる人に本当に感謝してやまないから、理性を失うような生き方はしない、っていしきしてる。

 

 

ここが一番いいたかったことだなー。

こんなご時世で不安が極度に向かいそうな中、夏休み返上で学校で勉強してる場合じゃないんじゃないかって思う。

人々が理性を失わない自分でいる努力をすべきだし、そういられる関係性を作っていく方に気持ちを向けるべきじゃないかと思うの。

 

私たちの世代から忙しくて、毎日学校行って習い事行ったり学童に行って、自分一人で没頭する時間が減ってきた。それって自分を知る時間、自分が楽しかったり、あとあじわるかったり、悲しかったりする時間を味わってないということだと思うんだよね。

 

そして今は習い事も増え、学童から習い事に行って両親が仕事から戻る七時頃うちに帰るって暮らし。

忙しすぎて自分はどうしたいのか、ホッとした中で考える時間ないよね。

大人のスケジュールで暮らしが決められていく。

 

鬱が増える背景はそんなこともあるんじゃないかなって思ってきたけど、こんなことになって、私は、うつをとんで不安から犯罪につながっていく危険性もちょっと感じてます。

お互いがピリピリした中での口論はもはや止めようがない。

 

だから理性を失わないということに意識を向ける。

抱えた不安を少しでも減らしていくにはどうしたらいいか、丁寧に模索し、自分が周りから大事にされてることを感じる努力をする。自分が今ここで生かしてもらってることに感謝できるということは、何かが起こった時はもちろん、そうでない時も自分を制する。

 

家族夫婦で一緒にいるのが辛かったら(私が幼い頃から、家族仲が悪くてそうだったけど、子どもだけがそう感じてるお家は、どこからかフォローが必要だけどね💦)、その原因が何かを考える。今までは週末だけ一緒に過ごしてレジャーに行けば、楽しかったね、ですんでいたかもしれない。でも、一緒にいる時間が増えた今、家族の中でのお互いの存在を認め合う作業をここで丁寧にしていくことが必要な時になってると感じてます。

物理的に忙しくなるということは、きもちもはなれてる部分が少なからずあるはずだから。

 

なので、夏休み返上の学校再開より、今超えなくちゃ大きなことに発展していく問題を抱えてると思います。

「理性を失わない=自分の人生を大事にできる、自分が愛されてることを感じられる」、人間に育ってもらえるよう大人が努力する時だよね。大人が崩壊したら子どもの倫理も崩壊する。大人が崩壊しないように、社交辞令でなく、まめにテレビ電話できる友達家族もいたらいいよね。

 

家族ぐるみで友達の関係、って大事だと思う。

家族みんなでお互いに楽しめたらいい。

 

我が子たちのように自分の中にある優しさを大事にできる人間でありたいと思う。

それが小さくであれ、これからを支えていく力になっていくはずだから。