日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

ムスメ2歳、ナイフの使い方を伝えるという作業をムスコにたくしました。

昨日、キッチンでみじん切りをしながらふと気づいたことがあります。

 

 

私は親から料理を習ったことがありません。

子どもと関わるのが苦手な母だったため、そういうことが苦手だったんだと思います。

なぜ自分が料理をするようになったかというと、一人暮らしをしたから。

もちろん子どものうちからナイフはにぎったことはありました。

けれども料理らしいことをしたこというと、記憶にないんですよね。

 

わがやのむすめは2歳からナイフを持っていました。

包丁は全て年長さんのムスコ仕込み。

私が口を出すと危ない危ないいうのですが、ムスコが実に優しく的を得た伝え方を娘にしてくれるのを見て、身を引くことに決めました。

なので多分一切、教えていないんです、笑。

そうして年長さんの頃にはりんごと皮の間に刃をはさんで、ゆっくり利き手の親指に合わせてはを動かしていく、大人と同じような皮むきを始めていました。

正直これにはすごいなーと思いましたけれども。

 

その経験を伝えることがあります。

すると相手の方は大抵、うちは怖くて年長さんになってもやっぱりみてられなくてーとおっしゃいます。まあ、そうだよねー、ってそんな気持ちも理解しておりました。

 

が、昨日、はたとおもったのです。

山に来て木を切り倒す必要が何度かありました。

私はオトナですから、倒れてくる方向にはいてはいけない、と危険予測はしたつもりです。

でも、ある日、人生の先輩のじいちゃんがいうんです。

木を倒すって難しいんだ。

上の方でやまぶどうのつるが引っかかってたことがあってな、木を切った途端、木が回転して自分の方に向かってきたことがあったんだ。

怖いんだわー。

 

想像して怖さを感じました。

そんな風にじいちゃんは教えてくれます。

除雪機を動かしてる時は近寄ってはいけないと子どもに教えること(ミンチになる)、ユンボのチェーンを直してる時も倒れる可能性があるので近寄らないこと。

 

そんなじいちゃんに感謝しながら、オトナであるはずの自分の知らないことの多さに驚く日々を過ごしています。

ジャングルの暮らしでも、ここの山暮らしでも私の危険予測なんてちっぽけなものです。

それに昨日ふと気づいてしまったのです。

 

要するに経験がない以上、オトナも、子どもも「おなじ」なのだということを。

 

自分で料理する経験がなかったら未だにみじん切りだってできてなかったはず。

包丁は危ない。

見る経験は積んでますが手を動かしたことがない。

三歳のこどもとほぼおんなじです。

 

日本語が通じるようになったら刃物を使うことができるんじゃないかと、私の経験上、感じています。

小さな怪我はたくさんした方が経験値が上がります。

痛い目を見てどこに注意を払う必要があったのかを、本人が体感として身につけていくのが人の持つ力だとおもうのです。

 

危ないのは大きくなってからやることです。

力も強くなる分、怪我も深くなるでしょう。

怖いという思いが楽しむきもちをじゃまするでしょう。

 

そして何よりも、やらなければいつまでたってもできるようにはならないし、危険予測だって身につかないのです。

私の山暮らしにおける危険予測の無知さ経験が物語っています。

料理は遅かれ早かれ興味を持つ人が多いでしょうから、ならば、2歳からでも(せっかちさんとか、個人差はあるのでそれを見極めた上で)ナイフを持つのがいいなと、いまの私は思っています。

 

何歳からもったって、どうしたら怪我をするのかを体得しない限り、危ないですから。

早いうちにできるようになったら、本人の楽しみが増えます。

 

うちのムスコもジャングルでナイフを覚えました。

彼が自分で好きに使ったのはそう、年長さんの時。

二十人近くの朝ごはんを薪で作るのに、ムスコのてもとをみてやるよゆうがなかったのです。

そんなムスコは早朝一人でキッチンに立つ私を手伝おうと思って動いてくれたのがきっかけでした。

危険を自分で予測しながらやった彼の習得はとっても早かったと感じています。

そうしてすぐ2歳のムスメの手元を見てやれるようになった。

彼自身に経験があったので、寄り添ってやることができたのでしょう。

 

あれから5年。

子どもたちはホテルごっこなる遊びを作りました。

暮らしを遊びにしており、私たちをホテルに招待してくれるのです。

二人で夕飯を作り、片付けをし布団を綺麗にしき、タオルを準備してお風呂を沸かしてくれて。

次の日の朝はバイキングのことが多いです。1時間半ほどでできたのは、じゃがいもをあげたもの、きんぴら、野菜炒め、厚揚げ焼き、蒸し野菜、クッキー、パンケーキ、昆布で出汁をとった野菜入りのお汁に入ったお蕎麦。

飲み物の用意もしてあります。お水にお湯に麦茶。紅茶とコーヒーも置いてあります。

 

暮らしを楽しむとこんな遊びになっていくことをしりました。

 

山で暮らして気づいたことがもう一つあります。

アパートにいた頃がうちを出るとすぐ車通りなので手を繋ぐのが当たり前でした。

子どもたちの思うままにすると命に関わるのでそうするしかなかったけれど、山にいるとその必要はありません。

自由に歩き、立ち止まって眺め、座ることができます。

耳を澄まし、ごくたまに通る車の音を聞き分けれるなら寝転がることだってできます。

 

興味を見つけ眺めて、触れて、またフラフラと歩き出す。

大きい人が木に登るのを見て真似る。その中で危険や注意を体得していく。

増水した川を見に行かないのは大人が行くなっていうからではなく、増水してなくても、川のヘリから落ちたら危険だってわかるから。

水の勢いに足がとられる、そう、自然が荒れてる状態に生き物はかなわない、って想像がつくから。

 

自分の興味で歩き、世界を見て、同時に危険を知る。

正直、街で育った私に自然の中での危険予測はあまりできていないことを痛感しています。

3歳のこの目線での危険予測、7歳の男子の動きを踏まえての危険予測なんてあまりできていない気もします。

それぞれの目線で危険を経験したり、感じたり、経験を全て集約して予測していく力を、自分でつけて行ってもらうしかないし、それこそが生き抜く術だと思うのです。

 

街での暮らしと違って車のような即、命に関わることは少ないです。

危ないこともたたありますが、ステップを踏むことができます。

物心ついた子どもたちはいとも簡単に命に関わるような無茶なことはしません。

からしぜんと共にある暮らしはすごいと思います。

 

沢山の気づくと、感性と、経験をくれるんですね。

 

ナイフは赤ちゃんじゃなくなり、それまでにお母さんがガードをせず、キッチンに立つ姿を見せていたら持てるようになります。

 

 

興味を持ったことは大人がそばに寄り添いながら早いうちに経験してみる。

それが基本だけれども、できることなら経験のある人がそばにいる方がいい。

そしてもう一つ。

例えばナイフを使うならその前に経験のある人のそれをつかうところをたくさん見せておいてあげる。

ナイフを使うお母さんを、釘を打つお父さんを。木に登るお兄ちゃんを。

 

子どもの観察力はすごいです。

赤ちゃんのうちから見て、見て、見まくって、身体に力をためているんです。

2歳弱で男性が使うような思いハンマーを傍で支えながら持って木々を打つ男の子を見ました。ムスメは2歳でナイフを持ちました。4歳でナタを持つ男の子も見ました。

 

みんな身体に知識をため、それを経験に繋げています。

 

やらなければ大人になっても危ないものだから、小さいうちに学べた方が人生はもっと楽しくなる。

 

はたと気づいたこと、記録しておきます。

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泉を見に入ったときに、火を起こしてランチ。

こうして大人が火とどうおつきあいしているかを感じていきます。


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できたのは竹ずつで炊いたご飯と持っていった野菜をビニールの中で刻んでオカズに。

火のある恩恵がある日常。

火への感謝をこうしてしります。

 

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夜の焚き火は心穏やかな眠りに誘います。

実はレモングラスを燻して蚊除けにしてるのですが、炎の揺らめきに吸い込まれ、いつもこうして寝る前のひと時を過ごします。

大人と一緒に火を知っていく。

刃物を扱うことも同じだと思います。

 

豊かな食事になるのは刃物があるおかげ。

感謝とともに使い方を知っていく、言葉ではなく、心で伝えていく。