日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自然の大きさには抗えない。

札幌の山で暮らしておもう。


車の音のしないしんとしずまった世界で雪の季節の凛とした空気をすったとき。
新緑が深まったころ、朝7時に外の様子を見に出たとたん、ハルゼミの声に包まれたあの時。ふと上を見上げたら目の前にすっと立つ新緑をまとった大木の威厳に動けなくなった時。
夏の暑い日、うちの下の川に降りて、今まで聞こえてた子どもたちの声がその流れと水の音にかき消されて、流れに意識が吸い込まれ、水の流れる岩肌の輝きが見えた時。
秋は深まり、葉が色づき、収穫を終えふと前の山を見て今日が一番綺麗だ!って立ち止まったあのとき。
雨が降る2時間前に響いていたたくさんの蝉の声がピタッと止んで、あ雨が来る、って知ったあの時。
また別の日に大雨がやんで、小雨になり、雲の割れ目がでた頃、トンボがわっと飛び始めて、ああ、雨が上がるって感じたあのとき。


タイのジャングルで思う。
雨と風が吹きすさんでる時の自然の力の強さに今日はすごいな、って思った時。
前の日の焚き火の火がわずかに残っていたところに朝の掃除で落ち葉をかぶせながらゆっくり火の精が降りてくるのを待つあの時間。
散歩の帰りに真っ暗になって、数メートル先の光に引き寄せられ追いかけて行った子供達のそばに駆け寄ったら、お尻の光る芋虫を見つけた。あんなにもっさりと歩く光る芋虫。これじゃあ、すぐに取りに見つかって食べられちゃうのになぜ彼らは光ってるんだろうって今でも不思議だ。
日が落ちたら隣を歩く子どもたちの姿が全く見えない。彼らと繋いだ手か、彼らの歌う声だけが彼らの存在を感じさせてくれるあのかんじ。人間の持つライトなんて小さな光で、自分のたった1人の足元しか照らせないって自分の小ささをぐっと感じる。


娘の幼稚園での感謝祭で最後に子どもたちが持つ小さなキャンドルに囲まれる時間がある。
柔らかで暖かいあの炎の揺れに、子どもも私もすっと吸い込まれる。


美しさに息を飲む。
自然の中に存在している者たちの表現してくれてるあのようすに、たちつくす。
こうして季節は流れ自分はその中でどうにか生きてる。


何も考えることができなくなる。
何事にも抗うことができなくなるあの時。


私はこの暮らしの中でこういう瞬間にたくさんであう。
幼い頃から誰にも邪魔されずに、こんな瞬間に時間を注いでいる我が子たちを思う。


何を考えるでもなく、ただただ感性をそこにのせているこの時間がたくさんある不思議な感覚。
なんとなくだけど、
こうして自分は癒されていくんだろうと思う。
ジタバタしても仕方がないと思う感覚が染み渡っていくのだと思う。
自分ができることの小ささを感じ、少しずつ手放していけることが増えてゆくのだと思う。
自分は自分でいることしかできないのに、なんで頑張って無理してきたのかなあっておもう。


自然の中にいることは、感性を喜ばせてくれる、というか振動させてくれる。


綺麗なものをもっと綺麗だと思えるようになったじぶんがいる。
いきてる中には言葉にならない瞬間が本当にたくさんあって、大人だからと言葉にする必要もなく、できないことは、できなくてもいい。ただ素直に自分から溢れたことを、したいことをしていくことしかできないのかもしれない。


誰と比較することもなく、今を自分に誠実にいきていくこと。自分は自分でいることしかできないのだから、それを楽しみたい。
感じたままに受け止める、ということはわたしにこんなことをおしえてくれたきがする。


寒くてもここでの暮らしが大好きです。お風呂の壁もないけど、冬の洗い物も真水だけど、最寄りのバス停まで4キロあるけど。
大好きだから大変さも面白いと思える。
持病はあれど動けることがなによりありがたいと思える。
気づけば愚痴を言うことも全然なくなりました。だから心は軽い。


火が生活の中にあることの尊さをここでまた感じました。火は私たちを生かしてきてくれたもの。そんなありがたいものだから、火は悪いことに使ってはならない、それも生活の中で身につけていくものだと、私は思います。

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