日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

我が子に思うこと。

ただいま1週間ほど、我が家に居候さんがいます。私たちをサハイナンに導いてくれた家族。札幌ライフを満喫してます。

 

いや、してると思います笑。今回は父子で旅をしてるお二人、我が家にいても玄米ご飯とお味噌汁。でも外に出れば美味しいものたくさん食べれるし、いいかなって勝手に思って笑、我が家はいつものペース。それぞれのペースでご飯食べて日中を過ごしています。

 

暮らすようにたびしてる感じかな。お父さんはいつも娘のtちゃんのペースでのんびりゆっくり動いています。娘ちゃんも高学年だけどお父さん大好きでなかよしおやこ。ここにお母さんがいたらまた雰囲気が違ったんだろうな。お父さん、とことん娘ちゃんに合わせる人で、無理せずのんびりで、勉強になります。甘やかすというより、心のキャッチボールをしている感じ。

 

そうそうこの夏、わたしにとって大きな学びが2つありました。1つはトモエ幼稚園のスタッフ研修、もう1つは自然療法のお医者さんが企画してくれた勉強会。

 

わたしはここで自分がどう生きて生きたいのかをもう一度整理させてもらいました。わたしはわたしとしてどのように1日を暮らしたいか、家族とともに、いまをどう生きて行きたいか。

 

そして希望する愛の形をもらえなかった子供の頃からの自分の心の寂しさをどう癒して、自分と付き合って行くか。自分の愛し方を自分に聞きながら考えていく、いま、そんな日々を積み重ねています。

 

わたしは自分を知らないということを知らなかった。それを感じた2年前、1つずつ気づいたとこから歩き始め、今のわたしをハグして生きて行くことで、わたしの親から続いてきた愛してもらえない気がするという苦しみを、ここで断ち切りたいと思えるようになった一年前。そうして自分を愛する方法を探りながら今日この日にたどり着いています。

 

今は、今の私の身体を大切にして、身体も、心も癒して生きたいなと思う日々。

 

そう思うようになって、私はやっとじぶんがどんなひとになりたいか、どういきて行きたいか、旦那様や我が子との今の時間を、どんな自分で暮らして行きたいかがやっと考えられるようになり、動けるようになりました。

 

そうしたらいまを受け入れる器が少し広がり、今の未熟な自分を受け入れ、抱きしめて行くことで変わって行けることがわかり、自分に鞭を打つ必要はないのだとわかり、楽になりました。私はもう十分に頑張ってる。これから変わりたいとすれば、自分が何をしたいか、何ができるか。自分を犠牲にするのではなく、自分とともに生きて行く方法を見つけて日々を過ごして行きたいと思っています。

 

だからね、頑張ることが当たり前で、いつだって自分を無視して頑張ってきた心と、それを支えるために、何も言わず頑張ってくれた身体を一番に大事にしたいなと今は思っています。

 

怒っちゃうときは怒る。でも怒るのはしんどいからそれを過ぎたら、解きほぐす。周りにだってごめんね、って言えば済むこと。これから変わって行きたいのだけどもうしばらく許してね、って言えばきっと伝わって行く。私と母の苦しみはもう繰り返すことはないのだと今は信じられます。深く深く自分を掘り下げて、過去の苦しみを知り、記憶の中で育ち直してようやっと今があります。

 

でも今は、まだ我が子とともに子ども時代を育ち直しています。そうして小さな人の優しさを感じて自分も優しくなりたいなと願う。そうしてふと思うこと。優しさに大人も子どももない。できること、やりたいと思うこと、動いてみることに大人も子どももない。経験値は大人の方があるけれど帰ってそれが邪魔をすることも多いから、子どもの方が生きることは上手かもしれない。

 

大人は行き詰まって自分を責めるけど、小さな人はいきづまることもなければ自分を責めることもないんじゃないだろうか。それが彼らの柔軟さ。

 

私のそばには今、私を支えてくれる人がいます。だから私は今が幸せだと思える。支えてくれる人への感謝、そのことを忘れるときはひと時もなく、それを思った瞬間、私の心が穏やかさに包まれていくことも感じています。

 

もうひとつ、子どもの頃からできなかったこと。大人の世界を喜ばせるために、たくさんの気を使ってきました。けれどもね、自分がしたくないことをして大人を喜ばせて、自分のことがわからなくなってしまってました。

 

だから今は、やりたくないことはしない。

 

「したくなくてもしなくてはならないことがある。」そう言われて育った私は、やるべきことの中に、しなくてはならないことがあるのではなく、自らしたくないことに飛び込んでくることが多い人生でした。けれど、我が子たちがまずは自分がしたいことを土台に置いているのを見て、比重を変えようと彼らから学びました。

 

楽しいことをたくさん、しなくてはならないことを少し。人間、いろんな特技、不得意があるからきっと、そうしていても成り立つんじゃないかって今は感じています。そうしてできないことはお願いして、心から感謝と敬意をかんじる。そうすることできっと、自分の周りの人ができないことを私がしてお返しすることも訪れるのだと思うのです。

 

だから、無理はしない。生きることに無理はいらない。きっとね、自分が穏やかでいられれば優しくあれる。それを苦しみの中で育ち、人に負けないことで自分を保ちながら育ってきた私の心と、挑戦してみようと思うのです。勝ちも負けもない、私は自分を生きればいいだけ。

 

私は昨日大事なことに気づきました。我が子たちは母として未熟な私をいつも受け入れ励ましてくれるそんざいです。彼らはいつもすなおに表現をしてくれます。お母さんには内緒ね、と他の大人にこっそり食べさせてもらったジャンクフードも教えてくれます。昨日、大ちゃんはそのことを伝えた後、私に言いました。言わずにごまかしたら、ママがが悲しむから。

 

そんな優しいー我が子を私はいい加減に受け入れなくちゃならないなって感じるようになりました。あんなもの食べて、こんなもの食べて、と、責めるようなことばかり言ってきた自分をふと振り返ったのです。

 

わたしは8歳になった大ちゃんにもう十分、食べるものについて伝えて行動してきた。放射能のことも添加物のことも。だから大ちゃんは買い物をするときに自分で原材料表示を見て買ってきてくれるのです。もっと我が子を信じようよ、って私の心が言っていました。そうだね。信じよう。

 

こういうことがあったらこれからはこう考えようと思うのです。

 

それをした時、我が子は幸せだったのだろうかと。幸せだったのなら余計なことを言う必要はない。伝えたいことがあるなら、わたしは今はこうしてほしいとおもっているよ、と彼自身の選ぶ権利を潰さずに伝えよう。

 

昨日のことで例えるなら、フードコートのラーメンをTちゃんおやこと食べた大ちゃんは幸せだったかな?って。答えは明らかでした。幸せだったよね。大好きなTちゃんと大好きなTちゃんのお父さんと過ごした時間。そして食べてみたかったものを食べて。

 

大ちゃんの人生でこの楽しかった思い出はしっかり心に刻まれたでしょう。それを帰ってきた途端に、そんなもの食べて、って言わずにいれてよかった。時々のジャンクなものより、自分の人生を楽しめる生き方を彼が後悔せずに選べること。自分が生きているうちに、楽しい思い出を積み重ねてもらうこと。そうして私がいなくなったときに心の中の私が我が子を支えられたら、そのときにやっと、私はこの子の母親にさせてもらった恩が少しだけ、かえせるんだろうな。

 

私は我が子と旦那さん、まずは家族の幸せを願っています。だから自分がどうしたいか、今の私が思うのは、自分が優しくあること。素直であること。自分に優しく、人に優しく。みんな今のベストを生きてるんだものね。すなおな人間でありたい、幸せを喜べる人間でありたいと今の私は心から思います。

 

我が家で育ったハーブでお茶にしました。喉に優しいブルーマロウはレモンを入れるとピンクに変わります。今まで三年番茶とかこだわってたけど、自分のそばで取れるものがあるから、もう買わなくていいなあ。

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ハーブティ、熊笹茶、よもぎ茶。時々梅ジュース。甘いものに支えてもらって生きてきた分、食べ物への執着が強い私。頭で変えて行くのは無理だから、こうして少しずつ、満足を取り入れて、朝だけでも半断食。これになれたらもう一度断食してみようと思ってます。

 

前回断食してから、背中の痛みと腰痛がなくなって楽になったんですよね。必要以上に取り入れてきたから、今度は引いていこうと思ってます。自分の身体には何が合うのか試してみるのが楽しい。自分の暮らしは十分に豊かなのだと感じています。

 

今日もありがとう。

わたし、優しい人になろう。

おとつい、海に行った。この夏は海だの川だのに結構行ったな。

 

うちで働いてる旦那さんだけど時には自分1人で考え事もしたいだろうから、おいて子どもたちとでかける。わたしは1人で子どもといるのが厳しいなあと思うので自然に助けてもらってます。うちにいると、付き合いきれずにイライラしてしまうから。我が子はわたしではないからね、全てを彼らに合わせるのは不可能で。

 

川、海、虫、森。。彼らは私たちをいつだって助けてくれます。大ちゃんは虫に夢中、コユは木いちごに夢中。彼らは母を助け、子どもたちの友人にもなってくれます。そして広いから走っても騒いでも気にしなくていい。街だと子どもが苦手な人もいるから。

 

それを感じさせてもらったので今年は、自然にたっぷりおせわになりました。楽しかった夏休み。もっとお休みでもたのしめたよー。いつもわたし用の本とおベントとおやつを持って出かけます。子どもたちが夢中になったらわたしの時間。見守りながら本を読ませてもらって、お互いに無理なく楽しい時間。

 

今日はお友達に声をかけて行きました。お友達の長女ちゃんは学校を休んで来てくれてね。

 

今日の浜がいい浜で赤ちゃんもどっぷり座っても気持ちいい砂の浜。母さんたちはお腹すいてまずは昼ごはんづくりを始めたのだけど、お友達の長女ちゃんは大人と遊びたがって、腹ごしらえしてからねー、とまっていてもらいました。小さい人と大ちゃんは好きなことを見つけて遊んでいたのだけどね。

 

そうしたら誰かがそばにいた若いカップルさんに声をかけたようで、一緒に遊び始めました。カップルさん、遊び上手な大人でテントの中から、バトミントン、フリスビー、ボール、水鉄砲、、、出てくる出てくるおもちゃたち。おまけにシャボン玉まで!

 

優しいお二人は子どもたちと一緒に遊んでくれて、子どもたちは4人でべったり。とっても遊び上手でね、小さなクラゲを捕まえて見せてくれたり、海での初めてのシャボン玉。水面をシャボン玉がは寝

ねてそれはそれは綺麗なんです。

 

大ちゃんにつられていつもはしゃいなお友達の長女ちゃんもお兄さんにおんぶしてもらって深いとこまで探検に行ってました。こうして三時間近く。。

 

すごいなあって感動する私たち母。でもね、こうして愛を受け取って行くんだなって教えてもらいました。こうして人が育って行くと幸せなのかもしれないって思いました。子どもたちと遊ぶことが好きな大人と遊んでもらうこと。人には好きなこと、苦手なことがある。気分や体調でできないこともある。そこを助けてもらったこの時間。

 

わたしが、今、大切だと思っていること。

 

それは、いろんな人と出会い、関わって行くこと。愛を交換しあい、人を信じて行くこと。時間をかけて自分のペースで、自分を知り、大切にして行く感覚を身につけること。

 

それを今日、また教えていただいた気がします。愛に溢れた優しいカップルさんたちは、子どもたちだけでなく、私たち母にも幸せをくれました。子どもたちの嬉しそうな顔は一番の幸せだから。こんな楽しい遊び方は彼らにしかできなかったこと。本当に感謝しています。

 

そのあと、いつもは小さい人と遊ぶことの多い大ちゃんはお友達の長女ちゃんと遊び始めました。遊びの違う2人、でもどこが接点になるかわからないのですね。面ではなく点で交わりあった2人のこの瞬間のあそび。そういう遊び方や関わりもあるんですねー。なにやら2人で大ちゃんが立ちションする穴を掘っていたそうです笑。

 

シーグラス拾ったり、砂湯したり、日が暮れるギリギリまで遊んでの帰り道。お友達がいってくれました。

 

彼女は長女ちゃんに自分の思いを押し付けてしまいがちなのが悩みだそうで、今日は学校に行かない選択をした長女を受け入れ 、ここで一日中遊んでふと思ったそうです。「思いを押し付けたり、偏ったり、いろいろあるけど、わたしは、このことたのしいことをしたいんだ、ってきづいたよ。だからこれからはそうする!って。」

 

最近わたしがきづいたこと。

 

我が子は我が子。一緒にいるけどわたしじゃない。今、一緒に居られる時間を、楽しき生きて積み重ねたら、わたしがいなくなってもこの子は、自分を愛して、人も愛して生きて行けるんじゃないかって。わたしの魂が思い出となって、この子の安心感になるんじゃないかって。だからそう日々を積み重ねよう。

 

そんな思いを伝えようと思ったことはないのだけど、溢れてくれたのかもしれない。ふとそうおもいました。幸せの波動がひろがったのかなって。

 

そう思ったら嬉しくなりました。そしてきっと自分が幸せに生きたら人の幸せも喜べる。多分他の人もそうなのかな。

 

こんな時間をくれた自然に、優しいカップルさんに、家族に、お友達にありがとう。元気で居てくれた自分の身体にありがとう。

 

1人が発した優しさは、たくさんの人を幸せにするんだって感じました。カップルさんたちがくれた優しさはわたしたち7人を幸せにしてくれた。

 

わたしも優しくなろう。自分に、家族に、人に、自然に、じぶんをとりまいてくれる物たち全てに。

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足るを知ること。

ジャングルで暮らして知ったゼロから始まる暮らし。

それは、今日この日を生きるということは昨日まで作って来た自分をゼロという土台にして積み重ねていく作業なのかもしれない、と感じています。

 

足るを知る。

この言葉をジャングルから帰ってなんど想像しただろう。

わたしは足るを知ろうとしてる人間なのだろうか?

自分が怒りの中から解き放たれたときとても強く感じます。

わたしは今、ここで生きているだけで十分だし、それは今目の前にいる人も同じなわけで。

 

足るを知ることは物だけではない。家族に対しても自分に対しても。日々の暮らしに対しても。

 

私たちは生きているだけで十分。昨日、自然療法に先生から学んだ 人がいるということは目の前のものがあるということと同じ。 

わたしはジャングルで強く思いました。虫と人間は全くの同等であることを。それからわたしは殺虫剤を使わなくなった。

 

目の前のことをただ受け入れることができる人間になれたとき、わたしは本当に「足るを知る」ということが腹の底に落ちるのかもしれません。

 

誰にでもなく、まだまだ足るを知らない人間でごめんなさいと謝りながら、今瞬間穏やかであることに改めて感謝をしています。

 

ありがとう。今のわたしの心に、体に、家族に、時間に、空気に、、、、。全てに感謝を込めて。ありがとう。愛しています。

 

浄水器のカートリッジを捨てることへの違和感。微生物は大地だけでなく自分を作ってくれていることを知ってから感じています。やだなと思いながらゴミを出す違和感があったのはそれ自分にとって不誠実だったから。

炭に変えました。飲み水はこのタンクに夜のうちに入れて濾過します。きっと炭の効果で2,3日は腐らないでしょう。実験も兼ねてます。

 

そして洗濯も炭を追加しました。もちろんお日様に干せば水だけで平気なんです。でも北海道は冬は雪なので外に干すシステムがどこのアパートにもついているわけではないので、生乾きの匂いが残ったりします。洗濯槽も においがでるようになってきます。

炭と塩で洗ったその日から生乾きの匂いがぱたりと消えました。洗濯槽の匂いも。本当に目からウロコってこのことだと思います。洗剤を使いたくないけど、匂いが、、、という方,是非お試しください。わたしも実験続けてどれくらい持つかとか、使用後大地にお返しするまでどう使って行くかを発信して行きたいと思います。

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生きていること。

   昨日コユが熱性けいれんを起こしました。熱はあったものの自分で服を脱いでお風呂に入ってきたコユ。寒いというので少しお湯の温度を上げてあたためてあげようとおもったときに息子の叫び声。

 

    慌ててみると、目を見開いてがくがくしてるコユの姿がありました。呼吸が弱くなった瞬間、泣きながら救急車を呼んだわたし。3分近くの間、コユは震えていました。そうして白目をむいて泡を吹き、ウトウトし始め。。。。。胸を見ると小さくピクンピクンと横隔膜が動いているだけで、きちんと呼吸ができているのだろうかと、手を握ってひたすら声をかけ続けることしかできなかった。泣こうと口は動いているのにいっこうに声が出ないコユ。

 

    救急車は10分ほどできてくれました。そして隊員さんがきてくれた途端、ようやっと泣き始めました。仮死で生まれたあの日と同じ。コユはまだうつろな意識の中、優しい隊員さんのおかげでわたしは気持ちの落ち着きを取り戻しました。

 

    病院に着くと熱性けいれんをとの診断を受け、ようすをみましょうとのこと。この日は血液検査で帰宅することができました。優しい救急隊員さん、病院の警備員さん 、先生。自分がどれだけ支えていただいていたのか、本当に感謝が尽きません。

 

    こうして繋がれたコユの命。そしてコユ自身の生きる力。ありがとうコユ。コユは生まれた日に続き、二回も命がけでわたしに伝えようとしてくれたことがありました。いえ、一度した流産もコユだった気がしてならないので、もしかしたら3度目かもしれません。

 

    人が生きている奇跡。日々を共に過ごすことができる奇跡。人の命の尊さを、母にさせてもらったわたしは、深く感じています。今までもそう。けれどもその認識が薄かったのだと思います。今、いろんな気持ちを整理して、ドスンと腹の底で感じています。

 

    生きていてくれてありがとう。生きているだけで、いい。笑ってくれるだけで、いい。抱きしめられること、その温もりを感じられること、これは奇跡なのだと。

 

    そう思えた途端、とめどなく流れる暖かい気持ちは、わたしの中のインナーチャイルドにも伝わったようで、人は生きているだけで素晴らしいんだって、心が今でも震えています。それから毎日、コユと大ちゃんを抱きしめ、今日も生きててくれてありがとうと言えるようになった。もちろん旦那さんにも。

 

   そしてすれ違う人にすら、生きてる奇跡を感じる。生きるということは奇跡なのだと。そして生きている命は愛し愛されることができるのだと。

 

   わたしもたくさん愛されている。愛している。もうこれ以上手に入れなきゃならないものは何もないのだろうとおもいます。生きてる時間をどれだけ、わたしらしく生きるか。わたしらしく生きよう。今を積み重ねよう。

 

   コユが教えてくれたこと。これ以上彼女が母のために命をかけずに済むようにわたしは成長したいなと思います。子どもは神様。本当ですね。

 

    生きてくれてありがとう。私の身体は私が知らないうちに不調を治し、生きてくれている。いつだって私のためを尽くしてくれてる。そんな私の身体に心から愛しさを感じます。ありがとう。自分の身体を、直感を大切にしてみよう。こんなことに気づき、私は今年はもう一度誕生日を迎えたような気持ちでいます。コユの誕生日、それは自分の誕生日でもあるのかもしれません。沢山のことを教えてくれるこどもたちへ、もう十分にいただいてるから、年取っても決して親孝行なんて考えなくていいからねー!!私はいつになったら子孝行出来るのだろうか。そう感じています。

熊笹で。

   ビニール一枚を減らしたくて、日々探してます。そして思いついた方法。海苔がないときは熊笹を使います。7月のいい状態の葉をつんで乾燥させて使うときにお湯で戻す。熊笹の香りもとってもよくて。これでこの一年やってみようと思います。

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   今日はおむすびをつつんで海に出かける予定です。手が汚れていても大丈夫。やっぱりおむすびはそういうときに食べたいのでラップの代わりはないかなあって探していたんです。昨日は急遽出かけることになったので出来立てで水分が多い蒸しパンを挟んでみんなで食べながら出かけました。そんなときは戻さずそのまま。行き先が五天山公園だったのでそのまま山に返してきました。車中もゴミがたまらず嬉しい^_^

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    ちまきが続いたのでちょっとお休みして笹の葉蒸しで何かおやつつくれないかなーって考え中です。食卓に出す時も笹の葉とちょっと野の花を添えると一気に素敵になる。わたしはもちろんだけど、人間も動物だから、誰しも身体は喜ぶんじゃないかな。自然に触れることで身体は解きほぐされてゆく気がするのです。

 

    先日、オフグリッドソーラーのイオさんがアーシングのことを話してくれました。意識はしていなかったのだけどタイにいた頃はわたしは山の中も裸足が好きで、すあしでした。いろんな気持ちの揺れがあるわたしにとって、慣れない山道を素足で歩くということは、意識が足に集中するってこと。それがすごくよくて小さなイライラや人の動きなんて全く気にならず、気持ちよかったのでずっとそんな感じで暮らしてました。アーシングって言葉を知ったのは後のこと。

 

    アーシングって、身体にたまった電子を大地に返してくれるんですって。イオさんの話が自分の経験とリンクして納得できました。うつが改善するのも心臓にとって良いのも、身体のだるさが取れるのも、納得。わたしがあそこで暮らしている間、なんとなくいつもふわっとした心地よさの中でいられたのはそのおかげだと思います。身体で経験してるので、イオさんのお話がすっとはいってきて面白かったです。人間も動物ですものね。素足で歩いて、畑をして土に触れて。それって本当に大切なこと。

 

   イオさんは北海道の冬でもアーシングできる方法を考えて普及しようとしてくれているそうです。わたしもあのエネルギー溢れるイオさんのお話を、イオさん節でお聞きしたいな。

 

   そんな楽しいこと。今日は身体が海に行きたいっていってるからいってこようと思います。どんな楽しいが待っているのかなー。

石鹸のこと。

     昨日までトモエの家族キャンプ。それが終わって台所に排水溝を掃除した。悪臭とともにヘドロ状になって汚れが出てきて思わずそばにあったクレンザーをかけて磨き始めた。そしてふっと思う。

 

    この水が裏に沢に流れていく。どきっとした。

 

    わたしは掃除をしているつもりで、かえって汚しているのではないかと。

 

    タイで感じたこと。田舎の村よりも、バンコクの路地の方が排水による悪臭がするんです。わたしと旦那さんとで出した答えは、都会はコンクリートで覆われているから微生物がへりもはや分解能力が減っているにではないかということ。きっと田舎は土に帰り、そこで分解されているのだろう。洗剤を使わない暮らしは、きっとすべての生き物に優しい。昔は日本でも糞尿を畑にまいていたくらいだから、それを分解する微生物は神様くらいの力を持っているのだろうと思う。

 

    そうして、糞尿をけなさない人々の心は、自分の身体のことを受け入れることのできる生き方をしていたのだろうと想像しています。自分の中で否定するものが出てきたからうつ病のような病気が生まれたのかもしれないな。心と身体と頭の矛盾。自分が自分でなくなってしまったかのような現象のように感じています。

 

    なのでわたしがクレンザーを使って洗ったことで、沢の微生物の分解能力を落としてしまったのだと感じたのです。それは掃除をしているつもりでも汚していることになる。そして人間ばかりが偉いのだっていうエゴでもあると。。微生物を思う暮らしをしようと思います。いえ、洗濯に洗剤を使わない暮らしはもう始めているので、もう始めていますね。

 

    自然の力にはかないません。野生の直感をもつ動物たちにも叶いません。もちろん虫たちにも。

 

    先日畳の裏からありが上がってきていたことがありました。古い家なので仕方ないけれど、正直嬉しくはないので時々外に投げたり掃除したりしています。けれど殺虫剤を使いたいとは思わなくなっている自分がいました。対等に生きている同士として武器は使わない。台所まで行列は嫌なので、潰しても仕方ない。けれどそれをするなら自分の手でしたらいい。なので時々セロテープでとりました。子どもたちにも寝室でピクニックしないように伝えました。けれどそれだけ。

 

    でも私たちが慣れてゆきました。戦うこともなくなり、しばらくうちの中で食料を運ぶありとすれ違いましたが、2週間たち、いまはあまりいなくなりました。飽きたのかなー、めぼしい餌が少ないと思ったのかなー。きっとうちの掃除をしてくれてたんですね、畳の下のクズは減ったのかもしれません。

 

    フィールドに蜂がきました。スズメバチだろうと思って気をつけてはいましたが、増えてきたので車内に撤収。その後、トモエで似たようなことがあり、スズメバチだーって逃げていたらスタッフさんが、ウシアブというアブだよって教えてくれました。帰ってからスズメバチとウシアブの違いを調べました。そして万が一のために、ポイズンリムーバーも旦那さんと1つずつ、手元に置いて置くことにしました。こうして知識を増やすことで自然と戦わずに自分の身体を守る術を考えるようになりました。

 

   蚊取り線香も気づけばあまり使っていません。使わなければそれなりに暮らせる体になってゆくものですね。

 

    そうして自然と共にあることを自分がしたいと思うようになって、なんとなく受け入れられるようになったこと、が増えてきたなって実感がありました。どうしようもならないものはどうしようもない。ならばうけいれたらいい。それを自然は教えてれている気がします。その方が柔軟で心も楽ですから。自然は神様。昔の人がそういった意味がなんとなくわかるような気がする今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

   

ハサミのこと。

   使っていた裁縫バサミがきれなくなってきた。だから包丁用の砥石で研いだ。そうしたら全くきれなくなった。わたしは知らなかった。ハサミは包丁のように両面を研いではいけないってこと。

 

   全くきれないハサミを捨てようかと迷った。というか捨てたくなかった。なぜかというと、このハサミを捨てた場所の状態をリアルに想像できるようになってきたから。これを捨てて新しいのを買うのは簡単なこと。けれど孫の代にはこうして私たちの捨てたゴミでたくさんになっているだろうと。

 

    タイでの暮らしで、わたしはうちの前でビニール一枚を燃やすのが嫌だった。くさくて本当にあたまいたくなるし、明らかに土が汚れる。でも今まではわたしはゴミは出たら捨てちゃえばいいという気持ちがまだまだあった。面倒臭くてお肉を揉む時は袋を使った。でもね、このゴミは焼却されるからいいってもんじゃない。土地の汚れは地下に染み渡り水を汚す。空気を汚す。大地を汚す。その中で私たちは生きなくてはならない。

 

    便利さが生み出した小さな環境破壊は、温暖化という大きなものではなく、アレルギー、うつ病発達障害、がん。。。。。というみじかな問題としてもうすでに私たちに帰ってきているんじゃないかって、ちょっと想像してショックを受けた。そうして綺麗に暮らすことで私たちと生きてきた微生物を排除していく。私たちの身体はすでに生きずらさを抱えているのかもしれない。

 

    そう思ったらこのハサミは捨てられないって思った。わたしが気づいたこと、多分きっと大事なこと。だからわたしは90歳の大家さんに聞くことにした。ハサミをもう一度使えるようにできないかと。大家さんは笑いながら教えてくれた。「研ぎ屋さんにだすこともないよー。裏面も少し強めに研いでごらん!!」

 

    帰ってやってみること30分。なんども試し切りをしてついに切れた。嬉しくてこのハサミが一気に愛用品になった。このハサミと生きていこう。そして今までは値段と比較して迷っていたけれど、これからは迷うことなく道具は直して使えるものを買おう!!

 

    90歳のお知恵を引き継ぎたいと思った。今引き継がなかったらもう引き継げない。生きて行くことを専門家に人に頼り切らないとならない。自給自足の暮らしをしようとは思わないけれど、自分の近くにいる人たちと、自給他足の暮らしをわたしはしたい。助け合ってみんなで補って行けばいい。

 

    少しずつ積み重ねて、いつかわたしも知恵の宝庫になりたいな。生きるって頭じゃない。きっと感覚。昔の人は感覚が豊かだったのだろうと思う。

 

    これがハサミが教えてくれたこと。じぶんさえよければいいんじゃない、生きる知恵を身体に取り入れて引き継いで行くこと。そうしたら未来にもいい気がする。そんな優しさを引き継いで生きたいと、わたしの母性がつぶやいた。ありがとう、それを気づかせてくれたわたしの大切なハサミへ。