母と娘。

母と娘。

こっこと私。

同性同士だからか、難しいなあっておもう。そしてぶつかることもしばしば。

思い返すと別にこっこが悪いわけじゃない。

私がこっこを理解できなくてもどかしくなって爆発してるだけなんだ。

多分私は疲れてる。

 

自分でそう仮定して、今日は一日家族から息抜きの日をもらった。

 

〜女子の心と母性から来るだろう感情〜

〜母とは何か、を研究してる先輩から学んだこと〜

〜それをふと、母と娘の関係に当てはめて見る〜

〜こっこの今を見る。そしてこれから自分が彼女とどういう関係で在りたいか考える〜

〜さっこ、きょうもあいしてるよ〜

 

〜女子の心と母性から来るだろう感情〜

 

色々あるけど自分なりに少しずつ成長したくて歩んでる。

だからいいんだけど、まだ自分の素直じゃない部分がひょこっと顔を出す。

疲れてイライラしがちなんだよなあ、朝から自分で呟きつつ、コントロールしきれないぶぶんがとびだした。伝えたいことをブツクサ長く言ってしまう私。

はふーう。

女子特有のホルモンのバランスがでるときもあるしね。

残念だなあって今日の自分に思うけどそれも受け入れるしかないんだよね。

 

イライラしてごめんね、伝えたいことを言葉にするだけで、わかってたよね、っていいながら子どもたちを幼稚園に見送る。

一緒に行きたかったな。っていうこゆに、今日は心を鬼にして身体を休めてみるよ、またきもちよくすごせるように。あしたはいこうね。

そしてぎゅっとして、楽しんでおいでー。

気持ちよくそう言えたら、彼らは自分の時間を楽しんでくるよね。

怒って別れたら、離れてる時間に私をおもい出した時に、彼らはきっと切なくなる。そして自分が悪いことしたってきもちをもっちゃう。彼らが楽しいを味わう時間を邪魔しちゃうよね、っておもう。。私自身も申し訳ないことしたなあってひきづらないように、怒ったままおくりださない、ってきめてるんだ。

楽しい時間は思い切り楽しんだ方がいい。それを邪魔する要因に、私がなりたくないと意識しながら日々を共に暮らす。

 

こっことの関係で度々、悩む。同性って難しいな、私はそう感じてる。

こっこはだいちゃんより、表現が分かりづらくてね、時々戸惑うの。

彼女の気持ちを察したいんだけど、どうも難しくてね。

彼女がボカンと泣くたびに、おもう。

 

もしわかったら、私ももう少し自分の表現を変えれるのになあ。

でもね、こっこも心の中の思いを言葉にできないので、わたしは時々どうしていいかわからなくなって踏み込みすぎる。余計なこともいいすぎる。

我が子を自分の一部だと思って私の思いで動かさないように特に注意をしてきた。お母さんってこれを管理意識しないと踏み込み過ぎちゃうからさ。

 

多分女子は共感力や察する力が高い。それだけはなんとなくわかってる。

 

女子は赤ちゃんをお腹の中で育み、うみ、そだてる力を持つ。色々な事情があってそれができないことももちろんあるけれども、それは生き物の宿命だ。

 

〜母とは何か、と研究してる先輩から学んだこと〜

 

私は、自分が母として成長したいと思って学び始めてから、家族って何か、ってこととどうじに、母というのは何かについて考え続けてるんだけどそれについてともに考えてくれる人がいてね。

そもそも、母についてを考え始めたのはそんな研究をしてる先輩の影響。

 

命を生みそだてる母を社会が守ったら、世界はきっと平和になる。

母の赤ちゃんを守る力はとても深く強く暖かい。

そんな愛の力を持った人が、子供と旦那さんを支えて家庭を守ってきた。

それが母性だと思う。

けれども女性の社会進出を求められる社会になってから、母が母性を失い始めたんじゃないか。

男も女も同じように仕事を持つなんて無理だ。人間の根本を育むために、母にしかできないことがたくさんある。それを幼い命はもとめる。そこにかける時間を確保する必要があるし、そんな母を社会が支える必要がある。

母としての役割を捨てなければ、男女平等に会社で働くということは成り立たないのだから。(ちなみに働くのが悪い、と言ってるのではなく、家族と心穏やかに触れ合える時間を確保するために、せめて女性は仕事の時間を減らせるように、という意味です。)

家庭での母という存在、妻という存在に救われるのは子どもだけではなく、男性も同じなんだよ、という。

女性は家族にとって柔らかい安心をあたえ、人が優しく生きていく根源だと私は思う。

 

ってその研究をしてる人はいう。

その人の考えに触れ、私も人生を積み重ねながら色々考えてる。

 

女の人は共感力が高い。

察する力が鋭い。

ホルモンのバランスの関係で五感が繊細になる時期がある。

 

多分それは、子孫を守り、うみ、そだてるためにつちかったちからなのだろうと私は思ってる。

そして多分家族という集団を守るためにも心も体も使われる。

こどものきもちによりそう。

パートナーの気持ちに寄り添う。

家族が気持ち良く過ごせるように察しなければ家庭は回らない。

こんなのくえーん!!ってちゃぶ台をひっくり返しているだけじゃ、家族は安心してそこにいられない。彼らが何を求めてるのか寄り添って答えていかなければ、生き抜く力は育っていかない。生きる希望を彼らが持てるのはやわらかいあんしんがあるからだ。

 

女性はホルモンの関係で嗅覚が鋭くなる。音に敏感になる。気配に敏感になる。

それに反応して些細なことにイライラしがちになる。

それも命を守るためなのだろうとおもう。

 

〜それをふと母と娘の関係に当てはめてみる〜

 

そう考えた時にこっことの関係が難しいわけもなんとなくわかる気がした。

そうか、それも原因の1つかも。

彼女は生まれながらにして母性を持ってるんじゃないか?

 

だから、繊細なのだ。そしてなぜか女子におおい意地っ張り。私もそうだから余計にうまく噛み合わないのは私の反省点だよね。。

 

こっこも生まれながら母性をもってる??

近頃私の中にそんな1つの仮定があった。

だからそれを確かめるべく、ここのところ、いろんなことをそれに当てはめていってる。

 

こないだ、こっこにわたしがこどものころのはなしを聞かれたものだから、嘘をついても仕方がないし、自分の経験したことを伝えた。

そうしたら、それを聞いてみるみるうちに目にいっぱい涙をためてポロポロ涙を流し始めたこっこ。

「さっこ、かわいそうだね。辛かったね。」

そしてポロポロ泣きながら言ってくれた。

「こっこに会えてよかったね。こっこと暮らせて楽しいことがたくさんになってよかったね。」

 

ああ、ほんとうに小さなお母さんだ、ってそう思ったんだ。

こんな私の仮定を裏付けるようなことが何度かあった。

彼女の共感力は高い。優しさも深い。

 

察する力もつよい。だからだ、家族のだれかがイラっとしてる時には、緊張する。

緩んでる時はケタケタ笑うのに、誰かがピリピリしてると自分もピリピリし始める。

怒るのではなくて、いやだって気持ちを怖い、と彼女は表現する。

 

そして怒られてる人を外で見かけるときも心配そうにじっと見てる。喧嘩してる場面とか、そういう場面を彼女はじっとみて、彼女なりの思いの寄せ方をする。

 

大ちゃんはそうでもないのに、わたしの子供の頃にもとてもきょうみをもつ。多分私の悲しみを察して昔を癒そうとしてくれてる。そんな気がするので彼女の負担にならないようにしたいな、そう思いながらも聞かれたことは、覚えている限り話す。

 

こっことの関係が難しくて、こっこ自身もそれをもどかしがってぶつかってしまう時もある。

私が彼女を理解する努力は続けていこうと思う。

けれどもわからないこともたくさんあることを前提に、もどかしさに飲み込まれにように私がいろんな角度から彼女によりそいつづけていく必要があるんだろうな。

 

分かりたくて、どうしてなの、教えて、って迫ってしまうこともある。

けれども言葉にするのって大人だって難しい。

関係をどうにかしたくて、イライラして答えを求めてしまったら戸惑うのはこっこだったよね。

反省だなあ、ほんと。

 

こっこのなかでもあるだろう母性からくる優しさと共感力。

あまり考えたことなかったから、これからそこに気持ちを向けてみようっておもう。

そこから私が何か、彼女のことで気づけることがきっともっとあるはずだ。

知りたいと思う気持ちを焦らない。

少しくらいわからなくても今日一日たくさん一緒に笑えたらいいじゃない。

 

関係をどうにかするんじゃなくて変わらず、こっこをまるごと愛しく思っていけばいいだけじゃあないか、そうきづく。

 

〜こっこの今をみる。そしてこれから自分が彼女とどういう関係で在りたいか考える〜

 

もう時期7歳をむかえるこっこに私はもうすこし成長をした自分で在りたいなあっておもう。あと4年、私はそんな繊細なこっこともっと気持ちいい関係になりたいな、ただただそれだけをねがう。

そしてそれに向かって歩いていこうと思う。

 

彼女のもっと細やかな繊細さに、ここで気がついて、気をつけてきたつもりで口うるさくなってしまってたことに反省。大ちゃんならそれは多分許容範囲。

けれどもそれはこっこを傷つけてきたかもしれないな。

それをここで整理してぐっと感じて胸が痛む。ごめんね。

 

今朝はそれを謝ることから一日を始めよう。

すぐには自分は変えれない。けれども私はあなたの存在を大事に思う、その気持ちだけはぶれたくないから、彼女に謝って、私はあなたと違って時間がかかるけど、行動も変えていくよ、そう伝えて笑顔を見ることからスタートしようと思う。

 

 

10歳になる時には、我が子と私の関係が決まる。

大ちゃんの時がそうだった。10歳になったある日、ふっと、この人、私にうるせえ、くそばばあって言わないだろうな、そうおもったから。おもわず大ちゃんに、ねえ、もう少し大きくなった時に、うるせえ、くそばばあとか私にいうのかな?ってわざときいたらゲラゲラ笑われた🤣。

思春期になったらもう一度聞いてみよう。ねえ、うるせえ、くそばばあって言いそうになることある??って。笑笑。笑いながら時々心ん中でそう思いそうになるねー、って言われるかもね。

 

大事なお互いの心のつながりを今、ぎゅっとお互いに感じさせてもらえることを奇跡だとかんじてる。親がしてあげたことの中で、子どもがそれをしてもらって嬉しかったって思うことって少ないものだから、この気持ちをお互いに思いあえるって奇跡。

お互いを信頼して尊敬する気持ち。これは思春期になったからって覆るものじゃあない、その揺るぎない安心感。私は昔、家族間でなかったから、なんとも言葉で表現し難いけど、これのために自分は苦しみを超えてきたんだ、って涙が溢れる。

 

この時に、一緒にいることがああ気持ちいいね、そう思えれば、その関係は一生続いていくのだろうとわたしはおもう。どうにかここまで彼らの足を引っ張らないで済んだよ、ってことがわかる。

それは、わたしがかくじつにかわれたってことを家族によって証明してもらったことになる。

 

そうしてそこからまたそこから歩いていく日々が始まるけれどもね。

そこまでが人生で一番大切な私との関わりの時間だとおもう。

 

こっことの積み重ねてるひびはひとつたりとも無駄はない。

けれどもまだまだ、こうしてつまづいて立ち止まってまた自分がここから変わっていかねばならない事実にぶち当たる。

こっこが10歳になった時の私との信頼関係に向かって、私は歩いてる。

こっこの今を見て、これからどういう関係でありたいか、私の中で整理していく。

どうなってほしいか、ではなく、私が彼女とどんな関係で在れるか、を。

彼女がどうなりたいか、それは彼女に任せることだから。

 

〜さっこ、きょうもあいしてるよ〜

 

なぜかここのところこっこが口のする言葉。

愛してる、って一体どこから持ってきた言葉だろう、、笑笑。

「さっこ、きょうもあいしてるよ😚」

大爆笑しつつ、面白すぎてハグ。

「わたしもあいしてる!」

いつまで言ってくれるかな。

彼女のこの超絶ストレートな言葉を心にためていこうと思う。

自分の負の感情に飲み込まれず、こっこを愛してる気持ちをいつもわすれないように。

 

ありがとう。

そしてわたしはきょうもまたひびをつみかさねるよ。

 

 

何もしないを味わう。

何もしないを味わう。

子どもから大人になる過程で気づいたら、何かをしてないともったいないとおもってた。

何もしない自分は無気力??もったいない??

 

今の私はそうは思わない。

 

〜なにもしない時間〜

〜なにもしなくても私の人生は回ってる〜

〜なんであなたは今つまらないの?〜

〜こども時代を味わう、ということ〜

〜こども時代を味合わなかった自分が思う事〜

 

 

〜何もしない時間。〜

何もしないを味わう時間。

それも自分を知る作業。だからしっかり味わう。

 

なんとなくしたいことがそんなにない。

この3ヶ月くらいそういう時間を過ごしてる。

 

ミシンすらもいまはいいかなーって思って触らない時間を過ごしてる。

またやりはじめたら、楽しい気持ちになることも知ってる。でもあえてやらない。

ウクレレも。タイ料理も。

 

そうしてみたらあたらしいはっけんがあったの。

 

自分が好きな事を何もしなくても、わたしのじんせいはたのしい、ということにきづいた、笑笑。

 

子どもたちにもう少しつきあえるじかんがうまれた。

 

自分のことについてぼけっと考える時間が生まれた。答えを出す事を目的とするわけではない考える時間。本当にぼけっと。

その時間の中で私は自分のブログを書いて、自分が思ってる事を知ったな。

 

朝のストレッチをするようになった。

腰痛とくしばりぐせをゆるめたくて、やろうと思ってたのにできてなかったの。

自分の身体に目を向けるって実はすごく難しくて、ここではじめてこれができるようになり、つづけてる。

しなくちゃって思ってた頃はできなかった事だったよね。

 

途中でふと、何もすることがないのに、何かしたいという感情にぶつかって、うーん、無気力症候群になっちゃったんではないだろうか??って不安になりかけた。

何もしたいことが見つからないのか、なにもしないをあじわってるんだかわからなくなった。

けど、そういう時は寝ちゃおうっておもった。そうしてみたらすぐ寝れる。私の身体は寝ることも好きなんだと知った。

 

私は時々何もしないを味わってきた。

そうこうしてるうちにやりたいことがある期間に入ってくる。

でも今回はそこに入るまでがながい。

 

とことん何もしないを味わってる。

何もしなくても、私は生きてるからね。

何もしなくても、必要な家事は出てくるからね。

何もしなくても必要な家族の関わるもあるからね。

何もしなくても、必要な自分との関わりもあるからね。

 

〜何もしなくても私の人生はまわってる〜

 

ようするに何もしなくても私の人生は楽しいんだよね。

そう気づく。

 

何もしなくても私の人生は楽しいって気づいたことは私にとってとっても大きなこと。

何かを伝えなくちゃって焦んなくてもいいじゃーん。

いま、じぶんがかわらなきゃってあせんなくてもいいじゃーん。

結構いまの自分が好きなんじゃーん、ってふときづく。

たくさん迷走もしたし、頑張ったよねえ、私。

いまは今でいいっしょ。

 

〜なんであなたは今、つまらないの??〜

 

日常にはたくさんの生きるために、することもあるよね。

それにも気づいたからこそ、わたしはそんなあえて なにもしないを味わう。 という事を心にとめてる。

 

そんな事を考えながら、ふと思い出す。

昔、子どもたちが小さい頃、遊びが見つからないと

「つまんなーいー。おなかすいたー。」っていってたんだ。

「もうお腹空いたんかい、今食べたじゃん。つまんないだけっしょ。」

ってちょっといらっとしたな。

つまんないって言われると、勝手に私が責められてるようにかんじて嫌だったんだと思う。

 

んで、いまおもう。

小さいうちはね、おとなが彼らの興味の場面でお付き合いできたらいいと思う。

大好きな人が一緒にいてくれる、という安心した環境で、楽しい事をじっくり味わい、興味のある事と真剣に遊ぶ。

 

「大人になるとなんで子どもと遊ぶのが楽しくなくなっちゃうんだろうね。」

「そんな大人になりたくないね。」

クレヨンしんちゃんを見てて出てきたこの言葉がクッと胸に響いた。

「大人が子どもと真剣に遊べないのは何故だろう。」

私はこれを真剣に考えてる。箸が転がっただけで笑える彼らくらいワクワクとユーモアのある人間でありたいなと思いながら。

こどものワクワクを真似したくて、そのきっかけを探してる自分もいる。

 

年長さんくらいになって、休みの日とかにつまんないとか言ってるのを聞くと、私はこう答える。(うちの子はそれを言わないんだよね。だから、それを言われたときにふと考える。このこはなんでそうおもうのかなーって。)

 

「へー、つまんないの。その気持ちを味わったらいいと思うよー。いつも何かをしていなくちゃいないわけじゃないんだから。」

 

そして小学生くらいの子にはこう答える。

「それはあなたの人生ですから、楽しくするもつまらないも自分の責任ですよー。私はいま、ぼけっとするのが楽しいもん。つまんないを味わうのも面白いし、別のことを見つけるも自分次第だと思いますよー。」

とこたえる。

 

我ながら面白い答えだなあと思いながら、そんな言葉を使う。

それと同時に楽しいことがワクワクの幼児期にどれだけ寄り添えるかが重要だよなあと感じる。

自分がそれが足りなかったのを知ってしまったから、いまその気持ちに近づけるよう努力しながら生きてる。

 

我が子が、「いくつになっても、自分で楽しい事を見つけられる人」でいられるように願いながらよりそっていく。

同時に自分もそうありたいと願う。

 

〜こども時代を味わう、ということ。〜

 

子どもの頃にうんと、遊ぶ時間を味わったら遊ぶように仕事ができる大人、豊かな心を持った大人になれるとポールトウルニエはいう。

 

同じようにムヒかさんはいう。

効率、便利さが優先で帰って人々が忙しくなり、人の心がゆっくり触れ合う時間がなくなってる。豊かさとは何かを大人が考えていかねばならない時代だよ。

そうしてこどもたちにもかたりかける。

たくさん遊んで遊んで子ども時代を味わっておくれ。その中にたくさんの大事なものがつまってる。

子どもは大人のミニチュアではない。そしてこどもが急いで大人になってはいけないんだと。

 

私もそう思う。

リアルに想像しながら彼らの言葉を理解する努力をしつづける。

 

人はそこから優しさとワクワクが自分の中にいつまでものこしていくのだろうと、おもう。

 

〜こども時代を味合わなかった自分がおもうこと。〜

 

わたしは、それをしてこなかったから、いまになってやりたい事を欲張っちゃうんだよね。

自分がやりたいことがありすぎて優先順位がつけられなくなる。

 

こども時代を子どもの心で存分に味わったらいい。

私は我が子にそう願う。

 

そして少し大きくなったらつまんないもたんと味わったらいい。何もしないもたんと味わったらいい。

 

大人は特に、何もしないからもたくさんの感情が生まれてくる。

 

私はね、そうおもう。

 

だから何もしない気持ちを大事にするんだ。

自分の中の未知の感情ってとても面白いものだから。

 

 

 

 

 

10歳くらいになる頃に自分の格ができてくる。

10歳くらいになるころに揺るがない自分の核が出来てくる。

だからそれまでは大人にコントロールされない環境で育ったほうがいい。

 

〜背筋が通る時期〜

〜揺るがない自分があるということ〜

〜大人にコントロールされない環境〜

〜大人が自分にとっての幸せとは何かを常に考えること〜

〜何かを変えるのではなく自分が粛々と変わって行くこと〜

 

 

〜背筋が通る時期〜

そう、園長が言ってたけど本当にそうだとおもう。

10歳になってからの大ちゃんは背筋がすっと通ってる。

 

私と旦那さんの会話を聞いて自分の思ったことを言う。

「さっこはこうおもったみたいだけど、僕はこう思ったよ。違う捉え方もあると思うよ。」

本当だね。。あなたの視野の広さに敵わないわ。

 

園でのキャンプの時におやつを持ってこなかった年長さんのAくん。先日のお泊まり会でもまた持ってこなくて、ずっとみんなのおやつをちょうだいちょうだいって言い続けていたそう。(また、おやつの好きな子だったので、笑笑。)  それを帰りの車で話してくれた大ちゃん。

 

大ちゃん「しつこくふざけながら迫ってくるから自分もみんなも困ってたんだよね。」

 

私「そっかあ。おかあさん、おやつがひつようってしらなかったのかもよ。」

 

大ちゃん「ああ、そうか。じゃあ、次にあった時にお母さんに直接言ってあげようかな。お母さんがしつこくせまって困らせたA君のことを怒るかもしれないから、まずAくんのことを、怒らないであげてね、って伝えなくちゃな。そしてみんなのおやつが欲しくなっちゃってかわいそうだから、次のお泊まりの時には1つくらい持たせてあげてっておねがいしよう。うん、そうしよう。」

 

自分が彼の態度に困り続けてちょっと嫌だった、っておもったのに、A君を配慮したこと。

そしてお母さんもおやつを持たせたくない理由があったのかもしれないと配慮して、1つでいいから、って表現なんだな、って。

きっと自分からは言えないんだ、そう相手のことを想像してのこと。しんせつのおしうりではない自然な行為。

たぶん次のお泊まりの時は、Aくん、にこにこでおやつ食べてるね、そう思って一人笑いながら聞いてた。

 

大事だって思うことを大人にもちゃんと伝えてくれる。

誰かのことを気遣ってこうして誰かのお母さんに伝えることも良くある。

 

〜揺るがないじぶんがあるということ〜

 

自分がないと大人に伝えられないよね。

まして、外に出た時に知らない大人に自分の正当性をはっきり伝えることなんて容易ではない。

 

友人の嫌味に揺るがない。

大人の理不尽さに揺るがない。

 

トモエで自分でたくさんの経験を味わったこと。

タイのコミュニティでたくさんの人に出会い、たくさんの暮らしに関わるまったなしのハプニングからくる必要性で、照れ臭い英語を大人に対してもたくさんつかってきたこと。

自然に近い暮らしを続けていくためにたくさんの待った無しの言動が要求されること。

 

言葉にしつくせない、たくさんの経験と人と自然との関わり。

巻きを運んだり、トイレを一緒になおしたり、旦那さんがいない時に起こった家のトラブルに困ってると大抵、大ちゃんがああ、あれじゃない??なんていいながらやってきてなおしてくれる。いつの間に身につけた能力なのかすごいんだわー。。そんな待った無しの暮らしへの参加。

 

そんな我が家は今、トイレの排水菅がこおって外でトイレをする。

今年は雪が少なくて寒かったからねー。しばらく続くかと。

けどそれに動じないこどもたち、笑笑。

 

不思議なことに、トイレが使えなくなった、って知った瞬間は、どうすんのさ、っておもったのに、こうして外の空気を感じることに動物的な感性が気持ちよさを呼んでる、としかいいようがない。

いやじゃないの。別にいいよね、そういう私に、まあね。と答える子供達。

もはやわからない自分のそんな不思議な感性。。シックスセンス

 

でもそれに動じず不安や怒りにならない、どうでもいいけどね、って流せるってことは確実に精神が強くなってる証なんでしょうなー。。

 

〜大人にコントロールされない環境〜

 

これ、多分普通に暮らしていたら、私には意味は分からなかったと思う。

「子どもは未熟な存在だから、1つずつ教えてあげる。」

3つまではそう大ちゃんを育ててきたし、自分もそう育ってきた。

だってね、そもそも社会がそうだもの。

 

ルールもマナーも大人が常識として教えて行く。

 

私たちは80歳近くになるおじいちゃんたちから話を聞く機会が結構多いので、そんな先輩たちに聞くと、昔は子どもも多いし親もうちのことに忙しかったからなあ。こどもたちにかまってるひまなかったもんなあ。

でも地域大人がたくさんいたから見て真似できる環境はたくさんあった。

お正月だからってみんな集まってよそのおじちゃんの膝に座ったりね。怒られることもかわいがってもらうこともたくさんあったのよ。人が関わりあうのが当たり前。忙しいけど楽しかったよ。

 

大人が危険を予測するわけでもなく、年齢の違う子どもたちが集まって遊びの中でいろんな経験をする。外に行けば誰かに会える。

私たちのおとづれる、タイのむらとおなじかもしれない。

 

大人の方も、子供達が羽目を外してるのを見るのなんてしょっちゅうだからよっぽどでないかぎり、ちゅういもしない。

 

自分で動いて、見てしっていっていたのだろうな。

大人に、できない、やってということがない。できなければ少し大きい子が動いて助けてくれる。それで大方は解決していくそうだ。

 

私はそうして育ってきたわけではないけれど、一年間タイの田舎の村で暮らしてそんなのを目の当たりにしてきたことや、おじいちゃんたちの話で想像がいくらかできる気がする。

 

今の日本での暮らしを重ねてみる。

都内に行くと公園に来てる人も少ない。児童館に行ったり、赤ちゃんの時から遊ぶ場所として幼児教室やヤマハに通うこともおおい。兄弟は幼稚園や学校に行き、日頃から一緒に遊ぶ時間も少ないと感じてる。

公園では母同士が気を使う。というか、人の目が木になる、というのが本音かもしれない。喧嘩は止めるし、ブランコは10回やったら交代って大人が決めちゃう。満足するまでやるためには空いてる公園を目指すしかない、笑。

 

幼稚園に行くと、危険なことはやめましょうと教えられる。

階段の手すり滑りは危ないからダメ。室内で走ったら狭くて危ないからダメ。外に出かけるとき前はみんな必ずトイレに行きましょう。

喧嘩を始めてなかなか終わらない。もう給食の時間だから、と先生が早く終息するように関わる。彼らの思いのキャッチボールは、大人の誘導で終わる。本当に子どもたちはそれで納得したのだろうか。

 

こういう現場に関わる時期もあった自分を振り返り、おもう。

多分、私がしたい方に導いただけ。彼らの経験は中途半端なままだ。

 

仕方ないんだよね。だって、子どもたちを安全にうちにかえすのが先生のおおきなお仕事。子どもに対する大人の数が圧倒的に足らなくて、そこまでは現状のシステムでは対応できない。

先生たちはこどもたちをあんぜんにかえしてくれてるので、よくやってくれてると思う。子どもたちがかえっても時間が足らず、残業して仕事を片付けるのが多分普通。

 

考えなければならないのは大人全体だと思う。

教育に携わる人だってそうして育って来たのでしょうから。

私は先生に児童期を委ねようとは思わない。相手ができないことを求めないようにしようとおもってる。先生だってできないことがたくさんある。先生ががんばってくれていることにはかんしゃして、後は家庭で補うべきことだと思ってる。

 

今の時代でどうしたら人が豊かになれるのか。

それはそれぞれの家庭で考えるべき今のかだいなのだとおもう。

それを考えるおとながふえないかぎり、うつもへらないだろうし、自分を見失った犯罪も起き続けてしまうのだろうな。

 

そして小学生。

用があって学校に行ったとき、一年生の集団とすれ違った。

先生が、「さあ皆さん、挨拶をしましょう。」といったとどうじに

「こんにちは!」。

 

挨拶くらい自分が必要性を感じてして行く必要があるから、それぞれの責任に任せた方がいいなーって

、気づかせてもらったよ。それは小さいうちに知っておかないと多分大きくなってからまなぶにはじかんがかかりすぎる。

 

何人もの子らから聞いた先生授業参観以外は怒ってばっかりだから。

〇〇君はいつも先生の机の横に机を移されて、一番前で一人で座るの。

(小学校低学年までは、人は動物のようにひたすら動いて学んで行く生き物らしい。タイの村の子は本当によく動くので先生は授業の間に、猛ダッシュしたり大笑いするような遊びをたくさん入れててね、座って話を聞きなさーっていうほうがむりなんじゃないかと、いまはおもってるわたし。心身とともにうごかして、手も足も心も思う存分使ってそこからちゃんと学んでいけるとわたしはおもってます。)

 

こちらもしかたがないよね。先生が36人くらいを一人で見るのなんて到底無理。

たぶん、発達障害というより、まだ小さいが故に動物的にそわそわせざるを得ない身体を持ってる子もたくさんいるわけで、それを先生が言葉で止めるなんて無理。動きを妨げる子はおこってまとめるしかない。大人の権力が通じなくなった時に学級崩壊になるんだろうな。

でも先生がそうせざるを得ないわけもわかる。昔からそうだから。自分たちがそう育って来てるし、システム上の問題もかなり大きい。

こんなにいたら3人くらい大人がいてもいいと思う。そして、そもそもこんなに学習詰め込んでも私みたいに、結局最後までよくわからないし、楽しくないからうちでもやらないで大人になれちゃった人も多い。一斉に進めるって難しいことだよね。

でも授業しながら、大人のディスカスがたまにとんでも面白いかも。子どもたちもいろんな大人がいて考えがあって面白い、って思えるいい勉強だと思うしね。

おやがフォローするのも面白い気がするけど先生は自分の教え方があるからやりずらいよね。。

 

おもえば、大人たちが今、自分たちは幸せに働いてるか、って考えることないもんなあ。

仕事もプライベートと同じくらい、今日は昨日よりもっと楽しい日だといいなあって思いながら積み重ねて行く感覚、大人の中にあまりないんじゃないかな。

 

子どもたちは、おさない頃から、まいにちいつでもきょうみしんしん。そして楽しいことばかり見つけて、どんどんそれに向かって行く。

大人はそれにむかえてないのが現状なんじゃないかと感じてる。楽しいことに向かう芽を、つまれて来ておとなになったのだろうか。

 

先生がそんなだったら、きっと子どもたちは楽しいだろうな。

あ、その前の子どもを自分の職場で働く先生と同じように大事に見るところからだな。それが相手の尊厳を受け入れるということ。校長先生も子どもも人として同じレベルのはずだよね。

 

〜大人が自分にとっての 幸せ とは何かを常に考えること〜

 

そして先生が、自分がこうしたら幸せだってこと知ってたら、この子の幸せってなんだろうって考えるよね。(この時点で担任が一人ではそこを研究する時間が足らなくて回らない。)

そしたらコントロールはできなくなる。

 

そしたら、子どもたちも先生を大事にする。

大事にされれば大事にするもの。

 

そもそもそれが人としてありたい姿だと私は思うけど、それがなりたってるおとな社会がまれだよね。

 

それが成り立ってる村に行ってそんな風に育って行く子どもたちからたくさんのことを気づかせてもらった。個性はあれども大きくなって来て村の子の中に、人に対する気遣いがない子がいないことに驚いて、毎年行くようになったんだよね。

その意味を今少し、理解したように思う。

大事にされて来たから。一人の大人ではなく、ふくすうのおとなに。

 

でもまあ、自分が社会を今すぐかえられるような器のでかさもない。

だから目標は自分が自分としてより良くあること。

これからも自分が人を愛する力を育てて行くことで、自分からおふれるおもいと愛が溢れ続けて、それから何かをつたえらえると気がくるはずだと思いながら。

結局のところ、言葉では伝えらることは少ない。

そこにどれだけの思いと実績があるかだけ。日々生きてる中で、日常の暮らしの中でそれを実行できるか、ただそれだけなんだろうな。

 

〜何かを変えるのではなく粛々と自分が変わって行くこと〜

 

実績があればいちいち騒がなくても、伝わって行くものだと先輩を見ていておしえていただいたから。

 

きっとそうして園長も心屋仁之助さんもサンドットさんも、今があるんだよね。

大事なのは自分がどれだけそれをできているか。そして、今の未熟さを受けいれ、それにどう対処して、10年後にはどうありたいと願うか。

 

 

社会やだれかを変えるのではなく、自分が変わって行く。

そんな大きなものにぶつかって行く気もない私は、敬意を持ち会える関係が自分の周りからつくりあえたらいいな、って自分のことをするのみだなあって改めて気づかされる。

そして私もそれをしたいんだよね、ってひとが声をかけてくれたら一緒に成長し合う。

そんな子どものような日々であろうと思います。

 

うちの紫花豆で羊羹を作った大ちゃん。ほんとはあずきなんだけどうちにあるもので出来ないかと考えたらしい。当分は米飴と純黒糖をいくらか。

タイの石臼で潰してからミキサーへ。

またまた絶品!!

彼のセンスといい舌を持ってるんだろうな。

そえた梅ジュースは四年もの。

冷蔵庫に入れなくて平気か??って思ったんだけどお友達を真似てやってみました。ここまで来たらお砂糖の毒性はだいぶいいかと。絶品おやつセットでした。

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大ちゃんの大冒険

大ちゃん旅に出る、の巻。

鉄好き大ちゃん、旅に出た。鉄仲間の年長さん。

10歳と6歳の旅。

 

〜大ちゃんの日常〜

〜大ちゃん、旅に出る〜

〜大ちゃんブログ、アナログで始めました〜

〜大ちゃんのブログから思うこと〜

〜日々の積み重ね〜

 

 

ー大ちゃんの日常ー

 

大ちゃんはコミュニケーション能力が高い。

遊ぶ友人のストライクゾーンの広いこと。。。。

同じ年の親友もいるし、大抵年下のお友達と遊んでるかな。小学生から新生児まで実によく関わる。

人が好きなんやね。

 

年長さんの親しいお友達もいるかと思えば、3歳くらいの子に追いかけられて遊んでたり、銃で30分も撃たれては倒れこんで遊んでたり。

赤ちゃんもすき。じいちゃんみたいにとろけそうな顔して1ヶ月の新生児ちゃんを大事に抱っこして柔らかい、って15分顔を眺めて。

 

小学生くらいの頃、たくさん赤ちゃんと触れ合うと、幸せホルモンみたいのがたくさん出て、お父さんになった時も自分の子をしっかり愛せるようになるっていつだったか聞いたけど、彼を見てるときっと本当だと思う。

「柔らかくてふわふわでずっと抱っこしていたいから。うちにも赤ちゃん来ないかな。」とよくいう。

 

なるほどー。。もう一人赤ちゃん来てくれたらその子は多分うちで1番の幸せ者になるね。

周りの家族の赤ちゃんのお世話を毎日見て知ってる大ちゃんとこっこまでが、赤ちゃんと暮らしたい、って言うくらいだから、赤ちゃんはこんなに年の差があっても赤ちゃんは毎日幸せだ。

こればかりは神様と赤ちゃんの魂に従うしかないけど、かあちゃんアレルギー直しにてっします、笑笑。

 

 

ー大ちゃん、旅に出るー

 

そんな大ちゃんが、年長さんの友人と旅に出たいと申し出た。

二人で時刻表眺めて行き先の打ち合わせ。

スケジュールを書いて、春になったら行こう、そう言っていたけど、母二人、その気持ちを大事にしておいでと3日後の休みの日に行っといで、送り出した。

夢を実現することの大切さを感じてるから。

日々の中にワクワクはあるのだと感じながら生き続けて欲しいから。

 

「え、いいの??」

「もちろん!!」

 

小学校四年生と幼稚園年長さん。

兄弟ではなく、友達。

自分たち決めたルートは難関コースではないらしいけど、ロングランだ。

ケータイはパパしか持ってないので困ったら、誰かに頼んで電話を借りる。昔ながらの方法で、笑。

朝8時に出て、夜七時半に最寄駅の前で待ち合わせしたいそうだ。

昼ご飯と夜ご飯は自分たちで調達。大ちゃんは旅には温泉がつきものらしく、北海道は温泉があちこちにあるので寄って来たいんですって。

 

 

当日。楽しみ過ぎて朝早くに起床。体調万全。

昨夜から、ワクワクしてあんまり食欲ないんだとのこと。

朝ごはんをしっかり食べなくてもいい、身体に合わせて食べてね。我が家の方針だ。自分で食べる量をどうするか決めて食事をする。

昼も夜も外食だからお味噌汁でバランスとって行こうかなー。

おお、ナイス。我が家のお味噌で仕込んだ野菜たっぷりのお味噌汁。お味噌汁は塩分、ミネラルを含んだ発酵食。外食の保存料にはリン酸塩がはいっており、それがミネラルを体内から排出してしまう。ミネラル不足を幾らかでも防いでくれるし、腸のあれにも対応してくれる。

 

美味しかった、行って来ます!

私はノータッチ。

前日に持ち物と待ち合わせ時間と合わせるバスの時間系統を書いたメモを渡して本人とも確認しあったそうだ。

 

大人が手配した乗り物でどこかにいくとは違う大冒険。

一緒に行くのは家族ではなく、小さな友達。

 

行ってらっしゃい!!

さあ出発だ。

 

〜大ちゃんブログ、アナログで始めました〜

 

大ちゃんたちが決めたルートは、うちの最寄りからバスに乗り、途中で友達と待ち合わせ普通列車で札幌から旭川まで乗り継いで行き、また乗り継いで帰ってくること。その途中に温泉とご飯を二回食べること。

 

困ったら交番でも駅員さんでも頼んで電話借りるんだよ。

小さい人のペースを見てあげてね。

温泉とか、電車の中での駅弁とか、小さい人は気づかないだろうから周りへの配慮もよろしくね。

あとは楽しんで行っておいで。

 

それだけが私が伝えたこと。

予定通り夜8時を過ぎて帰って来た大ちゃんは、すっきりしたいい顔をして帰って来ました。

お帰り!みんなで待って迎えて私たちはそのまますぐ爆睡。

疲れてるだろうに、その思いを書き留めたくて自分ブログをその日のうちに書き上げてねたそうな。

 

〜大ちゃんのブログから思うこと〜

 

10歳と6歳の大冒険は大ちゃんが友人にバスで会えるかからドキドキだったそうな。

無事に会えて、札駅から切符を買ってホームを見つけて電車へ。乗り継いで途中で、ご夫婦に声をかけられ、おしゃべりしたそうな。

そして旭川へ。お昼ご飯買って1時間で札幌に戻る列車へ。

大ちゃんは食べるの好きで駅弁、なんて張り切ってたけど小さい人は魅力がなかったそうで、のんびりお付き合いしてコンビニやらそばのお店のフォードコートへ。

 

帰りの電車で楽しくいただいたそうな。

小さい人、食べ終わったあと席にこぼさなかったか見てくれたかい?と後で聞いたら、うん、見て来たよーとのこと。ナイス!

 

行きにあったご夫婦にもう一度会って盛り上がったそうで、よかったね。最高の神様からの楽しい気持ちのプレゼント。

でもその先でハプニング発生。車両故障による予定外の停車。

乗り継ぎやばいね。

と二人でドキドキしたそーな。

 

時間を過ぎて乗り継ぎ駅に到着、ホームにまだとまってるのをみて二人でダッシュして乗り込んだら乗り継ぎ列車も発車を遅らせてくれたそうで無事ハプニング突破。

いい具合でハプニングがあるもんだ、笑。

 

そして温泉に入り、夕飯は小さい人が食べれるお店を選んで入ったそうな。

もう暗くなってる夕方6時の小さなお客さん。

入ったお蕎麦屋の店員さんはあらまあ、子ども二人と笑ってくれたそうで好きなものを食べて、お互いにちょっぴりお土産を買って8時に最寄駅に到着。

 

この弾丸ツアーに耐え抜いた6歳の友人、自分も帰ってから日記を書くんだと、眠い目をこすりながら書いたんですって。

自分で行くって決めた彼。まだ小さいから、夜の8時に帰ってきて相当疲れたでしょうに、もう歩けないーって弱音も吐かなかった強さ。こちらもそれを行ったら大ちゃんが困るって配慮してくれたんだよね。すごいね。

本当に楽しかったみたい。ありがとう、ってその子のお母さんからいただいたお小遣い。大事に大事に次の資金に缶にしまっていたよ。

 

小さい人に無理はないかな、ってその都度配慮しながらの旅だったでしょう。

公共の場の利用、自分も友人の分も周りの人への配慮が必要だったでしょう。

ちいさなハプニングにどう対応しようか、たくさん考えたでしょう。

乗継ミスったら帰ってこれない可能性もある、笑笑。

 

でもああ、楽しかったって全てを楽しんだことが素敵だなっておもったよ。

子どもだけでお店に入るなんて何か言われそうで嫌だよーってちょっと前までいってたのに、暗くなってからお店に入ったこと。

「状況説明してそれでも相手が心配するなら電話借りてパパと話ししてもらったらいいじゃん。」

なにかがあっても、大人に堂々と伝える覚悟が決まったのだろうと思います。そんな覚悟に乾杯。

 

楽しみを自分の力で1つ増やした大ちゃん。

それに私たちが寄り添えたことが嬉しい。

 

〜日々の積み重ね〜

 

今回は寄り添ってくれた大人がもう一人。お友達のお母さん。

小さな彼を大ちゃんと冒険に送り出してくれたことが大きなことだから。

シングルで子どもによりそう彼女が、子どもとの時間の合間をぬっていただいてきたお給料。最後に大ちゃんにくださったお小遣いはモノではなく、「大ちゃんじゃないとこんな形で冒険できなかったわけで、息子に素敵な経験をありがとう」ってことばとともにあふれる思い。そして大ちゃんの幸せが、ワクワクが続きますようにって、愛。

何者にも変えがたいものをだいちゃんは受け取って大きくなれてることが奇跡。

 

一緒に行ってくれた小さなお友達とそのお母さんへ、心からありがとう。

 

満面の笑顔をみせてくれた大ちゃんへ。私はそれが見たくて日々を過ごしてる。いつどちらかがともに暮らせなくなる時がきても、一緒に暮らした時間がこれからのささえであれるように日々を積み重ねてきた。これからもそうあろうと決めてる。

この笑顔のわずかなわずかな一部分を支えられた自分の、大人としての成長を愛おしく思います。あなたが育ててくれたんだ。

かけがえのない息子にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が成長するためのブログだけど。

自分が成長するためのブログ、トピックをつけてみます。

 

〜自分のために書いてるブログ〜

〜自分の思想を言葉にしてみる〜

〜私を変えてくれる存在〜

〜やっぱり全ては自分のため〜

 

 

〜自分のために書いてるブログ〜

 

はい、私は自分のためにブログを書いてます。

 

何かを教えようとは思ってなくて、ただ自分のために書いてます。

 

考えて整理してるうちにふに落ちるときがくる。

そうして気づいたら行動に変わり、そうしぜんに動ける人間になってたらいいなって思って。

 

それが、変わった時、なのだと思います。

 

だから自分の言葉で私はここが変わった、って言えるのは相当先だとおもってる。早くても三年後。

 

その時になって数年前を振り返って、ああ、楽になったな、って思えた時にやっと変わったね、お疲れ様ってもっと自分をハグできる。

ああ、わかった、変わった、って言ってるうちは頭でしかわかってないのだろうと自分に思ってる。

きっとよりよく変わるって独りよがりじゃ上手くいかないんだよね。

ちょっと変わった自分の姿が家族にとっても心地よくなければ、答えはそれではなくもう少し先。自分だけではなくその時々の家族の姿に応じて全く違う答えが出ることもある。

子どもが赤ちゃんの時、少し大きくなった時。子どもに対するうけとめかたやじぶんのこうどうがびみょうにかわっていくひつようがある。同じように旦那さんにもそう。赤ちゃんといるとあかちゃんを優先させたい本能があるからこそ、旦那さんへの気遣い方がある。

 

そしていつも忘れてはならないのは子どもが巣立って2人になった時、どう、パートナーと気持ちよく暮らしていけるかを思いながら今を積み重ねること。

それを踏まえて変わって行くこと。

 

家族のいる中で変わるって、そういうことも含めてる。

だから積み重ねの自分へのブログ。

 

 

〜自分で気づいちゃったこんな思想が好きだから言葉にしてみる〜

 

でも本屋さんに並んだ一冊の本みたいに自分が経験して気づいて、変えてみたら自分の好きな思想になってたりすることがある。誰かの支えになることもある。

誰かのために残します、なんて大層なことではなく、私がこれが好きだから、好きな人が増えたらいいな、って思うのでちょっとよみやすくなったらいいな、とおもって段落づけしてみます。

そして言葉にしてみようと思ってちょっと読みやすくしてみようかとおもいます。

 

〜私を変えてくれる存在〜

 

家族を思う暮らしが自分の人生を救ってくれました。

 

けれども、何をするにも、誰かのためではなく、自分のためだってことも見えてきました。

 

家族のための家事をしてるのではなく、私が、家族に気持ちよく過ごしてもらいたいから。

そして自分のためにいい塩梅に手を抜いてる。

子どもの人生の足を引っ張らない努力は、私が、自分が揺れて苦しくならないように小さなうちから自分はどうありたいか、時間をかけてかんがえつづけてほしいから。

旦那さんの優しさに気づく努力をするのは、私が旦那さんを大事にしたいから。ありがとうって思える日々は、自分との価値観の違いにぶつかったときも、仕方ないよね。いつもありがたいから自分が忍耐するのも大して苦じゃない。だからちょっと我慢して怒らずにはなしあおう。

 

旦那さんを大事にするってことは、自分を大事にすることも意味する。

 

子どもの主張がわがままだとか自己中だとか思わない日常。

子どもたちが親のために繊細な気遣いをしてくれてるのを知ってるから。

 

私にとって子どもの行為は全て愛があると思ってる。

 

朝、出がけにぐずぐずするのは、大人と一緒だよ。行きたくない日もあるでしょう、自分のとって好きじゃない空間であるのかもしれない。今日は行きたくないよ、ってメッセージ。

なんでも自分軸であるのは人間の本来の姿なんだとおもう。

これがしたい、あれが食べたい。ママと一緒がいい。ままはトイレも行っちゃダメ。あれしたい、これしたい。貸してって言われても貸したくない。これ食べたくない。

 

彼らの、今の声だから。

私たちと同じ、いましたいことがある。

ママは特別だから、一緒にいたいよね。トイレだってついて行きたい!

今日の気分はカレーだもの。カレーが食べたい。それと、栄養バランスではなく、体調で食べたいモノが決まるのは子どもの方が得意だと思う。

おもちゃだって今楽しいのに貸したくないよね。10分経ったら交代。私にとっての10分と我が子にとっての10分は同じなのかな??それにね、待つ方も、自分が待ってもらった経験をしてきた子は、大人が時間を決めなくてもまてる。相手が小さい子ならかなり長い時間待ってくれるよ。大きい子なら、もうちょっと短いかもしれない。相手の状況をちゃんと読めるようになって行く。大人が人の目を気にせず、急かさなければ、待つことも譲ることもできるようになっていくもんだ。

これ食べたくないなら、無理して食べなくてもいいんじゃない??っておもう。大丈夫、栄養足らなくなって病気になったりすること、相当こだわり強い子じゃないとないから。じゃなきゃ食事も楽しくない。私は酢昆布が嫌い。ニンジンが嫌いな人もいる。ニンジンじゃなくてもカロチン取れるから、笑。

 

しなくちゃいけないを手放してくれる宇宙みたいな存在。

そしてね、子どもは自分勝手だと思う概念を外すこと。

「子どもに何かを教えれば、それを見つける機会を永遠に奪うことになります。」ージャン ピアジェ

私はかの考えに共感しています。彼らは大人が思うよりずっといろんなけいけんをしかんがえています。そして柔軟に対応できる力を持ってる。

そして彼らの愛の深さはとてつもなくおおきい。まるで宇宙。

親がいくらあれていても、その家庭環境に慣れようとするし、親を守ろうとする。大人が子どもをコントロールしない、敬意を持って接する、そんな感覚が世の中のしみわたれば、親を守って亡くなっていく悲しい虐待被害が減っていくのかな、と思ったりもします。

 

 

〜そして全ては自分のため〜

話はそれたけど、結局、何をするにも自分が心地よく存在するための作業に過ぎない。

もうちょっと読みやすくしてみようかな、そう思います。

そしたらもっと心地よくなるかも。

 

 

子どもに、ごめんねって言いなさいと言わないワケ。

ごめんねって言いなさい!って私が子供に言わないわけ。

 

私は、ごめんねって言いなさいとか、ありがとうは?とかこどもにいいません。。

上の子が3つまでは言ってた気がします。

 

〜ごめんね、のこと。〜

〜なんで「言わせる必要がないのかな」?感情をあじわいつくすことに寄り添った日々。〜

〜自分に素直に生きる人から学ぶ日常〜

 

 

〜 ごめんね、のこと〜

3つの頃、息子が幼稚園で他の子に砂をかけてね。

ああ、ごめんねーってあわてながらすなはらって、息子にごめんねは??って言った私に相手のお母さんは笑いながら、言わせなくてもいいのよー、って一緒に素直をはらってくれてね。

 

なんで言わせなくていいの??

 

そう思ってすたっふさんにきいたの。

そしたらさ、「お母さんがごめんね、って言っておいたらだいじょうぶ。子どもはお母さんが悲しそうな顔して謝ってるってじっと見てるから。そのうち自分から言うようになるよ。」

 

その意味はなんとなくわからないでもない。。それとね、そこで気づいた。

たしかにまあ、砂かかってやだったよねー、ごめんねー!!って思ってるのは私の方。息子は泣かせちゃったなー。くらいだったのかもしれない。

そうか、じゃあ、そうしてみよう。

その気づきが腑に落ち、そこからごめんねもありがとうも言わせなくなったの。

 

でね、いまのこどもたち。

繊細な配慮でごめんねを使ってくれるの。

 

 

 

〜なんで「言わせる必要がない」のかな。感情を味わい尽くすことに寄り添った日々〜

 

って、検証してみました。長いぞ、ごめんなさい。

 

大ちゃんは幼稚園で素直に気持ちを表現して過ごしてきたんだよね。

自分の言ったことによる相手の反応を時間をかけて味わった。

 

二年間、函館で過ごしてお父さん仕事ばっかり系、お母さん発狂系の暮らしでこころがあれて帰ってきた札幌の幼稚園。息子は気持ちに余裕がなく、遊びたいと思う子にタイミングを読めずしつこく迫り、泣かせてしまう日々。

みんな素直だから、誰とでも仲良くしましょうは通用しない。

今は違う人と遊んでるの、だからヤダ。とあっさり拒否られる。そこに強引に入ってなかれる。

 

基本的に私は自分の経験したことしか自分にならないと思うので、見てるだけ。

経験したことが、その子の1つ1つの細胞になるのだと思うから。

その子のお母さんもただそばで見てるだけ。(私はこういう方針だからやられてる方より、やってしまう方の苦しみの方が大きいことも学びました。むすこがさってから泣いてる子にあやまるひび。私も泣きました。)

本人もさぞもどかしかったろうな。遊びたいだけなのに。いろんな感情を経験したろうと思う。最後までそのこに自分の思いを表現して諦めて離れてく大ちゃん。

毎日毎日繰り返し、どれだけの感情をどれだけ時間をかけて味わったのか、わかりません。

数ヶ月経ったある日その子と遊び始めました。(泣)

 

大ちゃんはどんな感情を味わい、どう整理していったのでしょう。

そのお友達もその感情をどう味わい、どう整理していったのでしょう。

 

こんな経験が数えきれないほどあるのです。

嬉しい感情も悲しい感情も言葉にならない感情も、こうして味わいつくして積み重ねた大ちゃんの人生。あの頃は分からなかったけど、いまのだいちゃんをみてはっきりわかること。

経験は全て細胞になってその人になる。

 

私はたくさんのごめんねを使いました。

泣きながら謝ったこともあった。

それをそばで感じてきた大ちゃん。

 

ごめんねを言われることもあったね。そんな時も感情を味わったんだろうと思います。

誰に止められることもなく、遊びたいだけなのにどうしたらいいの??って自分で自分を責めたこともたくさんあったろうと思う。

大人が答えを出したんじゃなく、大人が待てなくて止めてしまうこともない。次の活動があるから、そこまでにして、と大人がくぎってしまうわけでもない。

そんな中で味わう感情は、今だけのものではなく、長い期間にわたる思考の日々で厳しさもあったろうと思うのです。

 

でもそうして7年も過ごしてきた大ちゃん。

彼はいま、繊細な配慮でその言葉を使います。

そして彼から私は教わった。ごめんねは、言葉じゃない。溢れた気持ちなのだと。

 

感情を味わった中で、大ちゃんはある日ふっと気づいてくれたのだと思うのです。

「ごめんね。」って言葉から溢れる魔法を。

傷つけるつもりはなかったの。僕は怖い人じゃない、ただ遊びたかっただけなの。その方法がわからなくて、ごめんね。

 

こうして泣かし続けたことおともだちになっていきました。

多分、ある日ふと遊び始めたのは彼がそれをなんらかの方法で伝えることに成功したから。

そしてね、そのお友達も、ヤダ、しつこい、怖い、、、、わからないけどいろんな感情を味わい尽くして彼が本当にしたいことに気づき始めてくれたから。

「ああ、怖い子じゃないんだ、遊びたかったんだ。」

そう気づいてくれて大ちゃんのことを見てくれるようになって、そうして見えてきたら、なんだ、結構合いそうじゃんって思ってくれたのかもしれない、って今は思う。

 

ここに時間をかけること、私が子どもたちを幼稚園や保育園にあずけなかったワケです。

システム上、先生にそれをお願いすることはできないもの。

人体実験といえばたぶん、そうだとおもう。失敗しなくてよかったー😂笑笑。

 

 

 

〜自分に素直に生きる人から学ぶ日々〜

 

自分が自分らしく歩いてこれなかった理由は、自分の感情を味わい尽くしてこなかったからであり、素直に生きてこれなくて自分を知らないから。

幼い子は素直で嫌味も文句も言わない。

それは自分を表現できるから。

そんなこどもたちと、そうしておおきくなったひととふれさせてもらって、ああ、自分のことをわかるってたくさんの感情を味わい、自分に素直な人なんだな、ってちょっぴりだけわかってきたような気がします。

 

この人たちは揺れない。

自分の気持ちを表現することや言葉を使うことをおそれてないし、表現が的確、なんです。そしてみんな自分の親御さんに、周りの人に感謝してて(若いのに!)、だから愛が溢れて愛されてる!

素直で生きる、ってこういうことなんだとちょっとしりました。

だから自分との付き合い方が上手なんだって、いちいち大揺れせずに、自分を主張せずに、どっしりしてるんだって、ただただすごいなあーって。

 

自分を知ってる=自分の素直な気持ちを穏やかに伝えられる、うん、きっとそういうことなんだろうな。大人に止められずにすでにたくさんのことを超えてきた彼らは、揺れることもなく、自分の気持ちをずっしりと伝えて行く。そこに焦りはない。

この人たちはそんな人。いい先生に私は支えられています。自分の子が師匠になるなんて思いもしなかった。

愛の深さを教えてくれる子どもたち。そんな師匠に敬意をしめします。

いつも本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中のお父さんに思うこと。いつもありがとう。

世の中のお父さんに想うこと。

母は子供との時間が濃厚すぎて自分ばっかり家族のためにやってる気がしちゃうんだよね。でもお父さんも口にできないだけで、実は結構家族を思ってくれてたんだ!って気づいた話。せめてごめんね。ありがとう。

 

〜産後一年離婚の危機〜

〜夫婦関係を気持ちよく続けるための研究〜

〜世の中のお父さんへ。ありがとう。〜

 

 

ー産後一年離婚の危機。ー

 

結婚した頃はラブラブで、望んでたけどだいぶ経って我が子を授かってね。

 

切迫早産で安静になったのちに無事に生まれてきてくれたなあー。

 

とっても可愛くて愛しくて、だったけど、大変だった。

 

人を育てるって大変だって知った。

自分の時間もなくて、こそだてのひきだしもなくて、お昼寝してくれるとすごくホッとしたのに、たまに旦那さんが午後休とって帰ってきてくれたよね。

仕事を調整して帰ってきてくれたのにうちに玄関のチャイムを鳴らす時間が大抵一時半。

あかちゃんてさ、抱っこで泣かせた後、布団のうつすとないておきるんだよね。

だから、抱っこで寝かせた息子がちょうど布団に降りてくれた頃。。

 

ほっとした瞬間に、ピンポーン♬

玄関に猛ダッシュしてせっかく寝たんだから!!ってイラっとしてたよね。

あの頃から五年前まで気づかなかったことがあるさ。

 

自分ばっかり大変だと思ってて、旦那さんが私を思ってくれてたことをすっかり忘れてた。

現実の大変さに被害妄想。

 

鍵を忘れた旦那さんに、ああ、もうせっかくねたのに!!チャイム鳴らしたら、昼寝起きちゃうじゃん。

休みの日になかなか起きてこない旦那さんのいつまで寝てんのさー。

配属先が変わって、念願叶って本人の行きたい部署に行けて祝ったのにブラックな勤務時間。仕事ばっかりして、こっちは大変なんだから。

お母さんは本能やら経験で、子供が小さいってことはこいうことなんだけど、ここに手を貸してくれないかなあ。全く男子は痒いとこに手が届かない。。

 

自分の忙しさに相手を思う余裕を失ってね、自分はしてるのに!!

私が怒るもんだから、お互いにイライラ。

 

待望の我が子が生まれると女は変わります。

多分動物として、子孫を残さないと行けないから。あとは昔と違って孤そだてだからかな、被害妄想は強くなる。

 

言葉では伝わらないこと承知で、結婚する人に一つだけ送りたいとわたしがかってにおもってる言葉があるんだよね。

我が子を授かったら、旦那さんとの関係は確実に変わって行く。子孫を守る本能があるから子供に気持ちを注いで行くようになると想うの。でもできることならどうか忘れないで。今の旦那さんを理解しようとする気持ちと愛する気持ちを意識して持っていたら、旦那さんを邪険に扱わない。

夫婦の中での問題で他に大きなことがない限り、彼はきっと家族のことを思って動いてくれてることに気づいていけるはずだから。きっと多くのことはお互いを思うから生まれた行動のはずだよ、と。

 

ー夫婦関係を気持ちよく続けるための研究ー

 

過去を思い出すうちに気づいたことがある。

 

ごめん!

それにはっと気づいて旦那さんに10年前のことを詫びた。

彼なりに、私のことを思ってくれて、子供のことも思ってくれてたのではないか、って気づいてびっくりしたよ。

 

夫婦って一緒にいるといつに間にか、自分の方がやってる!!それなのに!!って思ってることが多くなってく。私はそうだった。

、けれども、今、思うとほんとうにそうか??自分だけが家族のためにやってるのか?っておもう。

 

そうして彼の思いを想像してみる。

あの頃の旦那さんは仕事してお金もらって帰らなきゃって思ってくれてた。だから仕事も人間関係も手を抜けないってね。

でも私が大変なのを見てて手伝いたいって思ってくれてね。我がことの時間も欲しいって思ってくれてた。だからたまに早く帰ると、息子とあそびながらせんたくほしてくれてたよね。

 

精一杯やってくれてたじゃん!すごく考えてくれてたじゃん。愛してくれてたじゃん。

なのにしごとばっかり、休みになると起きるの遅いし!!なんて、神様じゃあないんだから、私の思う通りなんて無理じゃん!!

そう思い始めたら見えてくる見えてくる、たくさんのありがたかったこと。

 

この研究と追及は永遠に続けて行こうと想う研究者ごころ、笑笑。

自分が優しさを育てて行くことを忘れないために。

でも今度はね、私ばっかり優しさを向けてるのに、ではなく、あなたが向けてきてくれてる優しさはなんだろうって発見した分だけ優しさを深めて年を重ねて行きたいとおもう。

 

よーするに、私が相手に優しさを向けることを忘れてただけ。

朝遅くまで寝てることもしかたないんじゃなくて、職場で仕事や人のことも気にして家族にことも気遣って1週間疲れたよね。だって、我が子は旦那さんが遊んで混んでくれてたじゃん、ありがたいじゃんって。今はすごく想う。

だからあの頃はごめん!!いつもありがとうって今でも言い続けてる。

 

ー世の中のお父さんへ。ありがとう。ー

 

それが染み付いて、今は旦那さんがいることがありがたい。

彼が何を考えてこの行動をしたんだろうって考えるとたくさんのあいがつまってることにもきづけてね。

んで、この行動がちょっと気になったけど、どう思ってしてるのかなって考えてみる。そうして聞いたりもする。そしたらやっぱりそうかー、いつもありがとう、って気づける。思い違いで、行き違うことを防げる。

 

性差はある。けれども1日の大半や優しさで動いてくれてることを知ってるから、イラっとする必要はないよね、って大方思える穏やかな日々が好き。

 

そうしてどれだけ私が愛してもらってたのか、家族が愛されてたのか気づける。

 

だから、誰かがうちの旦那さんは言ってもやらない、と愚痴ってるのきくとおもうんだ。関係深めないのはもったいないなって。仕方ないから私がやるんだけどさ、って私は、また自分でストレスを溜めてるひとだった。

 

もしくは、また別のパターンで、だから私はそれにイライラしないように自分の行動を変えるって言うひともいる。もちろん、成功する人もいれば、しない人もいる。

どちらかというと、私はこの失敗パターン経験者。ダイエットに失敗する人と同じ原理。自分の行動変えればいいんじやーんって言って、続いても1週間。

そう思ってもその思考が根本から変わって行くって、時間がかかると思うの。何度も修正して気づいたら自然に行動にうつせてる、それが多分本当に変わる、ってことなんじゃないかとおもうの。

それに気づいてから習慣にならなければ、思考をコントロールするのに無理が生じてストレスになるんだよね。

習慣になって行くまでゆっくり失敗重ねつつ、自分の成長に時間をかけるしかないけれども、大人と違って子どもは大人よりだいぶ早くこういうかていをこなしてゆく。

すごいんだよね。

 

世の中のお父さんは、好き勝手やってるようで、そうじゃないことの方が多いとおもうよ、と感じてます。

そうじゃなくなったとしたら、自分も相手を想うことに手を抜いたのかもしれないし、相手に知らない部分が多すぎたのかもしれない。

我が子たちのように丁寧にコミュニケーションを取って行くこと。

旦那さんがしてくれてることに目を向けること。

なによりも自分がちゃんと旦那さんを思えて動いているかを日々確認して行くこと。

 

旦那さんが色々思ってくれることを知ってたら、細かいことはどうでも良くなって行くもんだ。

旦那さんにはいつも感謝してます。多分ね、私がきづかないことも配慮してくれてるんだと思ってる。それはお互いに同じ。

ありがとうね。

 

そして世の中のお父さんに私は密かに思うのです。

奥さん愚痴ってるお家もあるとおもうけど、旦那さんが思ってくれてることが実はもっとあるんじゃないかと。亭しゅ元気で留守がいい、って言われがちだけど、旦那さんは旦那さんの形で家族を思ってると思う。

旦那さんは奥さんが思ってる以上に家族を思ってくれてるんだと私はおもいます。

そこに努力をし続けようと思う私。

でもね、多分、この視点を持った時にそのことに気づくのは私だけではないんじゃないかっておもう。

だから、私はちょっぴり先に、世のお父さんへありがとうってお伝えしたい。

そしてね、実は、どちらかというと、(相性ってあるでしょうし、こどもって繊細に気遣ってくれてるから)口うるさいお母さんより、お父さんといる方が心地いい、ってこも結構いるんじゃないかとおもうんです、笑笑。

 

長い夫婦暮らしだし割り切って、自分がガンガン動くのも一つの方法だと思います。

でももう一つの方法もあります。

旦那さんがどれだけ家族を思ってくれてるのか、感じる努力をしてみること。家族の関係が変わって行くのは多分ここからだと思います。

そうしたらすごくありがたいことに気づく。ありがとう療法。

その感覚は、時間を重ねるにつれてこんなことのあって、あんなこともあってと感謝が積み重なって行くから。

 

じかんをかけて、相手を思える優しさを持てる人になろうと積み重ねてる日々は、以前よりずっと生きるのが楽になりました。すぐには変われない、それは自分を待つことであり、これができればもっと楽になる。これからもいろんな感覚とともに積み重ねて、変わって行こう、そうおもうのさ。ちゃん、ちゃん♬