自然の中に生きるための源がある。
氷点下8度改め、氷点下15度だよーってそばのじいちゃんに言われました、笑。
玄関から30歩、あとは尻滑り出ワープ。
我が家から1分半の凛と静まり返った山に降りてみた。
山々は冬の中でそっと時を刻み、命が賑やかに主張し合う夏とは違う厳しくも静かな空気が流れているように感じました。
静かに生きている、森の音。
手袋に舞い降りた雪の一粒一粒を眺めると、今日は結晶が綺麗に見えます。
そんななか、尻滑りをして裏山を降りるとこんな景色に出会いました。
どこを探しても他には見えないけしき。
テンでも入れそうな小さな洞窟のような穴のそばにできた氷の結晶の塊です。
なぜかここだけ羽の模様になっているのです。
全てを忘れて不思議と、神秘と、美しさに家族全員心震えます。
なぜここだけこんな景色になってるんだろう。
妖精でも舞い降りたかのような本当に美しい形となり、時折風に揺れているのです。
家族誰1人、この理由はわからないけれど、もはや大自然の理由なんて理屈でわかる必要もないくらいいろんな奇跡なんだろうと思います。
もう一生見れないかもしれないな。
2枚目は冬芽に結晶が張り付いたもの。
湿度と、温度、お日様、風のない静かな空気が作り出した神秘。
子どもたちとカンジキ履いて寝転がったり、切り株に積もったきのこみたいな雪の上に乗ってはしゃいでみたり、手足がキリキリ痛むまで帰りたくなくて遊び倒しました。
息子が寝転がってる周りのキラキラの一粒一粒が雪の結晶です。
こんな日はまた特にワクワクしちゃうんです。
テレビゲームよりも楽しいと思える世界を知っている私たちは本当にラッキーかもしれないね、と話しながらの帰り道。
中野区に住んでいた頃、公園には雑草もなく、花壇の花は見るだけのものでした。
植物に触れる感動も、日々変わっていく景色もほとんど見られず、秋の国道沿いのイチョウの落ち葉が楽しみでした。けれども、山に暮らして、自然の中は同じ景色の日がない事を知りました。
いつもの場所に虫が現れ、こうして木々に結晶が舞い降りるのです。
こんなにもワクワクし、興味が湧くのが自然であると大人になって知りました。
家を出た途端、車に気をつけて、と、手を繋ぐ必要もないのんびりした山道。
歩き始めた赤ちゃんがそうするように、私たちはその日の興味を見つけて立ち止まっては座って覗き込みます
寝転んでも大丈夫。
静かに耳を澄まし、車の音が遠くに聞こえてくると立ち上がって通り過ぎるのを待ちます。
何にでも興味を示し、座って覗きこむ赤ちゃん。
もういこう、っていってもなかなか動きません。
でもそれは生きる日々のワクワクを育てる大事なきょうみ。
好きなだけそれを味わい、じっくりと過ごせたらどんな人になるのでしょう。
おくらばせながら十分に子供達も味わってくれてるけど、スタートから実験してみたいです、笑。
ふと3日ほど前に目にした、とあるインディアンの方々を記録した写真集の最後のページを思い出します。
「私たちが、大切にし、伝えていきたいのは記憶です。
子どもたちの瞳には未来につながる記憶が宿っています。」
彼らの村で生活してみないとほんとうの真意は理解できないと思います。
けれどもなんとなくわかるような気もしました。記憶の中には知恵も、ワクワクも、悔しさも全部あります。
その人自身の中で感じた全てが記憶の中にあります。
大切に記憶を伝えていく、という大人たちの思いが優しく温かい日常を作り、ゆたかなきおくを残してくいくのかもしれません。
「多くの人が助け合う」そんなずっと続いてきた彼らの文化にはかなわないけれど、自然の中で暮らす時間が、その豊かさを私たちに刻んでくれてるように感じています。
厳しさだけではなく、たくさんの恩恵があることを今日もまたこうして身体に刻んでいます。
わたしには子どもたちの記憶にこんな感動は残せないから。
自然の中での厳しさや危険がを知っていることから生まれる優しさがあります。
きびしさがあるから競争なんてしている時間はなく、助け合わないとならないことも多々あるから。喧嘩中だろうがなんだろうが、喧嘩相手が帰り道、雪に足を取られて崖を登ることができなければ手を貸してあげるしかありません。
そうしているうちに自分の小さなこだわりなんてどうでもいいことだったねって、ふと思えてくるんです。
自然はただただすごいです。
今日もありがとうございます😊