日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

ただ今、嫌な自分を味わってます。。。。。。。。。

ひさびさに、ムスメにいかった。

 

怒った、というより、いかった。

 

そして、冷静な自分になってみて、そのいかりは自分の問題であることに気付かされた。

 

ムスメにつたえたいことはあった。

でも、いかりを長引かせることでもなんでもなったのだから、あそこにかけた時間の大方は自分の問題だったと気づき、いたく反省した。

 

自分の感情を自分でエスカレートさせてムスメを、傷つけた。

彼女の涙を思い出しながらそう、好きではない自分の抱えた姿を、また目の当たりにせざるを得なかった。

 

傷をつけるような表現をしたことを悔やむ。

成長過程の最中にいる彼女を待てなかったわたしの問題であり、彼女は十分に優しさを持った1人の人間だってことを今の思い込みですっかり忘れてた瞬間、わたしの自分勝手なことばがでた。

 

あなたは優しくない。

 

そう口にしたわたしが一番優しくなかったね。

 

いかんせん、わたしはそだってきた環境がこうしてたまに顔を出す。

変わろうと決め、好きな自分であれるよう努力をし続けているつもりだ。

 

そうして、好きじゃない自分でいることを一つずつ手放せるようになってきた。

されてきて嫌だったことはしない。

自分が後悔するようなことは何度もしない。

 

自分が手放したい自分の姿を嫌という程味わってきた。

味わって、味わって、味わい尽くして、ようやっと、そうなら手放せばいいじゃないか、と学んだ。

 

わたしの母が精神を病んでおり、感情に任せ、自分の思い込みの習慣に任せ、あなたは幸せになんてなれない、と繰り返しわたしに伝えてきたあの時間の苦痛を、大人になって、いかほどの苦痛だったのかを理解したんですよね。

同じように我が子にやってみて、そんな自分にくいていくうちに、そんな自分の本心をしった。

 

幼い頃はそれが当たり前だったから、そこから自分が離れられるなんて思っても見なかったことだから。

子どもは自分のいる環境を受け入れる。

そうして生きていくしかないから。

どんな親であれ、必死に食いつき、大事に思いながら生き抜いていこうとする。

子どもは自分の親の幸せを願い、そばにいてくれる存在なんだよね。

それを自分の経験上、知ってる。

 

親を守るために、たくさんの矛盾の中でわたしは生きてきた。

そう昔を振り返り思う。

 

我が子を授かり、それを一つずつ紐解いて、愕然としたこともあったけれど、わたしにはちゃんと信念も育っており、いいお母さんになりたかった。

ただただ家族という居場所にホッとし、笑いながら暮らせる家族でありたかった。

 

でもいいお母さんがなんなのかわからず、自分の求めるお母さん像と、自分が向かって行ったらいい方向が分からず、時折誰かにぼやいた。

 

イライラした時の矛先のない怒りを家族に向けることが辛いと。

当時、自分が心地いいことをする、という経験もほぼなかったわたしにとって、この言葉は、なんでもいいからアドバイスが欲しいという、見えない道を探すためのSOSの言葉だったんだと思います。

 

けれども、帰ってくる答えは大抵、人間だもん、イライラもするわー。

完璧をもとめすぎなんじゃない?

 

という言葉だった。

完璧なお母さん、いいお母さんってなんだろう?

わたしは完璧を求めているの?

ずっと、わたしの中で描いてきた疑問だったよね。

 

それが今になって言葉になった気がします。

わたしは、いやなじぶんでいることにたえられなかっただけ。

完璧が何かわからないわたしに、素晴らしいお母さん像なんてわからない、笑。

それに、いつも旦那さんに文句を言わず笑っていて、我が子にもいつも諭す用に話ができる、そんなの、人ではないよね、って今は思うから。

神様だわ、きっと。

 

人は家族であれ、相手の今が分からないことがあるから。

お互いに成長して生きているから、分からない時があるから。

そんな時はぶつかる時もある、誤解しちゃう時もある。

そう、いつでも文句言わず笑ってるお母さんはあまり幸せではない気がするから。

お母さんだから我慢してる、それだけだから。

わたしのなりたいお母さんじゃない。

 

家族のお互いのいろんなとこを知って、今のいろんな想いも知って、笑って、おこって、間違えたら謝って。はっきりいって子どもも大人もなく、同じようなレベルで暮らす方がわたしはよほど楽しかろうとおもっており。

 

わたしは家族の中でいいお母さんでありたかったわけではなく、自分が思う嫌なお母さんでありたくなかっただけ。

課題はありつつも、なんとなくうちにいても楽しい、そこで一緒に笑えるお母さんでいたかっただけ。

 

こうしていかって、反省しつつ、笑ったり、わたしはこう思うなーって話したり、お互いが心地の悪さを感じずいられる家族でありたかっただけ。

 

自分が向かっていきたい方向が、あまりにも未知な生き方で見えなかっただけだったんだっておもいます。

心地いい家族のあり方が分からなかったの。

いつも帰るの辛いなーて時間を潰していたわたしにとって、こんな家庭は嫌だなっていう具体的案はあっても、それを解決する方法知らなかっただけ。

 

それなのに、我が子が来てくれて心地よさと真逆にむかう自分を目の当たりにせざるを得ず、あせって、いいお母さんって何?って問うて。

 

 

数年かけて、そういうことを一つずつ一つずつ消化してきたわたしは、嫌な自分をとことん味わう、嫌な時間をとことん味わう、矛盾した気持ち悪さをとことん味わう。。

そういう方法を身につけました。

 

とことん味わって、じゃあ今の自分ならどうしたいか、どうできるかを一つずつ具体的に行動に移していく。

そんな方法を。

 

昨夜、久々におこった心の爆発でわたしは、嫌な自分を今、とことん味わっています。

人間なんだもの、仕方ないじゃない。

って言われてきた言葉にどこにわたしは引っかかってきたのかを振り返る。

 

そう、傷つけられる辛さを痛いくらい知ってるわたしにとって、明らかに相手が傷つくような表現をすることは、感情が穏やかになった時のわたしには耐えられないことだから。

 

そう、人間だもの。

その表現を変えていくのに時間がかかる自分を受け入れるしかないのはわかってる。

でも、これはわたしにとって仕方がないことではない。

変えなくてはならないこと。

 

今でなくてもいい。

嫌な自分をとことんとことん味わってるうちに、本当に嫌になってグッと変わっていく瞬間が来るから。

そうしてわたしは変わらせてもらってきたから。

自分を待つしかない厳しさをえらんでます。

 

でも、傷ついたムスメの心を待たせるのは嫌だから、朝一番でムスメに心から詫びようと思います。

そう表現せざるを得なかった自分の未熟さを。

あなたが間違っていたわけではないことを。

わたしが変わりたいとねがって、自分に時間をかけるしかないことを、きちんと丁寧にお伝えしようと思う。

そしてあの時、つたえたかった真意は何かということも。

もはや傷ついたということしか残っていないだろうムスメの心にお詫びとともに伝えたいなと思う。

 

彼女がわたしの用に、傷つくことに慣れてしまわないようにしなければならないことがある。

自分のことを好きでいられるようにいて欲しいから。

 

嫌な自分を、不甲斐ない自分を味わい尽くすしかないんだよね。

味わい尽くして、自分が変われる方法をふと見つけたその時、手放せる瞬間はやってくる。

 

わたしが受けてきた辛さは母も受けてきた辛さであり、きっとおばあちゃんも受けてきた辛さだから。

それを覚悟を決めて断ち切りたいと願うわたしは、自分がしなければならないどうしても譲れないことがある。

 

我が子たちが穏やかな心で生きていくことがわたしが未来にのこせること。

わたしのような苦しみを抱えた人をこの子達がそっと側で癒してくれるかもしれない。

わたしが優しくなることが、世界を変えていける方法なのかもしれないと、小さく、小さく思っています。