日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

人生は才能?

気になって仕方がないことがある。

 

うちにはテレビがないからときどきしかはいってこないけど犯罪のニュースを目にした時。

一通り聞いて、出演者のお話も聞いた後、いつもおもう。

その事件の凶悪さがどうとか、ではなくこんな悲しいことが起こったのはなぜか、その犯罪をしてしまった人の背景をかんがえてる。この人はどんな育ち方をしてきたのだろう。どうしてそういう行動をしなければいけなかったのだろう。その人の背景や抱えてきた心を想像する。

 

誰かと接していて、なぜ、この人は感謝の気持ちを持たないんだろうと思ったことがある。長い時間一緒にいた中のたくさんの場面でその気持ちをもった。

そしておもう。この人はどんな育ち方をしてきたんだろう。どんな風にかぞくとかんけいがあったのだろう。家族の中でありがとうって言葉は飛び交わなかったのかな、と。

 

お前、いい加減にしろよ!と怒鳴ってるお母さんがいる。見ていて気持ちよくないな、それは本音?子供の心理は大丈夫だろうか、とおもう。それと同時になぜそのお母さんはそういう接し方をせざるを得ないのか、思いを巡らせてる自分がいる。多分彼女がそうせざるを得ない理由があるはずだ。

 

そういう場面に出会ってはぐるぐると思いを巡らせてしまう。

 

人のことなのにね。なんでこんなに気になるんだろう。

そんなわたしに旦那さんは面白いことを言う。

その特性はわたしの才能だ、と。

才能、か。

うーん、困ったなあ。。考えさるんだよね。どうなんだろう。。。。

 

そう考えながらふと思う。

 

自分は親との関係に苦しんできたんだよね。

暴言もたくさん浴びてきたしね、そんな中にいた自分はいつも消えたくて、自分を信じることさえできなかった。

 

それを時間をかけて苦しんで這い上がって、自分の過去を整理した。

自分は何が苦しいのか、どう育ってきたのか、こんな生き方で幸せなのか、と。

そして親の過去にも向き合った。彼らはどうわたしを育て、彼ら自身は育ってきたのか。

 

そうしてね、見つけたんだよね。

わたしの苦しみは彼らが背負ってきた苦しみだった。

彼らも違う形であれ、悲しい気持ちを常に持ちながら育ってきたことを知った。

本音を素直に言えないなかでいきてきたことをしった。

 

わたしはそう育てられたことを受け入れざるを得なかった。

そして彼らは彼らなりに一生懸命生きてきたことんだと言う答えをわたしは見つけた。

 

だからね、気になっちゃうんだよね。

あれ?、っておもったとき、その人は自分がひび幸せに向かえるように生きてるのかな、って。

 

そして、自分が子供たちにとても気をつけていることがある。

自分が完璧な訳はない。だから彼らの思いに気づけないこともたくさんあるとおもう。

けれども自分のできる限り、我が子の足を引っ張る親でありたくない、と。

 

だからわたしは専業主婦をする。

家族を全力で愛すると言うことはどういうことかしりたいんだよね。

 

この気になることから生まれることがあるのかもしれない。

わたしは苦しいだけだと思ってきた自分の人生を今は仕方なかったよね、それなのによくがんばったねえ、今は日々幸せを感じられる人でありたい、って意識してる自分がいるからっておもえる。

わたしが思ってた以上にわたしは強く優しいんだなあーって思えるようになった。未熟さはたくさんあるけど、それを抱え続ける覚悟もできたんだ。

 

消えたい、って思ったいたらできなかったことだから。

自分は自分でいいんだ、そう思えて1つずつ超えて行く日々。

 

そんな自分が生きてきた道が誰かを支えることがあるのかもしれない。

そしてそんだけ考え続けてきた人生だから今は人の中で騒ぐより、静かにミシンを踏んでいたい。

誰かの笑顔を見にパネルシアターをしたい。

心を緩めるために気持ちよくウクレレ弾いて、ちょっと歌って、自分の中の小さな自分が喜ぶように、いまの家族と楽しい安心できる時間を過ごしたい。

そして傷つけてきた自分の心と身体を自分で癒せるように、リラックスしたり、子どもたちの笑顔を眺めていたりしたい。

 

そのためにしている努力もある。

できない今の自分をそのまま受け入れて、できるようになるまで待つこともしながらわたしは自分がどんな人でありたいか考え続ける。

自分が何を大事にしているか、知っていく。

そうして日々を生きていつまでも成長して行く。

 

たくさんのことを受け入れられずに怒鳴り続けた母の苦しみは今、わたしの中で自分の人生の時間の怒りの時間をすくなくしたい、っておもいを意識づけてくれている。

怒りと憎しみ、悲しみと不安と恐怖は、なるべく小さくしたいから。

 

虐待で受けた脳の損傷を癒すきっかけをくれた人生の先輩がいます。そして今きっとわたしは自分でその傷を癒し続ける力を持っている、そう感じています。

 

それはあなたの才能でしょ。

この言葉はわたしの人生まるごとを肯定してくれてるみたいだね。笑。

自分はどんな人間か知るということ。

自分の弱いところも変わったなあ、うれしいなあって思うところも。

そうして自分はどう生きて生きたいか意識して行く、ということ。

 

自分の思いも自分の過去も自分の弱さもたくさん聞いてもらったね。

黙って聞いていてくれた旦那さんに感謝してます。

自分を感じられる心になりました。

とても大事な作業だったよ。

そしてね、改めて感じています。

 

夫婦関係を大事にして行くことの大切さも。

余裕がなくて旦那さんの話を聞けなかった頃の自分。

落ち着いた気持ちで聞いてみたら、かも合わなかったお互いの行動が、旦那さんもわたしを思い、子供を思ってくれてた。

それが腑に落ちて申し訳なかったね、と言う気持ちとありがとうと言う気持ちで日々がある。

今、ともにいる暮らしの中でめんどいでしょ、って言われたりもするけど、わたしは、いてくれてありがたいんだよね。色々あるけど、土台に旦那さんの思いがあるよね、って想像できるから。

そしてようやっと、こどものおもいをなんできけないの?と、パパを悪者にすることなく、子供達にこんな言葉を口にするわたし。

大ちゃんの気持ちもわかるけど、パパもそれが苦手なんだよね。わたしも手伝うから、どうにかそこにより知ってあげる方法はないものかなあ、と。

 

思うことで思い合える。

それを実感するとともに実家の両親の生きづらさをかんじ、実家の家族環境がそうせざるを得なかったことを自然に理解して行くことの積み重ね。

 

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わたしはそんな今の夫婦関係を大切にしていきたいとおもっています。

そう思えるのもわたしの才能だね、笑。

 

怒ってごめんね。

「最近怒ったりグジュグジュばかりでごめんね。」

 

こっこが布団の中で私にしんみりと言ってくれた。

それを聞いてハッとする私。

 

こっこはいつも怒ってるわけじゃない。たくさん笑うし、集中してお裁縫もするし、泣いたり、おしゃべりで盛り上がったり、いろんな表現をしてくれる。

でも、この頃怒って表現することが多かった。

それはなぜだろう、怒らねばならない彼女の状況なのだろうし、怒りで表現せざるを得ない彼女が苦しいはずと、私も考えながら過ごしていたのだけど、さりげなく声をかけてことに怒って返されたり、兄弟喧嘩のしょっぱなからげんこつでかかっていくのを見て私の感情も高まってしまうことも多く、私もイラっとしながら切り返してた。

 

怒っていうことないでしょう?

私も気持ちが高ぶりながら話してしまったこの頃。

 

こっこの言葉にハッとする。そして、気持ちをこっこに集中させる。

 

怒る、ぐずぐずする、表現は悪いこと、捉えさせてしまったのかもしれないってハッとする。

そして伝え直す。

ああ、最近私はこっこに怒ってばっかりで嫌だっていってたね。ぐずぐずがいやだっていったね。

怒るのはいけないことだって思わせちゃったかな。そうだとしたらごめんね。

グジュグジュもね、こっこがそういう風に気持ちを表現せねばいられないこともわかるの。でもごめんね、私がそのままこっこが変わっていくのを待てればいいんだけど、ぐずぐずさんだけはどうしても苦手でね。だんだんイライラしてきてしまうの、なので違う気持ちの伝え方があるといいなっておもうの。

 

こっこがおこりたいくらいの感情だったのだとしたら、それも大事なこっこの表現だと思うの。だからこれからも怒っていいんだよ。

こっこの気持ちを抑えることの方が私は嫌なんだ。

私が本当につたえたかったことはね、怒って相手にぶつかる以外の表現の仕方もあるんだよってことだったの。

グジュグジュさん以外の方法で伝えることもできるよ、ってことだったの。

 

でもね、今すぐにそれを変えてね、って思ってはいないんだ。

私もそういう部分があるのだと思うの。きっとこっこに混乱させてるのかもしれない。

私もこゆにとって気持ちよくない表現は変えて行く努力をするよ。

一緒にもっと気持ちよく暮らしていけるようになったらいいなって考えてる。

 

たくさん怒っていいから。一番大切なのはこっこの伝えたいことを大事にすること。

伝えたい時に伝えないと伝えることができない人になって行ってしまって、こっこが辛くなるから。

うまく伝えられなかった私を許してね。

 

大事なことはことばではつたわらない。

私が日々行動をしていくしかないと思う。

だからこっこが怒りで表現しなければならないことの理由の1つに私の姿もある。

 

丁寧に毎日を紡いでいきたい。

だから私はいろんなことはできない。

片付けだって完璧に綺麗にできない。それより子どもたちの喜ぶ顔を1つでも多く見たいから。

日々子供たちと過ごし、だんなさんとすごし、自分も見つめる。

頭でいいと思っていたことが家族と丁寧に過ごす中で、違ってたやーん !!ってガツンとくることもある。

 

家族と過ごす日々の中に自分を育ててくれるエッセンスがたくさんつまってる。

まだまだみじゅくものだけど家族それぞれが自分を素直に表現できる姿を認められる私でいたいとおもう。

 

だからどこに出かけても家族の愚痴を言わなくなった裏表のない私は少し成長したよね。

だってさ、いつだって本気で向き合う私は今の一人一人が全てでこれ以上でもこれ以下でもない。

だから愚痴ることもなくてさ、ママ友と話が合わない、笑。

 

 

 

 

褒めることと認めること。

褒めることと認めること。

 

最近ある経験からそのことについて考えてる。

子どもたちが過ごしてきた幼稚園が生活の一部、暮らしの一部として存在しことなも子どもも対等に人として成長していこうという考えのもとであるから、自分自身がどう我が子と関わり、こどもたちにつりあうように成長していけるかをいつも考えてる。

 

わたしはね、保育士時代、褒めて伸ばす、のが自分の仕事だと思ってた。

すごいねー、よくできたねー。

でも、わたしはジャングルでの暮らしと、ここで、自分はどんな人間として行きて行きたいか、子どもたちにどんな自分として写りたいかを考え続けた結果、褒めることと認めることは違うんだなって答えにたどり着いた。これはあくまでもわたしの答えであり、そう思わない人がいると思うからそれはそれでいい。

 

とにかく褒める。日常の中でいろんなことを引っ張り出して褒め続ける。それは、そのことができるあなたがすごいということで、褒められてばかりいると褒められない部分が不安になると感じてる。何かができることがすごい、という大人の認識はその答えに応えなければ自分は認められないということにつながるのではないかと感じてます。

 

認めるって難しい。どんな時のあなたも大事なあなたです、という前提のもとにあることで、ああ、わたしはこう我が子を受け止めたいんだなって大事なことに気づかせてもらった。

ここ数年、めっきりわたしは褒めない。

ご飯を作ってくれてたむすこに、すごいねえということばがあふれる。別に褒めてるわけじゃなくて、センスも味も、彼が家族四人に寄り添ってくれる姿(アレルギーの妹に配慮することとか)、わたしいじょうのものをもってることがすごいと思うから。褒めたくて褒めてるんじゃなく、ただ、すごいよねって感動し、美味しいねってわたしが感動と感謝をしてるだけ。

娘の絵がわたしは好き。わあ、上手だねえ。本人は照れくさいのか上手じゃないよーって言うけど、目の感じとか表情の優しさがわたしは大好きで、上手だねえっていう。でもそれはわたしに取って、可愛いねえ、これ好きなんだよねえ、って言葉と同じ。

 

でもね、褒める言葉を使うことが必要なケースもあると思う。そういう人はその下に想いがあって使ってるのだろうなっておもう。こないだ見た小児神経科の先生のカウンセリングはそれをとっても感じた。

 

褒めて伸ばすことをやめたら自然体になった。

認めるということはあなたがそこにいてくれてありがとうということなんじゃないかな。

今は暮らしが忙しくて、薪運びを手伝ってくれた子どもたちにありがとうと思い言葉も溢れる。でも彼らが自分の時間を味わうことも大事だからできなくてもいい。そんな気持ちをたまにでも持ってくれることにありがたさを感じ、彼らの存在に感謝してる。

でもね、そんな時に息子はいう。動いてる私たちに気がつき、いま遊ぶのが楽しいんだ、やってくれてありがとうと言葉にしてくれる。もういいのいいの、そんなこと。自分の時間はとても大事だよ。いつもありがとうね、気遣ってくれて。

 

家族でジャングルで暮らすその時間、家族一緒だから味わえる感情がたくさんある。あなたがいてくれたから、その笑顔で元気になった。あなたと経験したことが辛かった。けれどもあなたがそのチャンスをくれたおかげでわたしは成長できた。

 

あなたがここにいてくれることがわたしは嬉しい。

 

この想いは子どもたちだけにとどまらず旦那さんにも思う。

男の人だから言葉にする必要もあるかなって意識はしてる。

けれども日常を共に過ごす旦那さんに、わたしはたくさんのありがとうを思う。

洗濯を干してくれてありがとう、子どもたちといてくれてありがとう。

子どもたちと一緒になって遊ぶのが苦手な旦那さんは、ずっとソリとかして遊んでくれない。

それが以前のわたしは不満だった。けどさ、彼なりの思いで寄り添ってくれてることを理解する努力をしてみたら、ああ、一生懸命やってくれてるからそこに感謝しようってすっと思えた。

子どもたちからはブーイング。だから時々旦那さんにも他にできることはないかな、と相談する。逆に子どもたちにも申し訳ないけど本当に苦手なんだって。あなたたちの好きなことでパパのできることあるかなあって相談する。わたしが中継の役目をしてみたらお互いがイライラせずに何かを見つけられることがあるかもしれない、そう思って今はそうしてみてる。

 

お、少しはいいかあさんになれてる?笑。

 

彼の思いを理解する努力をする。

その前提は彼にここにいて欲しいから。彼がいつもここにいてくれることがありがたいから、彼が気持ち良く過ごせるように自分ができることがなんだろうと考える。彼が大事に思うものをわたしも大事にするにはどうしたらいいかなって考える。

 

そうしてるうちに、あなたがいてくれるからわたしはこんなふうに嬉しかった、ってことが多いことに気づき、いまがそれしかなくてね。

ママ友との会話の時に家族への愚痴がなくて困る、笑。いや、わたしは言いたくないからいいんだけどね。

 

旦那さんがいてくれてすごくありがたいけど。。。

子どもたちが次々に散らかしたまま?まあ片付けたいへーん!ってボッカーンってなることもあるけど、子どもたちの想像性の高い遊びは見てて面白いからまあ、いいかなと。わたしも片付け得意じゃないから問題性があがるんだよね、すまん、、そう時々子供達につぶやく、笑。

 

それが家族に対しての認めるってことなのかなって最近考えてる。

 

そして家族以外でそう思えない相手と出会ってしまった時に、消化できない、いまだ未熟な自分もいる。

いまのわたしの器での解釈にすぎないから、その時の違和感をひきづるのはもったいないよ、そう思うのにひきづる。自分の器がまだ小さいことも自覚してる。だから自分が正しいわけでもない。正しくないと言いたいわけではなく、自分が心地よくない気持ちで過ごしたくないというだけなんだろうな。

 

今のところのわたしの器ではそれも自分的には間違ってない。

相性がどーしても合わない人もいるとは思っていて、そんな時は静かにどーもー😁と言いながら通り過ぎたらいいだけだよって自分でも思うんだけど、みないふりがいまのとこできなかったりする。まあ困ったなって人にも出会ったりするわけだけどそんな相手のいまの生き様も認めるしかないんだよね。

 

それができたら悟りであるような気もするけど、そこにいつか到達したいと思う笑。

 

大ちゃんがろうそくを作ってきたのを教わってこっこと作る。

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また大きくなってきたこっこ。いまのこっこは何が楽しいんだろう、そういつも考えながらそばにいる。

わたしは大人になって初めて自分の好きなことって何かなって考えた。そしてあるひふとはじめてハマった。好きなことを通して自分を知る。そしてそれを積み重ねた日々は自己肯定感を自分でたもって行く力をくれる。嬉しい時は一気に進み、辛いときはそれをしてわすれえることもあるし、できない時もある。なによりも好きなことをしてる時のワクワク感がたまらない。

 

おくらばせながらそんな自分の経験を通して、こっこのワクワクに寄り添えたらいいなとおもう。

自分の経験をおもいだし、丁寧に感情を整理し、子どもたちと過ごしてきた時間。なんどもあやまってやり直して自分はどうしたいのか、そうすることでこの子はしあわせかを考え続け時間をかける。

わたしがこの子たちと暮らす間はそばにいる、と決めた選択は間違ってなかった。

自分が成長できてたくさんの感謝と幸せを感じるようになった。子どもたちが素直な感情を表現してくれる。(彼らが色々気遣ってくれることも知ってるのでそこに甘んじないようにしていきたいけども)。

 

幼い頃からいつも消えてしまいたかったわたしは辛かった人生を自分の力で変えられるようになった。そしてその積み重ねが今は、辛い先にはそこを超えた自分がいることを信じてゆっくり進めるようになった。

幼い頃に闇を抱えた母は脳に損傷を受けていたんだとおもう。いつも父ともご近所さんとも喧嘩し、自分は幸せになったことなんかない、と生まれてきた私たち兄弟に言い続けていた母。わたしは結果的に、母から苦しい思いを変えられずに生きることの深い苦しみを学ばせてもらったのだと思ってる。

わたしは争うのは嫌いだ。いま理解し合えないならしかたない。相手が妥協できないことならしかたないからわたしがひく。のほほーんとしてたい。その方が自分が気持ちいいから。

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母は気づけなかったけどわたしは自分を保つために自ら争う必要はないんだって知ってる。そんな自分を愛しく思うと共に家族に感謝してる。

幼い頃のわたしの苦しみは母の60年分の苦しみなのだろうなとふと思いながら。

子どもはどんなおもいをしてもいつまでも母を思うものだから苦しみが少しでも癒されることを祈りながら。

 

 

 

プラゴミを本格的に減らしてます。

プラゴミ嫌いのわたし。

うちの庭でゴミを燃やしたことがある。

 

ダイオキシンが出るからだめ!ってことはわかってる。

でもさ、私たちはこれをしてたった一回でどれだけプラが嫌かわかった。そのことはとてもおおきい。自分たちも燃やしたくないもん。だって明らかに空気悪い。温暖化で子どもたちを苦しめると思ったらなおのこと。

竹のお箸のようにカビたら、山に投げて終わり、それがいい。でもそれをすべてに当てはめるのは普通に暮らす上では難しい。

スーパーのお魚はボウルに入れて打ってくれない、お豆腐屋さんもあまりない。

それが現実。

 

10日に一回しかスーパーに行かないのにね、プラゴミが結構出てね。

野菜もお米も卵も買わないし、ケチャップもマヨも使わず調味料は自家製味噌と、瓶詰め醤油、業務用の塩と時々油しかないから一般家庭に比べて圧倒的にプラは少ないはずなんだけど。

納豆、豆腐、キノコ、こんにゃく、お魚、米粉。。。

 

これね、燃やしてみてすごくいやになったからもっと減らしたの。

その結果、スーパーは肉や魚を買いたい時だけいく、というスタンスになった。

きのこもパックに入ってるのは買わない、豆腐は自家製、こんにゃくは大袋を買う。お魚はパック入りを避ける。米粉も自家製。

 

んで今は納豆問題。

これ、大問題だと思うんだよなあ。

3つ入りのパックを四人で分けて毎日食べたら大変でしょう。。。。そう思ったら1週間に一回しか買えない。。

 

今はマイクロプラスティックの問題もある。

いつだったか日帰り温泉行ってホテルの裏を通って川べりに降りた時の、ホテルの裏に積み上げられたペットボトルを見てびびった。楽しい裏側の残骸だった。。

それを見たら多くの人がペットボトルは買うのを控えよう、そう決めたくなるとおもう、悲しい感じだった。

 

鳥たちが取り込んでしんじゃったりしてりらしい。

もうイワシの胃袋にも入ってるらしい。

人の体への問題はわたしにはよくわからない。ざっと調べたら哺乳瓶に使われてて禁止になったビスフェノールAとか、発がん性で話題になった塩ビとかもあるからねえ。

悪いかは知らないけど、多分よくはない、とわたしは思ってる。

 

なので自主的にプラを減らしていく方向性は変わらない。

子どもたちが大きくなるにつれ魚介類に放射能以外の問題も生じるのかーとか、温暖化とか、ちょっと考えると気が重くなる。

だって幸せに生きて欲しいもん。。

ただそれだけのためにわたしはこれら全てをやってる気がする。

 

今自分ができることは自分の暮らしに関わることしかないから、スーパーにはなるべく行かない、っておもってる。

そんななか、昨日こゆが気づいちゃった。

側のおじいちゃんがなめこを育ててて、これがめちゃくちゃ美味しいの。

しめじも追加したんだけど、これ、おいしくなーいってなめこだけ全部食べてた。

娘は美味しさにえらく惚れたようで、これ幸いとこゆが手伝ってくれたらきのこも作れるんだけど、と提案してみた。(わたしに余裕がなくて色々はできないから)。

そんなわけできのこと納豆も自分ちで作れる暮らしにしようと思います。

 

私たちができるようになったら、誰かにも勧めてみる。

そうしてプラが減ったら嬉しいなあ。

それしかできない自分がもどかしくなるときもあるけど、やっぱり未来が気になるので何もせずにはいられない。

 

わずかにプラを燃やしたことで我が家はプラの使用量が大幅に減りました。

あ、あと、ジャングル暮らしの経験もあるな。それのおかげでプラがないとはどういうことかもしったから。

わずかなプラ燃やしにより、8割は減ったと思います。その方が温暖化防止への効果が大きい気がするけど、よくわからないので大きな声ではいえません。

もちろん、サランラップもお味噌を仕込んだ時の蓋とお客さんにお土産にするおむすびとかに使うだけ。だから一年に一回くらいしかかってないきがします。

 

ミツロウラップも出てきたけど、タッパー使っちゃったほうが楽だからつかってないです。

おむすびくらい包めたらいいなって思って、うちの裏にある笹の葉と新聞紙を使って実験してます。便利じゃないことに慣れると面白くてね。

 

好きじゃないものが減って行くのは気持ちがいい、それも感じてます。

麹を作って金山寺みそ。

漬物があるとたくさんのおかずがいらない。

これも家事の簡略化とプラ削減かと。。

非常食にもなります。

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こどもたちと共に暮らす中でだいじにしてること。

こゆがもうじき小学生になる。

大ちゃんはひと月くらいいったかな。

こゆはどうかな。

いくのかな。

 

思えば大ちゃんの頃は私はただただ学校教育に反対してた。

頭でっかちな私は自分で集めた情報ではなく、巷で言われるようなことを自分の言葉のようにして思いこんでた。

でも、いまは思うんだよね。

私は勉強にかける心の余裕のない家庭の子だったこともあり、勉強についていくのがひっしだった。頑張って普通レベルを保ちながら、家族平和のために時間を割いて、友達と遊ぶ余裕もなくて、学校にいる自分に違和感があった。

それにね、学校はしていいこと、いけないことを大人が絶対的ルールとして決めていて、道徳にもいつも決まった答えがあった。(そう思ってた)。それをすると、困る人がいる、という経験を伴わない事が多くてよくわからなかった。

教科書の上で教えられることを理解できない子だったんだと思う。

高校時代の数学は先生の特性を知っていたからいつも参考書を3回もこなし丸暗記して上位得点者だったな。

 

大ちゃんが入学の時は気づかなかったけど今はおもう、私が学校が嫌いだったんだろうな。

でも嫌いと自分でいうことで、受け入れられなくなるのが自分で怖くてごまかしていたんだろうな。

 

いろんな思いを勝手に子どもに乗せていたある日、旦那さんに言われた。

先生はよくやってくれてるよ、と。

組織の中で決められた場所まで子どもたちの教育レベルを上げないといけないし、私たちの頃はそういう教育が当たり前だったでしょう?だから、彼らがちゃんとレールの乗れるようにたくさんの時間をかけてくれてる。

それにさー、先生もサラリーマンなんだよ。

守るべき家族がある。

 

最後の言葉がすんなり入り、大ちゃんが入学の頃には行ってらっしゃい、って見送れるようになった。

そしてね、旦那さんのいう通り、先生は休み返上で頑張ってくれてた。

私もそんな風に保育園勤務してたな。

ありがたいことだね、そう旦那さんと話せるようになった。

 

んで、自分が小学生の頃は家庭問題もあり、本当に必死だったんだなあと振り返りつつ今がある。

学校の問題もあるけれど、おおかたは家庭の問題だったんだよなあと。

 

だから、いまはおもう。

こゆがどちらを学校に行くこと、いかないことを洗濯しても夫婦で目の前のこゆをぜんりょくで支えていけばいいだけ。

学校は学校教育という部分を担っているだけであり、人生を支えるということを担ってるのは家族だ。大ちゃんがそうおおきくなってくれてる姿をみながら、いろんな経験をさせてもらえることに感謝ができる人間でありたいと、自分に改めて感じてる。

 

そして、自分が人として大事にしたいことを改めて整理させてもらう。

 

その1。自分が大事にしているもの、関係、こと、、、、は何かをいつも考えること。そこにはいくら時間をかけてもいいと思う。そのひつようがあったら早退しておいで、とすらいうだろうとおもう、笑。

 

友達と喧嘩しちゃってモヤモヤしてる気持ちを自分が整理できないまま勉強したり、習い事に行ったりする事で曖昧にするより、ちゃんと自分の感情を味わって、自分はどうしていきたいのか、の答えを出してそれを試してみることを子供のうちにたくさんする必要があると思うから。

人は小さいうちから自分の感情を時間をかけてちゃんと味わう必要があって、それには時間をそこにそそいでくれる覚悟があるおとなの存在が必要だと、私は自分がマジで専業主婦をした事でしったから。

 

大ちゃんの心の柔軟さはすごい。私が寄り添っただけでは全く足らなかった。旦那さんが子供と過ごしてくれた事、トモエでたくさんの大人が寄り添ってくれた事、タイでたくさんの人たちが一緒に暮らしてくれた事。深い関係の中で彼はたくさんのことを感じ考えてきたんだとおもう。

 

先日、パパと喧嘩して、強く言い返した大ちゃん。正論だったけど、正論をつかれてパパがかちんとなった。この後、家族で飲み会をするつもりで楽しみにしてた大ちゃんを思って思わず口出した私。大ちゃんの気持ちはわかる、間違ってないと思う。でもさ、パパはそれをするのが苦手なのよ。その言い方がさらに心を乱しちゃったのよ。。大ちゃんが飲み会をしたいなら、言い方を変えて苦手であるパパのその気持ちに寄り添ってあげることも必要なんじゃないかな、って私は思う。と、こそっと耳打ち。大ちゃんは悔しくて泣きながらダンダンと机を二回叩いてから、パパに言い方悪くてごめんね、それでも飲み会をしたいの。と、伝えに行った。1分足らずの出来事だった。

 

ああ、私たちをゆうにこえたな。

またまた、そう感じた彼の行為。私なら今でもきっと、こんなすぐに自分の気持ちを切り替えて謝れない。彼の強さだとおもう。

 

余談だけど、私が子供との関係で大事にしてることの一つに私は子どもに何かを言葉で教えようとしない、ってのがある。数年前までそうしてたけど、最近結局言葉では伝わらないんだなってかんじてる。例えばものを床に置いたままにしないでってやつ、これね、私が100回言ってもかえられなかったの。日常の中で私自身が気をつけてそういう行為をして行くしかないいんだよね。私がああ、これ、私も癖だね。癖を直すのは大変ね、って言ってるのを腐るほど聞いて彼らは擬似体験して気づいたら浸透してる。

あと、にいちゃんがいもうとによくやるあれ、しつこくしすぎて泣かれる、ってやつとかも。これね、私が流せるようになるしかない。怒って私が声張り上げてもかわらないから。ああ、本当に嫌なのね、って本人がハッとしないとかわれないよね。自分もそうなのにねー、いまでもきっと。自分を見つめる経験が少ないんだろうな、わたし。

 

だから言葉で伝えるんでなく、自分の言葉を、行動を、習慣を、日々の中で積み重ねて行くしかないんだよなあっておもう。教えようっていう偉そうなことはやめて自分がそれをしない、ただそれしかないよなあと親である修行の道をかんじてる、笑。わたしが感情的になることもしゅっちゅうだから、いつでも目の前が直球なので、間違ったらごめんねだし、意地はって譲れなくて三十分経ってようやっとごめん、って言えたりすることもあるのが現状。

素直でいてほしいって思うくせに自分が一番素直じゃないからね。今の私は、気づいたら謝るしかない、そんな段階にいる。でもこれを積み重ねているうちにだいぶ意識づいてるので、変わって行くと思うからそんな自分を受け入れてね。でもそんな経験をしてるからこそ、おもう。素直であることは自分を大切にすることであると。

 

またまた余談だけど、とっても気になることがあった。今の小学生も誰かに対して一回死んで見れば、とか言う言葉、使うらしい。昔からいるよね、そういう人。今はわたしは思う。そんな言葉を使ってるうちに自分がわからなくなるだろうなあと気の毒だと。それが本とうにいいたかったことではないだろうから。それに私はこの言葉が好きじゃない。だってね、自分の娘が死にかけてさ、死ぬ、ということを実感してるから。今度そんな小学生を見かけたら(その時に伝わらなくてもいいから)その子に言ってあげたいと思う。うちのこゆは死にかけたのよ。一回死んだら生き返らないの。あなたのお母さん、あなたが死んだら悲しむと思う、って、母としての思いを。

 

さてさて、わたしが大事にしたいことその二。

今の自分がどんな人間かを感じてしって行くこと。間違ってしまった時の自分、こんなことが好きだって思う自分、こんなことは嫌いとか苦手だって思う自分。息子の時、学校で先生にここは苦手だから克服できるようにしています、って言っていただいたけど、必要があれば本人のタイミングでして行くだろうから今はできない、でもわたしはいいとおもう。(でも、先生は一人で進めて行くのでこまっちゃうのでそのきもちもわかる。)

素直な自分を知る事。

 

その3。そしてどんな風に生きていきたいか、を何となく考えたりしながらワクワクできるひびであること。

 

その四。自分がどんな風に暮らしているか見える暮らしをすること。

わたしはこの暮らしをして、何かに感謝しましょうって、言葉じゃわからないんだなって、知ったんだよね。雨が降らなくて畑が干上がって雨が降ることに感謝した。雨ばっかりで土砂崩れの心配して、お天道様が続く日々に感謝した。

うちは玄米なんだけど、スーパーの玄米より美味しいの。かぼちゃも人参も。農家さんから直接仕入れるようになって10年、やっとその違いをはっきり感じてて、子どもたちはスーパーの試食をしながらいう。うちの方が美味しいわ。そしてその農家さんをお手伝いしにパパが言ってるからその苦労話を聞かせてもらいながら食事をするのね。そのありがたさ。だってね、何十年も前から有機で野菜を育ててくださってるのだけど、始めた頃はきっと、変人呼ばわりもされたと思うんです。。

それでも作って欲しいっていうアレルギーの子を持つお母さんの思いを受けて続けてくださった。感謝しきれないし、家庭菜園すら知らない人も多い私たちの世代、私たちがそれを少しでもつないで行かないと美味しいものが食べれなくなるとおもうから。未来のために、私たちも変人からこの暮らしを始めてみようと思います。変人って悪いことだけではないとおもうの。時々本当に、なんだかな、この人。。。。。。って人にも出会うけど、他の人に変わってる、って思われても自分に誠意を持って生きてればそれでいいと思うんだー。

 

水道管を1時間で治せる旦那さんに感謝。薪運びを手伝ってくれる息子に感謝。ここでの暮らしを楽しんでくれる娘に感謝。

 

挨拶を言いなさいではなく、ありがとうがあふれざるを得ない暮らしをさせてもらっています。そしてそばで暮らしている大家さんご夫婦からここでのくらしを教えてもらえることに感謝。年配の方たちのお知恵と行動力がただただすごくて、その思いを持ってそばで暮らせることがありがたくてね。

 

ありがとうの思いが溢れる暮らしは生きる力だと思います。

ありがとうの思いは誰に対しても優しくなれると思います。

 

わたしが家族との暮らしの中で、大事にしてること。

 

この土台の上に学校教育があると思ってる。

だから先生方には感謝しつつ、夫婦で大事に伝えていきたいことも取り入れながら、こゆの後ろを追いかけてく日々を過ごしていけたらいいなあと自分の思いを整理してます。

そう思うとわたしにとって、本当は、なにも争うものもあらがうものもないんだよなあ。

 

まだ消えぬ心の何処かにある不安と寂しさが自分の努力とたくさんの感謝とひとさまのごえんで抜けて行くといいな、と夢見ながら、うーん、わたしはやっぱりじぶんのためにいきてるんだよなあときづかされる。

変われた自分にありがとう、の思いを込めて。

 

とりあえず何でもやってみる。

もう熟しちゃったかきをいただいた。年配の方に止められながらほしてみたらドライ柿になった。

やってみるもんだ。

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漬物シーズンにいなかったので塩漬けした大根でニシン漬け。北海道って美味しいものがたくさんー。

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あとは春の山わさびも好き。

 

ラプンツェルの灯、と暮らしの中に火があること。

見たの、本物の灯り。

あるんですね、あんな風にほやほやと舞う灯り。

 

タイのジャングルでの滞在中、車の荷台に揺られながら空に舞い上がる灯。ちかくでやってたのでそばにいってみました。

こうやってね、人に手で風に乗せてあげて助走をつけてあげて。

風といったいかするとほやっと上がって行く。

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ほやほやと舞うともしびを子供達と眺めながらまたおもうのです。

 

小さなうちから生活の中に火があることはとても大切なこと。

火があって人間は暮らしやすくなった。

火があるおかげで暖も取れるし、美味しくものをいただける。

 

火の神様のおかげで幸せでいられる。

 

だから火を悪いことに使っちゃ、ダメだ。

そう、家族と会話を交わす。

 

ありがたいことを前提に火の怖さも知っている我が家の子供達。

一枚の枯葉から起きた山火事の恐怖をしってる。

 

だからこそ大事に使わせてもらう。

ジャングルでの暮らしは七輪での調理、枯れ枝を集めての直接の炎で食事を作る。

ここ札幌での暮らしは薪ストーブ。

暖がなければ生きて行けないこの地でこの火を使って食事もつくる。

 

ひはこわいものであることもしってる。

けど、それより何より、ありがたいものだということが私たちの中に根付いてる。

 

今年の夏は七輪を導入して、かれえだひろってきてまき調理したいな。

生きるために大事なことを日常の中でやりたいなと思う。

 

初縫いと縫い納め。

縫い納めは大ちゃんのズボン。

ロッククライミング用のパンツのようになっていてお股に三角のまちがついてるもの。

これをコーデュロイでぬってみたよ。

寒いのでズボンの裾にリブつけてます。

履きやすいようで気に入ってくれてもう一枚増産。

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タイから戻ってしばらくは久々にミシン熱穏やかだったけど縫い始めたら楽しい。

初縫いは4ヶ月遅れたお友達のお子さんへのお誕生日プレゼント。

気分がここに向かわないと納得するのができないので一つずつやりたいことを片付けてこの一枚に向けた。

生地幅が足りなかったので、違う角から持って来て縫い付けたけど、これが切り替えのようになって、うん、可愛い。

最近はこんなちょっとお姉ちゃん風が気に入ってこんなを仕立てることが多くなりました。ダブルガーゼなので

90サイズの小さいさんにも優しい肌触りだと思います。

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後ろはリボン。

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こんな感じのコーディネートと絵心をつけるべく最近は、好きなコーデを型紙屋さんを見つけたら絵を描いてます。

たのしい。

 

ご挨拶遅れましたが今年もよろしくお願いいたします。

楽しい年にしよーっと。