旅の帰り道。
我が家は一年に2度、引越しをします。
札幌からサハイナンへ。さはいなんからさっぽろへ。
子供達は歳の数以上に引越しをしています。
今日はサハイナンを発つ日。
がやって来ました。いつもこの日におもうこと。
札幌はどうなってるんだろうな。私はすっかり浦島太郎。
けれどもここでの暮らしは私に考えないという時間をくれました。
いつでも目の前に出た答えの方に進んで来た2ヶ月間。
ここの暖かさで胃の痛みがなくなり、身体が軽くなってからすっかり考えるという習慣が吹き飛んでました。
目の前に起こったことをただただ受け入れて来た2ヶ月間。
なんとも楽でした。
不安も恐れもなかった2ヶ月間、ただただ楽しかった。
自分がどれだけの緊張の中で生きて来たのかをしりました。
痛みさえ感じなかった胃の緊張がどれだけのものだったか、ここに来て1週間で食事が心地よく身体に取り込まれ、排泄をするという循環。
食事はあるものをいただき、自分がしていたのはただ自分ができることだけ。
でもちょっぴり食事を作ることは意識していたので、札幌に帰ったら、これもゆるくやってゆきたい。
自分の身体と心が緩む感覚を今年は感じた2ヶ月間でした。
緩んだからだは起こったことをただただ受け入れて流してくれていました。
誰かの行為に正しい正しくないととうのではなく、自分のしたことが失敗だったと思うこともなく。食事がちょっぴりうまくいかなかったことでさえ、経験を得るということに失敗はないよね、って自分がすっとおもえることがうれしかった。
そう、私なりの経験を重ねて来た今おもうこと、人生において失敗なんてないよなあっていうこと。
そう、今の私には自分の経験も誰かの経験も、失敗っておもうことがない。
それをけいけんしたからつぎはこうしようって思えること、これって価値以外のなんだろうって思うから。
全然敗者じゃない。
失敗も成功もないってことなのかもしれないね。
自分がうまくいかなかったって思った時に失敗になって、うまくいったら成功になるのかな。
ってことは自分の思い次第ってことだよね。
うん、やっぱり成功でも失敗でもない。
自分の生きる経験の一つに過ぎない。
楽に生きるため、楽しく生きるため、に自分の生を積み重ねていけたらいいなっておもう今日この頃。
わたしは札幌に帰って、寒さでまた身体が緊張しちゃうのかな。
そうかもしれないけど、歳を重ねるごとにマイペースに生きていける人間でありたいと思う。
私がここにまた帰ってくるのはまたこうして自分の中から湧いてくる気づきや感情と時間をかけて向き合って行きたいから。
ここでの暮らしは不思議です。
いま、瞑想とか、喋らない合宿とか自分を見つめるワークとかいろんなことがあるけれど、静かに自分を感じながら暮らせているから、そういうことにめっきり興味がなくなった。自分の今を疑う必要がなくなったからかな。
ただ暮らしているだけなのにね。
雨の音と匂いを感じ、地に足をつけて動物に近い暮らしを。
自分で食べ物を見つけてくる暮らしを。
日の恐怖も知りながら毎日火とともにあるくらしを。
美味しいね、つくってくれてありがとう。いえいえ、てつだってくれてありがとう、とつたない言葉なのにそれでも十分なくらいに人と関わりあい、おもいあう暮らしを。
自分がするべきことがあるし、自分がそれをすることが心地いいから、人のことには構ってられないくらしを。
目の前の害だとしか思っていなかった虫が自分に恩恵をくれていた衝撃をかんじるくらしを。
自分が心地いい時間が昨日より1秒長いことがうれしい。
そう思えるようになった。
そうしてふとおもう。
人は便利な暮らしにはとまどいなく進めるけれど、過去の暮らしを経験することに戸惑うのはなぜだろうと。
どっちもいいのにね。。
私は自分のことだけを考えたらどっちもすばらしいとおもう。
けれども自分だけではないことも考えに入れてみたら、過去の暮らしをかんじてゆくのがすきだった。心地よかった。楽だった。
だからまたここにかえってくるのだろうとおもう。
人の目を気にして緊張感が絶えなかった自分が癒えたから。
人のことを評価していた自分を手放せたから。
自分の今が受け入れられるようになったから。
家族が今の私を好きだって抱きしめてくれるから。
ここで暮らす時間が私たち家族にとって幸せであり、私たちの周りにいる人たちも幸せでいてくれる。
家族と周りの人たち、そして自然が私を癒してくれました。
目の前で起こったことに不思議は感じるけれど、否定することがなくなったから楽になった。
今の私はすっかりわすれっぽい。自然の癒しの力。
ああ、あの時嫌な思いしたんだっけか。わすれてたけど。って笑っている私がいる。
あの時の嫌な思いより、今日雨雲が来てるからどうしようか考えることに忙しい。
幸せは多いほうがいい。
幸せな人は多いほうがいい。
札幌での時間もそうでありたいと思う。すこしずつそうなっていっているとおもう。もっとそうなってゆきたいなっておもう。
ゆっくりゆっくりマイペースで、今年の札幌ライフはいきたいな。
今年はいつもより少し上手になった。
歌える曲が増えた。
楽譜を書き出したノートは砂でよごれたけど、今度は自分の中にのこった。
いつもこの景色を見ながら歌いまくったから、ウクレレをひくとこの景色が目に浮かぶ。
なんとなく感じる村のこと。
このむらのこと。
地域の仲間と協力して家を建てる。みんなで協力して建てた家はあっという間に出来上がる。そばで見ている子供達もスキルを身につける。
バッファローのウンチと果物の皮で作ったEMとライスハスク。それに少しばかりのバイオチャコール。これを作るのに牛飼いからウンチを買う。買うといってももうけるほどのねだんではない、そのひにたべるぶんだけ。これで肥料を作る。
畑を耕すのに家族で協力する。種まきの時期、収穫の時期には家族で協力する。だから村の子供達は学校を休む。労働力としてではなく、この時間は親について生き方を学ぶ時間とサンドットさんは表現する。
サンドットさんの3歳のむすこくんは歩き始めた頃からいつでもサンドットさんと一緒でした。パパの仕事をしてる側で自分で楽しいことを見つけて遊ぶ。少し大きくなった今は、子ども同士で遊ぶことも増え。こゆやだいちゃんとのじかんもたのしむ。
彼はいつも目の前の状況を相手の気持ちを踏まえて考える。譲れない時もある、けれども自分の気持ちと相手の気持ちをその都度じっくり考える。
我慢ではなく、自分が満たされた上での優しさ、待てる力はとても豊かな優しさとなる。
彼はいつでも穏やかに考える。気持ちのせいりがつかなくていつまでも泣いていることがない。たった3歳で気持ちを自分で整理でき、おとなをまてることに驚くけど、寄り添うってそういうことなんだよね。
この村の笑顔の大人たちに、やさしいこどもたちにこの村のあり方をかんじさせてもらってる。
子どものペースに落として仕事をすること。あとでね、ではなく、この子の今を受け止めること。それが安心感になる。
両親の経験が我が子の経験になる。きょうみになる。その興味に寄り添うことが、彼の人生になる。
多くの時間を家族で共有すること。お父さんと共に、お母さんと共に、それ以上の時間を家族一緒にすごすこと。心が満たされるほど、何かに依存しなくていい。甘いものにもコーヒーにも。家族でバランスをとるには、お母さんだけではなしえない。おとうさんだけでもなしえない。2人揃っていたらとってもいい。村で見守れたらもっといい。
この村の子どもたちは川で遊ぶ。皮だけではない、村のあちこちをふらりとすると仲間に出会う。そうして一緒に遊び始める。共に暮らす場所だから気持ちがぶつかり喧嘩になっても、また楽しくかかわりあう。子どもの頃から年齢の違うこ、おじいちゃんおばあちゃんと関わりあう。身体に障害を抱えた人とも。だから共に生きるのはふつうのこと。
いろんな人と関わりあう経験はいろんな状況を想像する力を育てる。だから彼らはとてもやさしい。
思春期になっても小さなこと関わりあう経験は、親になるためのきちょうなけいけんになってゆく。
そして何かしなければならないことに縛られずに、楽しい時間を思い切り過ごす。
楽しいことを生み出す知恵が生きる知恵になる。
この村の家にはマットレスと蚊帳、テレビと冷蔵庫とお皿。幾らかの調理器具。それに服。
本もなければテーブルもない。おもちゃもわずか。兄弟でお下がりを使い合う。服もそう。大人でもお下がりをもらい合うこともある。
ご馳走を食べたいということも多分ないのだろうと思う。
いつも同じようなご飯を飾るわけでもなく、いつも同じプラスティックやたけのお皿で分け合って食べる。
食べる量も幼稚園児くらいだから、バイキングに行く必要もないしね。
カルボナーラみたいな重い味付けを好まないタイのトラディショナルふーどのむら。
旅行に行きたいということもないのだろうと思う。
日々の暮らしで時間がすぎてゆく。
そしてひととあうことで遊ぶ。
早めの手作りのお酒の晩酌で会話を楽しみ、日の落ちた8時には寝て、また3時ごろからまちのあかりがともしだす。
スマホが入り、情報が入るようになったので少しずつ変わり始めているのかもしれません。
けれどもどんなに少なくてもみんなで食べ物を分け合うという時点で欲はほぼないのだろうと感じています。
南の国は食べ物が豊かだから人がのんびりしてるんだよ、と聞いたことがあります。
確かに温かい分、育つのが早い植物があると思います。
けれども一年かけて育ったパイナップルの木からはたった一つのパイナップルしか取れません。
半年から一年かけて育ったバナナの木からも取れるのはたった1バンチ、一つの茎に実った数ふさのバナナだけ。
食べ物がたくさんとれるから、というよりも分け合うから困らないのではないかと感じています。バンコクのはたくさんいた物乞いさんがここにはまったくいない理由もきっと助け合ってるからなのだとおもいます。
満たされた大人が子供を育てる。すごく豊かで優しいこの文化を真似したいけど、正直これをそのままわたしの札幌の暮らしに持ち帰るのは難しいとおもっています。
先進国が良くないっていうのではなく、その国々にその国の人の持った良さがあって、それいかして多くの人が幸せを感じているのならそれでいいと思います。けれどもたくさんの問題も感じている私は、昔の良さ、もしりたいとおもうのです。
私がここにきているのは日本が良くない、不便がいい、っていうのではなくてね。そう、私は日本でこれほどまでに見習いたい人や場所にいくつか出会うことができたから日本もとってもいいところ。けれども同時に、ここ、タイの村でも私の好きな豊かさに出会えたのでここで感じさせてもらって自分に積み重ねてみているだけなんですよね。国は関係なくて人とそれ生きてゆくのに大事なことはなんだろうって、学ばせてもらっているだけ。
こういうことって、本を読んで自分の中で活かすのはとっても難しいことだと思うのです。
暮らしの中で自分の中に積み重ねてたくさん感じて、自分で動いてみて、自分がどうしてゆきたいのかがさだまってくるとおもうのです。
自分のペースで、子どもの頃自分がどんな環境で生きていけたら幸せだったかを今考えています。
いろんな時代があって今がある。
いいところを寄せ集めることってできないのかな。
息子の通う学校で授業をしてます。
旦那さんは日本語の。言葉も通じ合わない同士ですがこれもわるくない。
子どもに教わることで同じステージに立てるから。
塩の上に色を乗せてアートの授業。
みんなの分を準備していなくても自分の番を待ってそれぞれのペースで進んで行きます。
犬と遊んでのんびりまってます。待つのが得意な子どもたち。
授業がおわって火おこしして持ってきたマシュマロを焼きました。
こういうのって結構盛り上がって交流にはもってこい。
全員満足するだけの量はなかったけど分け合います。
これって積み重ねなんですね。
私は閉鎖的な核家族でそだったぶん、自分のことを考えてたし、おやも我が子を優先しがちだった。この子たちは村で育ってるから、学校に来てるみんなのことをかんがえあう。大人もそうなのでしょうね、自分の子が、ではなく、みんなのこ。我先に大きいのを選ぶこともありません。
いつも自分の身体をかんさつすること。
身体の事。
長いこと悩んできたカンジタアレルギー。
身体がめぐるようになってきたのか今年は時折手首足首辺りが痒くなることに気づいた。
夜、副交感神経優位になる頃、ただただ痒くなってはかいて。
蚊に刺されてもこんなには痒くならないはずなのになんでだろうっておもいふときづいた。
今までもなんども経験があった。
家族が痒くないのに自分だけがかゆい。
のみのせいでも蚊のせいでもない。
これ、アレルギーだわ。
そう気づいて食事に気をつけてみたら、3日くらいで収まり、蚊に刺されてもその時しか痒くなくなり、ちゃんとねれるようになった。
その意識が出てからかゆみがぐんと変わりました。
自分がどんなものを食べたか意識してること。
お通じをよくすること。
はだしでよくうごくこと。
甘いものを取ることもあります。
それでも不思議とここにきてぐんとよくなってきたのです。
すみはみがきこもきいているのでしょう。
たのしくすごすこともきいているのでしょう。
すいぶんをたくさんとること、それから、ジンジャーティや生にんにく、しょくもつせんいをとってることもきいているのでしょう。
ふんどしパンツもきいてくれているのでしょう。
1日8時間くらい寝てた身体のとおりをよくしていることもきいているのでしょう。
自然の中での暮らしが、生のスイッチをいれてくれからだをなおしてくれてることもあるのでしょう。
でも一番は身体の変化に敏感になってきたこと。
かゆい、いたい、なんかここんとこが気持ち悪い、はどこからきているのだろう。
このかゆみはどこからくるのか。
かのかゆみだと思ってたけど根本はちがうとこからきていたらしい。
イライラは便秘からもやってくるし、疲れからもやってくる。
そとがわだけじゃないんんだよなー。
結局は、薬で抑えても、少しばかりなにかを変えても変わらない。
西洋医学がきかないのではなく、習慣を変えて根本を変えていかないからまた繰り返すだけなのかもしれないな。
薬をとることに慣れすぎて、根本の原因を見つけ、習慣を早いうちに変えていくことで、病が重くなる前に、自力で治すことができるのかもしれない。
全ては自分の習慣の中で、自分の体に合わない事を辞めていくことがだいじなのかな。
病は全て生活習慣病、なのかもしれないな。
サタデーマーケットで外食したら効果てきめんにかゆみが戻りました。
こうして自分で感じて自分で習慣を変えていくことが、薬から離れる方法なのだろうな。
対症療法にも何度もお世話になってきたから、ありがたいことだと思っています。
でもやっぱり私は薬に頼りたくないので頼らない方法を考えています。
病院もあることがとてもありがたい。
でもこうして異国の地でいつでも病院にかかれない中で暮らして思うのは、からだとていねいにむきあっていけば大概のことは病院に行く必要がないのかもしれないということ。
指を金槌で打った時もそう。
かなりの痛みだったけど自分の指先が時間をかけて自力で治っていってくれました。
そうして自分の身体がとてつもなくすごい力を持ってることを感じられたし、自分の身体が今どうなってるかを想像することで自分の身体の使い方がまた一つわかった気がします。
怪我や病気を自分で超えることで次にそうならないようにどうしたらいいか、自分の取扱説明書ができていくようにおもうのです。
自分でナタを使ってさまざまな暮らしを作り上げること、その経験から得るものはとてもおおきい。身体を使うことで注意力、技術がつき、怪我することで自分の身体に目を向け、痛みを知る。これ、日本の幼児教育、義務教育の中ではかける時間がかなりすくないようなきがします。安全設計の道具で、ゼロからではなく既に使いやすいセットにされた状態で、決められた時間の中でしあげなくてはならなくて、せっかくの五感を育てる時間が発揮しきれなくてもったいないなあとおもうのです。
それと同じように自分で自分の病と向き合うということは、自分の身体と心と向き合うスキルをつけてくれる気がするのです。
病が小さいうちに、自分の身体とのおつきあいの仕方を見つけられたらいいなとおもい、今は自然療法のホームドクターにお世話になりながら、経験を重ねています。
日頃から自分の身体を観察することが病になった時の自分の身体とのお付き合いのヒントになるんだということをとても感じているので、日頃から意識して自分の身体に耳をすますようにしています。だからなるべく忙しくしたくないなあとおもいます。
こゆのアレルギー症状が薬草のおかげもあって少し良くなって気がします。
口の周りに時々出ていた赤みがでなくなり、彼女のイライラの表現がぐんと減りました。
身体が少し楽になってきたのかなって感じています。
日本ももうじき春。
緑が目を覚ましたくさんの野草が芽吹く季節。
今年はたくさんの野菜を取るのではなく、野草を日頃から取り入れて、少しずつ取っていってみようかなあと思います。野草を取ることで、身体のスイッチが入るのか、頑張って我慢しなくても満たされて行く気がするのです。食べるものは薬。薬膳を意識する必要もないのかなってふっときづきました。こうして毎日少しずつ野草や葉っぱ、茎やつるを取って行ってみようと思います。楽しみだなあ。
みてみて、きいてきいて。
さてさて5歳になるこゆのはなし。
膝にいることが多いこゆは自分の話をするときに、私の顔を両手で挟んでにんぎょうのようにくいっと自分の方に私の顔を回して話をする。
聞いてるんだけどね。
みてるんだけどね。
私はそのつもりでも彼女がもっとちゃんと全身を自分に向けて欲しいのかな、観察してみてそうおもう。
一日中マシンガントークの彼女。聞いても聞いても顔をクイって回されるくらいみて欲しいらしい。
私もそうだったのかな。諦めてたようで覚えてないけど、子どもたちってみんなそう。
みてみて!っていう。
私は大きくなってからだった。自分ができることが嬉しくてみてみて、って今使っちゃう。子供達が引っ張り出してくれた子供の頃の自分。今ここのところの成長期を通過してるところかもしれません。
私のみてみてに、子供達はほとんど手を止めてみてくれる。時々スルーするけどさ。
こうして自己肯定観察が育って行くんだろうなと思う。
みてもらったらうれしいもの。
こんな時期の子どもたちと過ごす、幼稚園の先生たち、多忙すぎてそんなにみてられないよね。私もそうだったな。しっかり見てもらった子供達と、そうでない環境で育って来た子供達に違いを感じてます。しっかり見てもらってきた子供達の方が、誰かに対する配慮が歴然に大きいことにふと気づいてね。
喧嘩をすると必ず私に言いに来るこゆ。それをおいかけていいにくるだいちゃん。
いつだってパパではなく私に言いに来る。
お互い様なんだけどね。って思うからどちらの見方をするわけでもないけれど、見て見て、聞いて聞いて、の一日。
こんなときはちょっと面倒臭くなるけどさ、笑。
なぜこんなに彼らは見て欲しいんだろう。
聞いて欲しいんだろう。
自分の存在を揺るぎないものにするためって言っちゃえばそうなんだけど、なんでかなあ。
みてもみてもみてほしい。
野暮ながら大ちゃんに聞いて見たら
だって、自分すげーって思うから聞いて欲しいじゃん。
だそう。
そっかあ。。
まだまだ私、ペースが早いんだろうな。
我が家はありがたい環境にいるので私たちだけでなく彼らのことを見守ってくれるひとがたくさんいます。
でもね、もっともっとペースを落としてみて、きいてにゆっくり顔を向けられるようになりたい。
彼らとの時間を自分の中にしっかりきざむために。
そうしてそれが彼らの生きる上での力になってくれると思うから。
子どもといる時間は、自分の時間を奪われてるわけではないよなあって改めて思います。
この経験は、自分にたくさんの気づきをくれる時間。
こどもたちがここにうまれてきてくれたことで、私は苦しみももらいました。
でもそれを命がけで超えたからまた幸せな気づきをもらい、今を生きています。
また超えなくてはならない自分の壁がたちはだかっては、それを超えてもっと自分がしなやかになって行くのだろうなとおもうと、共に苦しみを超えてくれる彼らに感謝の気持ちが止まず、また、人として育ってゆきたいと思うのです。
それしか彼らに残せるものがないからさ。
子どもとの時間が心地いいものであるとき、自分の成長を感じることができます。
子育てじゃなくて、子供達に育ててもらってるのはやっぱりわたしなんだよなあ。
みてみて、きいてきいて。
今日はいつもより心を寄せて一緒にいようと思います。
最近は旦那さんまでこのペース。
ねえねえ、きいてー。。
家族揃って子どもみたい、笑。
でも家族それぞれのこんなとこが私にも新しい気づきをくれるのでしょうから大事にしないともったいないね。
今日もよりよく生きるために自分がすること、が続きます。
こうしていつも自分で試して自分に落として、自分の生が輝いて行く方向に目を向けて歩いて行ける。
どんなセラピーより家族セラピー。
いつもありがとう。
カナダのお姉さんにこえをかけてもらって、一緒にサハイナンtシャツを手刷りでプリント。
手作業の大好きなこゆのこころにのこったんだろうな。
ついでに自分も写真撮りたいってこゆのとったショットはとってもここちいいものでした。
ここの風の気持ち良さの中で気持ちよく乾かされているシャツ。
この景色が心地よくこゆのくらしをいろどってくれているのだとおもいます。
ご飯の前後に私がキッチンに入り浸り、こゆがスイングに乗ってるとこうしてみんなが遊んでくれます。
フレンチの彼はいつも穏やかに優しく話しかけてくれます。
男の人にはいつも以上にシャイなこゆ、めずらしく一緒にスイングに乗って遊んでました。
本当にこゆはどんなふうに大きくなっていくのでしょう。全然、わかりません。
でも笑顔になれる幸せな時間をたくさんいただいているから、私にとって彼女の未来が楽しみでならないのです。
みんなとの暮らしの中で、自分が食べれないものも出て来る、だからアレルギーになったことで我慢してることもたくさんあるとおもうけど、それ以上に楽しいことがたくさんあるから、大丈夫だよね、って可哀想だと思うより他の楽しいことに時間をかけられる事を、私は幸せだと思うのです。
アレルギーであることは大したことではなくて、かのじょのからだがより生きやすくなるためのメッセージをいただいただけ。
これも私の考え方次第なのかもしれません。
これからも楽しいことに時間をかけて行こうね、こゆ。
みんな、たくさんのあいをくれてありがとう。
日々の暮らしの中で観察すること。
昨日ひと月帰省してたサンドットさんの息子くんが帰ってきた。
同じ場所で暮らしてる彼らはとっても気があうようで。
今日は大ちゃんが学校に行った後、朝からずっと二人で遊んでます。
手を繋いでサハイナンを駆け巡る二人。
嬉しくて楽しくてずっと一緒。
そばで暮らしてるし、幼稚園も行かないから、ずっと二人で好きなことを見つけて遊んでいます。
でね、午後からはバンブースティッキーライス作り。
彼らはパーマカルチャーコースに参加した誰よりも物知り。
今度はこれに興味を持った二人、3歳と5歳でちゃかちゃかと竹にご飯を詰めて、ココナッツミルクを詰めて作業を進めて行きます。
大人たちが彼らにつぎはどうやるの?
ココナッツミルクはこれくらいでいい?
と聞いて行きます。
彼らは火のこともよく知っています。
壊れた工具のなおしかたもまきでのおりょうりのしかたも。
息子くんは鉈がわりにしている工具の金属が持ち手から抜けたから、と火の中にそれをいれます。金属を熱くしてプラスティックの取っ手に差し込むとプラが溶けて再度くっつくのです。お父さんが大好きでくっついて回っているからいろんなことを知っています。そしてね、私たち知識のない大人の動きを待っていてくれます。待てるってすごいこと、ですよね。彼はまだ4歳まじかの小さな男の子。でも身体以上にたくさんの経験と知識が詰まってることを感じます。
そんなサンドットさんの息子くんは三ヶ国語を使い分けます。
タイ語、お母さんの母国の中国語、そして英語。
こゆは英語はわからないの、といいます。けれども Can l have banana? ときくと持ってきてくれるし、We will go back japan soon.っていうと いつ?って帰ってくるくらいだから、身体の中にもう蓄えられてるんだろうなあと思います。わかってるじゃん。これが溢れてくる頃にが私より喋れてるんだろうな。
子どもたちの観察力に私はいつも驚きます。
こゆが楽しくしてるときならいいんだけども、私がこゆにおつきあいできないでご飯を作ってる時、悪いなあって思っていたけど、彼女は観察してるんだなあってふと気がついて。
時にはゆっくり彼女のペースで一緒にしたいなと思うけど、彼らが何もせず私たち大人を見てることってたくさんあったんだなって改めて深いとこで気づきました。
サンドットさんが、子どもは親から学んで行くのがいいんだ。
そう伝えてくれたことを思い出します。
スキルも心も彼らと共に生きることで伝わって行く。
私ね、子どもたちと幼稚園に一緒に通ってる時間ってそういうことなのかもしれないって今、ハッとしてます。
子どもに合わせすぎなくてもいい、彼らが誰かがしていることを観察する時間になってゆくからそれもいいんだなって。
でも基本は彼らと共に日々を過ごして行く心の余裕というか、ペースを落とすというか、それが大事。それだけは大事にしていこうと思う。
私たちと共に過ごした中で彼らが学んだり自分で見出したことから楽しみが生まれ、生きる豊かさになるのかもしれない。
二人の小さな背中と繋いだ手を見ながらそう気づかせてもらいました。
私は親である時間をどう生きて行きたいのか、こうしてまた整理させてもらっています。
忙しく生きてきた幼い頃の私。
自分の家族が心が通い合わないことが不思議だったしつらくて家族をつなげようということに必死で自分が何かをかんさつすることもせずにおとばになってしまったわたし。
観察することが生を豊かにすること。
観察することで気づきが生まれ、深まって行く。
物事も、人との関係も。
何かをジャッジするのではなくただ観察をしてみる。
このアリはどこへ向かうのだろう。
黒豆とロングビーンの葉っぱの微妙なみどりのこさのちがい。
この子はなぜこんな行為をしているのだろう。
この人はなぜこんなにも優しいのだろう。
たくさんたくさん観察をして、子どもたちのように観察力を育てたいなと思う。
そして豊かに感性を開いて行くためのハテナ?もとたくさん向き合ってゆきたいと思う。
今日はふと、立ち止まったこゆの、ねえ、聞いて。とねえ、みて。
彼女はそばにいるとき私の顔をお人形のように両手で挟んでクイっと自分の方にまわし、至近距離10センチで笑笑、ねえねえ、って話をする。
そばにないときはさすがにまわされないけど。。
話を聞いても聞いても彼女からたくさんの言葉が溢れてくる。
この話はまた改めて。
子供達が詰めてくれたカオラームを焼きます。
こどもたちの写真はまた改めてアップしまーす。
アレルギーのこゆのためにイタリアンの男性が米粉でピザを作ってくれました。米粉を扱ったことはないのだけど、って一生懸命焼いてくれてね。
いつもは違うものを作るのだけど、やっぱりピザが食べたかったからとってもよろこんでます。
こゆが食べれないものに関しては私がどうにかするからいいよ、といつもこたえるのですが、何人かの方は、それでもこゆをよろこばせたくてこうしてエキストラで作ってくれるのです。本当にね、ありがたくて頭が下がります。どこの国か、なんて関係なくて、その人の人柄はこうして溢れて伝わって来ることをここで感じています。
こゆのアレルギーのおかげでまたたくさんの優しさの触れています。
一枚全部自分のピザ。こゆにとってはゆめのような喜び。
彼女の中に彼からもらった優しさがふんわりとつもってゆきます。
ありがたいね。
よかったね。あなたのピザはどんなピザよりも美味しいご馳走だよ。
カシューナッツ焼き。
焼けた焼けたカシューナッツ。
結構大変カシューナッツ。
カシューナッツを鍋でいります。
漆油が出てからにあぶらがまとわりついたらきのボッコで、カシューナッツに火を入れる。
油に火を注ぐから、ゴーゴーと音を立てて火が上がるので注意!
音と油の乾き具合を見て地面に火の上がるカシューナッツを転がし、ボッコで叩いて消す。
冷めたらボッコで殻を割ってできたのがこれ。
甘くて香ばしくて美味しい。
ちゃんと加工しないと喉がただれるほどの漆油。
いくつかは焦げちゃうから全部は食べれないカシューナッツ。
こんなに加工が大変なのに市販のカシューナッツは安い。
ココナッツオイルもね。
いつもおやつがなくてもいい。
たくさん食べれなくてもいい。
自分や自分の好きな人が作ってくれたものが一番ありがたくいただける。
うちの調味料は味噌、塩、醤油、おす、時々油。おやつのためにオーガニックのナッツとかも買ってました。だいぶ厳選されたけどもね。
今はもっと自分で作れるものをそばにおきたいとおもう。
自分のそばにいてくれる人が作ってくれたものをそばにおきたいと思う。
そういうものを食べることで自分の心が満たされてゆくのを感じ、日々のちょっと嫌だったこと、悲しかったことが癒されて行くことを知ったから。
いいものをとるからいいんじゃないみたい。
愛を感じられるもの、自分の好きが溢れたものを目の前に置くことがいいみたい。
オーガニックだからいいと思ってたけど、自分の心地よさに向かうということはそういうことじゃないらしいと気づいた今日この頃。
札幌の今年の雪解けは早くなるみたい。
野草と幾らかのご飯、お味噌汁。時々お肉。
楽しみだな、この気持ちで札幌で暮らすことも。
のんびりゆっくり満たされた生き方をしたい。
そう思ってきた願いが気づかせてくれたこと。
ゆっくりゆっくり日々が輝いて行く、そんな感じがします。
ジャングルご飯。
ある日のご飯。
まずは食料の調達。
人数が多いので畑で採れた野菜は一握り。ロングビーン5本ぐらい。
ここからが勝負です、笑。
この畑の中から食料を探す。
零れ種で育ったスピナッチとか。
かぼちゃのツルと小さい葉っぱとか。時々まだ育ってないごぶし2つ分の大きさのかぼちゃも食べます。
それからジャングル歩き回ってヘチマとお花と葉っぱ、バナナのお花、いものはっぱをゲット。
ニンニクの油で炒めて
、
全部入れて炒めて
ボウルに入れて出来上がり。
これは大ちゃんのお弁当。
大ちゃんのご飯とみんなで食べるおかず用。
この日はフライドライス。
アレルギー対策で大ちゃんのは油少なめで温度が上がる前に水を足してご飯を炒めてます。
前日にピザで使ったチーズが余ってたからかぼちゃのチーズ焼きすることにしたけれどオーブンないから直火で焼いて行きます。
ある日のご飯。
レンズ豆のスープ、畑の生野菜、川の海藻のふりかけ、ほかにもなにかあるね、忘れちゃってごめんなさい。
ジャングルでとってきた食材のスープ、生野菜、昨日とったピーナッツ、チリソース。
チリソース極めたので食べたいから帰国したら遊びに来てください、笑。
ダル豆を向く娘。
これ向き終わって食べるのに1週間。
これが終わるとまた収穫してむくさぎょうがはじまる。
もっと食べる量が少なくても満足する体に移行してゆきたいなーとおもう。
無理せずに心が満たされ気づいたらそうなってた、ってくらいで。
この日はかぼちゃでした。
これはかぼちゃとバナナフラワー炒めだね。
かぼちゃのスープも美味しい。レモングラスと、ライムリーフ入れてね。
茹でたかぼちゃにゆで卵あえて、レモンと塩とローカルペッパーのサラダもいい。
時々はこんなパーティも。
滞在者さんの中にピザシェフがいたのでピザ。
それにご飯と炒め野菜。
バナナとココナッツミルクを作ったのこりで蒸しケーキ。
それとバンブースティッキーライス。
今年最後のバンブースティッキーライス(カオラーム)です。
竹ってすごくてね、スプーンやお皿、コップなどのカトラリーも揃えられるし、直火でご飯もたける。
自分たちでカトラリー作って、いろんな種類のカオラームやら竹筒使ってスープつくってチリソースも作ったりなんかして、竹のお猪口でお酒飲んで乾杯。
ついでに竹カゴあみなんかもできたらいいけどこれは、まだハードル高いので練習しときます、笑。練習すればできそうだしね。
札幌に孟宗竹がないので実験できないけど竹のお世話に困ってるとこが日本各地にあるようなのでこんなワークショップしてみたいなーって思ってます。まずは自分たちがやらせてもらえるとこを探してみよう。ワクワク。。