日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

山から教わった大事なこと。

自分がそれだけ愛されているのかを知ることは、生きる希望。

 

それをしろうとどりょくする習慣がついていけば、どこまでも自分の人生の根っこを伸ばしていけるのだとおもう。

そんな日々の考察と実践。

 

 

やまにくらしてかくじつにかわったこと。端境期はサバイバル!!

 

冬は保存した根菜で過ごし四月になると根菜類はカビも出てくるし、ストックが底をつき始める。

なので毎年四月と五月はサバイバル。

 

四月。ゆきがとけはじめた大地からやまわさびとふきのとうをゲット。

それと去年の秋、おやさいがたくさんあったから手を出さなかった、大家さんがずいぶん前に畑の外に投げたキクイモを掘り起こしてみる。

あったー!!!!!

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ポコポコとたくさん出てくるので3日に一度くらい必要な分だけ掘っていく。小さめのや虫が食ってるのなど半分くらいはまた土に戻す。来年、またこのサバイバル時期を乗り切るため。

世話をしなくて育ってくれる奇跡。石が多いこの山の土、丁寧に丁寧にてで取り除いていく。

その作業はけして大変、ではなく世話なしで育ってくれる奇跡に感謝が勝る。

大地からのプレゼントにただただ感謝で、ここにうえさせてもらうことにいつも感謝しながら来年用の芋を戻していく。

 

アイヌの人は、山菜を取るときは三分の一は鳥や動物用に、三分の一は来年用に、そうして三分の一だけ自分たち家族がいただくそうだけど、その精神がすっとここに染み入るいまの暮らし。

自分たちがギリギリだし、毎日同じもの食べてるけどスーパーに行かずに暮らせてるのは自然のおかげ。

食べ物を得て、花がさきはるがきたことを、心から喜ぶ。我が子たちが雪解け水で遊べるのを喜び感謝する。

 

「自然に優しいくらしを。」

 

いつの頃からかそういう感覚がなくなった。

私たちは自然から多くをいただいており、いただいているばかりだ。ただただ感謝しかない。

そんな相手に、優しくなんて驕っているようで到底思えない。

だからせめて慎ましやかに暮らしたいと思う。

 

慎ましやかに暮らすってどういうことだろうと、山で暮らしながら考える。

 

昨日もね、この冬初のネズミが我が家に侵入してきたんだ。

食べ物を食い散らかすこと、ウンチをいろんなとこですること、それを考えると、今の私には捕まえるしか知識がない。

前の冬も一匹だけ、捕まえざるを得なかった。

その辛かったこと。もうくるなよーって言ってるんだけど、またやってきちゃったんだよね。

 

ピッタンコにくっついて動かなくなったネズミ。その小さな、可愛い顔に命の重みを感じながら、お空に返す。

自然の中でくらすということの厳しさを感じる。

空に返したその命に、せめて私たち人間だけがどこまでも上の暮らしをしたくないなって思ってしまう。

 

だからサバイバルな暮らしもする。

いつも好きなものばかりを食べないで採れたものだけ食べてくらす。

突然詰まったトイレに対する焦りや怒りも起こらなくなった。とりあえず玄関フードにたらいさえ用意しておけば大丈夫。そうして明るくなったら山に返せばいい。山に返すのなら、できるだけ山のものを食べたほうがいいよね、そんなことを家族で話しながら。

 

空気を汚したくないよね、ってリアルに思う。だから自然に脱プラスティック。

海を汚したくないよね、って思う。だから自然に脱石鹸。魚も鳥もみんな苦しんで暮らして欲しくないから。

 

 

自分が受けてる恩恵に少しずつ気づけるようになった。太陽の暖かさ、あかるさ。

ビニールハウスに注いだ太陽熱はタネを芽ぶかせる。タネが目を冷ますには温度が必要だと今年初めて知った。去年はポットの中でだいぶダメにしたから。太陽の熱が新しい命に力を与える。

私の体温で芽吹かせたタネ。一ミリの小さなゴマから3ミリにも及ぶ根っこが出てきて命に子どもたちと力強さに息を飲んだ。

この感動は教科書の写真じゃ味わえない。

知は行動なり。種を芽吹かせてこそ知ったこの感動から学んだこと。

 

自分が今ここで家族といることが嬉しい、そう思える心の状態が奇跡で素晴らしいことで、そう思えるのは自然のおかげなんだよね。

太陽さんがからだをげんきにしてくれる。

雨が畑に降り注ぎ、これで育つってホッとさせてくれる。

蛇が住み着き、ネズミをうちに寄せ付けないでくれる。

 

厳しいこともある。

うちにネズミが入り込んだとき、食料を食い荒らされるので捕まえなければならない。

一昨日今年初のネズミが入り込んだ。あんなに来るなよーって行っておいたのに、(>_<)。

 

前の冬はクマネズミだった。

かぼちゃを食い荒らされ、何日もかけて経路を見つけての捕獲だった。

ぺったんこにくっついて死んでしまった可愛い顔を見てごめんねと言いながらお空に返す。

彼らも生きようとしてただけなのに、ごめんね。

ただただそう思った。その気持ちを察した娘が、それから1週間毎日ふと、ネズミごめんね、と口にする。そうしてみんなでごめんねと、手を合わせた。

1つに命の重いこと。

 

だからこないで、って行ったのに。

ネズミの夜中に叫び声で目が覚めて、しばらくして静かになったから逃げたと思った。逃げたことを願う自分もいた。けど、壁を開けてみたらぴったんこにくっついていたんだよね。。

やっぱり可愛い顔を見てごめんね、って重い気持ちのままお空に返した。

私たちも同等の動物だ。

生きることと死ぬことについてかんがえる。

 

厳しいよね。

でもこの想いを持っていきていく必要があるんだと思う。

そしてね、わたしは自然からこんな風に生をもらうこともあるんだと痛感せざるを得ない。

 

だから、わたしは地球に対して謙虚でいなけらばならないとおもう。

そういうきもちをやまでのくらしが気づかせてくれた。

 

自分の生を大事にすること。

他人や他の生き物の生を大事にすること。

生き物だけでなくこの世にあるものもきっと同等なのだと思う。

 

色々あれどわたしはここにある。

そうして生きることを選んでる。

ならば日々がこんなに支えられてることに気づく必要があるよね。

感謝で溢れる日々であることを。謙虚であらねばならない意味があるということ。

 

わたしは子どもたちに伝えたいのはそれなんだと思う。

休校や夏休み返上の議論に対しておもう。

大事なのはその人の生を力一杯いきていく必要があることを大人が伝えていくこと。学校が必要な人もいるよね。

大人は、子供が日々どんな気持ちで生きて行って欲しいかを考えることがひつようだとおもう。あなたの価値は学力じゃない。勉強ができようができまいが、関係ない。親は子どもにたいしてあなたにはどんな優しさがあって、喜びがあるのか知っていく必要がある。

それによって、その子の素晴らしさを知り、自然に敬えるようになるから。

そうして、どれだけ私たち人間が自然から恩恵を受けてるのかをしれたらもっといい。感謝が自然に湧いてくるから。

 

自分がどれだけ支えられ愛されているかを知ることは生きる希望。

その習慣がついていけば、しっかりと自分の人生の根を自分で伸ばしていけるので思います。

 

子どもたちはどんどん大きくなっていく。

この休校の時間にも、できることがたくさんある。そんな生きている時間を無駄にしないようにわたしはいたいとおもう。