日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

おもちゃ。

あるひ、友人であるママ友に接していると、おもちゃを買い与えたくないのに、買ってしまう、というはなしをしてくれました。まだ小さいのだから、物理的に欲しいものの多くをこちらから与える必要はない気がするけれども、そうしてしまうそうな。もちろん、とっても良くわかるけど。

 

それをかんがえていて、近頃、わたしは気づいちゃったことがあります。そもそも、その行為が自分にとって矛盾しているから、起こった出来事をマイナスに捉えてしまって、問題化していくのではないかと。与えたくないなら与えければ、自分でそのことを問題にすり替えて行くことがなくなるんじゃないかなってかんじます。

 

そもそも、自分がしたくないのにそうすることを繰り返す。与えたくないのに本人が欲しがるからおもちゃを与える、って自分に対して誠意がないということにもなるし、責任が持てないよなあといくつかのケースから感じてます。本人が欲しがるその想いと、自分が母としてどうその子に接したいか、しっかり向き合って答えを出す必要があるとおもうのです。そういったことが積み重なり、わがままになってゆくというか、子どもが自分をコントロールするちからをうしなってゆくのかもしれないと。わがままに付き合うのと、その子の自由な選択を認めることとは全然違うことだと、私が気づかせてもらったきがします。わがままになる、ってその子自身が不自由なを感じるだろうなと。

 

自分がしたくないのにするっていう矛盾を抱えた大人が(私自身も過去の癖からそんな姿がまだ顔だすこともあるのでこれを通して自分の気づいてない部分での自分の矛盾した部分に気をつけていきたいと感じてます。)なんと多いことか。私も今もまだそんな自分と向き合い続けていますから。

 

おもちゃが悪いとか、いいとかではなくて、我が家はおもちゃはきりがなくてあまりなかったのだけど、もののないタイ で暮らしたり、いま、9歳になる大ちゃんと接したりしていて思ったことがありま

 

おもちゃの 欲しい!!  は、きりがないと思うのです。

 

おもちゃを売りたい企業があるのですから、どこかでそこに大人が気づかなければ、そういう情報をキャッチしてしまう子どもには止めようがないこと。

それは、美味しそうな写真により、外食したくなる私たちの心理と一緒。

 

80歳まじかの園長がいっていたこと、私は開拓時代のもののなかった暮らしの経験がよかったのかもしれないなあ、物は十分だと。

 

私たちの世代は生まれた頃から多くの人がそれに恵まれすぎて、便利なことが、今すぎに手に入れることが、当たり前になってる。だから自分の欲と向き合うのが苦手なように思います。

 

本当に楽しいこと、必要なことにお金と時間を費やしているのか、最近、私はそのつど、ふと考えるようになりました。

 

そしてついさっき、そのことをだいちゃんとはなしました。

 

今朝、旅から帰った大ちゃん。自分で貯めたお金を、ずっと夢だった新幹線に乗る旅に使い切って沢山のお土産を抱えて帰ってきた大ちゃんの晴れ晴れした顔を見て、私の気づきを伝えておこうと、おもったので。

 

日常の中で細々欲しいものはキリがないこと、タイでの暮らしと今の暮らしを比較して、大ちゃんも同じ気持ちでいてくれるようでした。彼の手に持てるギリギリのお土産が、本当に楽しかったことを物語っていました。いつも貯めて来たお金を、惜しげも無く使い込んで、私と、こゆの喜ぶ顔を見たくてこれだけの量になったのでしょう。

 

小麦のアレルギーもすこしあるから日頃は食べないパンをお土産にしましたが、旅の中で自分が食べたハンバーガーを再現したくて、残ったお金を帰って来てからのハンバーガー屋さんごっこにつかうと、スーパーマーケットまで買いに行って、笑。こゆのうれしそうな顔を見て沢山振舞ってくれました。

 

大ちゃんの好きなこと。食べることと作ること。本当に好きなことに使ったお金と時間。夜行バスで帰ってきて睡眠不足の青白い顔してうちに上がったのに、楽しかったことを表現したくて青白さをまた吹っ飛ばして自転車で買い物に行き、自分で出費の計算までして作ったもの。

だから私が何も手伝っていないのにこんなセンスのあるハンバーガー屋さんになりました。

 

ハンバーガーとジャムパン、チーズとソーダハンバーガーには自分で作ったハーブソルト味の鶏肉とこんがり焼けたチーズが入っています。この時間までがかれの旅だったのでしょう。

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彼は好きなことを、ちゃんと極めてるなあって感じます。虫の大好きな友人kくんの好きっぷりが、本当に好きなんだって背中から溢れていて、そこからまなんでいることがすごいなあって思っていたけれど、大ちゃんの好きなことはここにあったんだって深く感じさせてもらいました。

 

好きこそ物の上手なれ。この言葉を思い出します。だから彼の料理をする、という探求には丁寧に付き合っていこう、と改めて感じながら。

 

この経験で、欲をコントロールすることで得られたものの価値を、私も旦那さんも、大ちゃん自身も感じたようです。すごく気持ちがいい。

 

欲をコントロールすること、じぶんにほんとうにひつようなのものをかんがえること。今回はそこにまつわる喜びの共有まで含めて本当にいい時間をもらいました。子どもに寄り添う努力をしつづけてるかみさまからの褒美かなー。

 

子どもの喜ぶ顔を見たくて与えてしまう自分のその行為が(私の時々あまい者の誘惑で、かってといわれてないのに買ってしまい、子どもが自らみつけたものを食べたい時に、昨日も食べたでしょ、また甘いものばかり、と怒ってしまい反省してました。余計なお世話、だったなあと。)まず、単なる自分の欲だったりする。それが結果、欲しいものを沢山増やす生活にこどもを巻き込んで行かないか。。。

 

私たち自身が欲をコントロールすることをしていくこと、それを伝えて行くこと。ものがない生活をして見たからこそ、しったこと。

 

ものに縛られない、欲に縛られない暮らしは心穏やかで豊かなものだと経験した自分の人生の時間をありがたく感じています。

 

家族で日々を積み重ねられることも。

そう気づいたきょういちにち。

今日も楽しく過ごせてよかったね、だいちゃん。

我が子が日々を楽しく過ごせせるようサポートすることってゆるくない。

けれどそれが親にさせてもらったことから得られる学び。離れていた三日間も、彼は私に学びをくれていました。

少しは我が子に寄り添えてるだろうか。

明日も精進するね。