日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

学びについて考えたくなった。その1。

イムリーにいい本をお借りした。

「怖れるなかれ」愛と共感の大地へ     ビノーバ バーベ

 

ここにあった教育に話がとっても面白かった。

日本の普通の教育を受けてきた私が原始的なタイの村で感じたことを言葉にしてあった。

 

❶教育とは喜びなり。

「小さな子どもの体を鍛えるのはあそびです。遊んでいる時、子供にとって外の世界は消え失せている。無我夢中で、空腹や喉の渇き、苦痛や疲労さえも感じない、ただ遊びの歓びだけがある。」

 

「教育は卓越した個性の創造に関しては無力である、という教育思想家のハーバード スペンサーの言葉。シェイクスピアが演劇理論を学ばなかったように、方法論ではなく、生きた行動の中にのみ存在するのが教育というものだ。生きた行動の中でこそ、学ぶ気は起こり、その気はないのに押し付けられては消化不良を起こすだけだ。」

 

「教育は実生活の文脈のなかでおこなわなければなりません。子どもには野原で遊んでもらいましょう。そして疑問が生じたら天文学や物理を教えるのです。料理をしてもらいましょう。そして必要が生じたら化学を教えましょう。子供にはそばにいてくれる大人が必要です。先生と呼ばれる人ではなく、普通の実生活を営んでいる大人でいい、子供を導くには自ら懸命な生活を送りながら、必要に応じて、人生や仕事について、きちんと説明できるような大人です。

 

教育とは子どもの頭に情報を詰め込むことではなく、知りたい、わかりたい、という欲求を起こすことです。先生と生徒はお互いの触れ合いを通じて共に学びます。両方が学ぶ人なのです。真の教育とは、経験し、味わい、消化すること。教えられること、記録することは教育ではない。

 

そして知のみではなく、無知も必要です。全てを頭に詰め込もうとしたら、気が狂ってしまう。忘れる力は覚える力に劣らず必要なのです。」

 

❷自由と自立

「学校で生徒が学ぶべきなのは、自らの足で歩み、自ら知識を習得する、ということなのです。

 

ほとんどの親は、子供が学校を卒業し、給料取りになって楽な生活を送ることを望んでいます。これは教育に対して間違った見方です。学びはそれ自体に価値があるのです。そのさいしゅうもくひょうは自由です。自由とは他者からの自由だけでなく、自分自身の気分や衝動からの自由をも意味します。自分の感覚の奴隷になり、衝動をコントロールできない人には自由も自立もありません。」

 

「子供に勉強させたことはいずれ忘れ去られます。生徒が100点満点の33点で合格させてもいいはずです。3分の2はまちがえたわけですが、それでよしとするのです。その三分の2は、その生徒にとって覚える必要がなかったとしましょう。

 

教育課程を終了する時、生徒が自分自身の力を信じることができること、それこそが重要なのです。」

 

「教育の目標は恐怖からの解放です。何が良くて何が悪いか、自分で判断し、動けるようになり、恐怖から自由になる力をつけていくのです。

 

恐怖からの自由は自分自身の知識によってもたらされます。けれども教育者が体罰を与えることがある。体罰を与える大人に対して屈しないことを子供たちの教えなければなりません。

 

今や家庭でも体罰が起きている。

親は、彼らの一言一言を信じ、彼らを信じきっている子供を神から授かったというのに、その親が体罰を与えるとは。まず私たちは恐怖からの自由を家庭から教え始め、さらにそれを学校まで広げていかねばなりません。」

 

長いのでまた次に続こうと思います。

1つ1つが今向き合う必要のある大事なメッセージだと思うのです。

 

ここまでで私がどなたか理解してくださる方とシェアしたいことを最後に書いて今日は終わりにします。

 

生きる力を育むには大人がそばでともに生きていくこと。

食育は給食中に栄養士さんに教わるのではなく、信頼できる大人との生活の中で、見て、身体を動かし、生かされていることに感謝をする会話の中で育っていくもの。

 

今の時代なら実の親でなくても、近しい家族友達の親でもいいと思うのです。

これから先ももし社会の仕組みが変わったとしても、医療やライフラインなど社会で必要な仕事があって親が不在の選択をするお家だってあると思うのです。そんな時は近所の親しい家族やお年寄りなどを頼れるようにあったらいいし、助けてもらうだけでなく、その方にも必要なことがあるでしょう、助け合えたらいい。

 

そしてね、それは子供に対してだけではなく、大人にとっての学びでもあると私も思うのです。

自分がどれだけわかったふりをしてきたのだろうかと、気づき、じぶんのからだを使うようになることで自分がぶれなくなって行く。

素直な子どもと過ごすことで自分の素直さが呼び覚まされ、自分が生きやすくなっていく。

 

急に子供たちと過ごすようになって、付き合うの疲れたって思ったら、それを夫婦で話し合って助け合ったらいい。この話し合うって作業を怒りという感情を上乗せせずに、夫婦で日頃からできるようになったら素晴らしいこと。

 

子どもたちに素直に伝えて時間をもらったらいい。

子供に素直な気持ちを伝えるって大事だから。

疲れちゃったの、助けて。って言ったら助けてくれるよ。そしたら親も心から子供に感謝する。そうしてね、子供に感謝がたまり、敬いの気持ちが溢れてくるから。親がそんな気持ちになっていくって必要なことだと私は思う。

 

夫婦でうまくバランスとって助け会えない時は、もし、公園行く約束しててもお願いしたらいいと思うんだよね。今日はちょっと自分の時間が欲しいの。なんか気持ちの調節がうまくいかなくてイライラしちゃうから。楽しみにしてたのにごめんね。明日は必ず行こうね、って次の予定はかえない。

そしてそんな時は、子供が賛成してくれるならユーチューブやDVDでもいいと思うんだよね。

 

約束を守ることにこだわってるのは案外大人だけで、子どもの方は器デカくてフレキシブル。

子どもの方が大人の気分の小さな日々のドタキャンや、言動不一致にずっと付き合わされてるしね。

親が素直であれば、むしろ安心すると思うんだよね。

しょっちゅうじゃあ、信用に関わると思うからそうなるなら予定は公表しないほうがいいけど。

 

私はそう感じています。

わたしたちがタイの村と日本での暮らしを積み重ねていく中で、この思想と私たちの暮らしが近づいている気がしています。理想ではなくリアルの暮らしの中で、自分たちが積み重ねたことが、この思想の中に詰まっていました。

こんなふうになったらいいな、と憧れをいつまでも抱き続けるのではなく、確実に何かを自分の行動の中で実践していくこと。

わたしは多くの子供たちに、という大きなことは初めからはできない。

けれどもまずは我が子とわたしたちから始めて行ったら、いつか、確実に大きく広がっていくと思うので、まずは我が子たちの笑顔を原動力に始めています。

 

こんな話をできる家族仲間が増えて行ったらいいな。

まずはオンラインでもなんでも。