日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

好きなこと

が、止まらない。

 

私の1日を解体してみる。

家事を少し。

幼稚園に我が子と一緒に通って全てを子どもに集中する時間を日中に五、六時間。

睡眠時間を7時間くらい。

残りは全て大好きなお裁縫をする。

その手を動かしながら旦那さんとの会話もする。

 

家事の手抜き、とよくいうけど、手を抜いてるわけじゃないよなあって最近思う。必要な分だけにシンプルにしただけ。

 

私が多分手抜きを超えて、食事の支度はほぼ1日に一回、あさのみ。それ以外はあっためるとかささっと火にかけること15分とか。作業時間15分。

 

本当に苦手な掃除はものを減らすこと出かける時間を大幅に減らした。掃除をサボり気味でも死なないと思ってたけど、大ちゃんのダニアレルギーがちょっと上がっちゃったからあるので最近は1日に一回。タイにいた頃は野宿状態で、行ったその日から面白いくらいに咳が止まった。本当に嘘のように。

 

で、帰ってきてうちに帰ったその瞬間、咳を始めた。これまた冗談のように、うちに入った途端に。風の流れが滞ってることを感覚で実感した。で、ホームドクターに血液検査をしてもらったら数値がかなり上がっていて。多分ね、この2年ほどの食事や生活習慣により、悪くなった、というより、彼の感度が上がったんじゃないかって感じています。だからより敏感に出るようになった。身体のいらないものを出そうとする動きも上がったんだろうと思います。

 

ということは、出し切るまで気をつけてあげなきゃいけないなあと思って余計なものも取りいれたくないし食事をシンプルにした多分、掃除をちょっぴり強化。出し切ったら変わってくれるだろうか。私が親としてできることは、彼の身体を楽になるように手を貸すことだけなんだな。私のアレルギー引き継いだのにごめんよー。

 

で、次に我が子とトモエ幼稚園に行くこと。うちにいると家事やら何やら気持ちがそっちに向いちゃうので、ここにいる間だけは子どもに集中するようにしています。

そうして得たこと、子どもと心を通わせるということ。

これからどんどん巣立って行くだろう我が子に私ができることは幼いうちだけだと実感しています。今一緒におらずして、今、神経集中して彼らの話を聞かずにして、中学生になった彼らが私に相談事なんてしてくれないだろうと思います。私が我が子を理解する努力をすることで、彼らは私たち親の心をいつまでも思ってくれるのだろうなと、ここ、トモエの大きくなったみんなを見せてもらって思います。多分胎児から10年、我が子とどれだけの思いのやり取りをしたかで、その先の全ての関係が決まるのだろうなと。それとね、我が子が子どもを持った時、彼らがどのように孫と接するかも、私たちのこの10年にかかってるのだと思います。

 

私は我が子を叱る、という言葉は使いません。もちろんよその子にも。私の感情でおこることはあります。けれども、たくさんの人と時間をかけて関わり、自分と相手とに関わり方を考えながら接してきたトモエの子たちを見て、我が子を見て、彼らがどれだけ考えて接しているか、又は、その時起こったことから気づきを得て行くかを感じた時に、「大人が叱る」ということは彼らの学びの邪魔をすることではないかと感じたのです。

 

もし大きくなって、その人が あれ? と思うような行動をした時は、その人の中に人から愛される経験が少なかったり、自分でした行動が相手にどんな影響を与えるかを知る経験が少なかったり、したからなんじゃないかなって思います。(もちろん私にも、そんなことがない、とは言い切れません。でも私の場合は気づいた今から修正して行くしかないのですから。)

 

だから小さいうちに子ども自身が感じて起こす行動をたくさんしてほしいと思うのです。そして時には我が子が、私がしてほしくないことをして泣かせてしまった相手に謝りあるく。それをする覚悟を私が持つしかないのだなと。我が子がそれは相手に申し訳ないって気づくのは相手の感情を知るという経験を積んでからで、今申し訳ないと思っているのは大人である私の方なのだから。あまりに続きいたこのじょうきょうを、なきそうになりながら謝り歩く私を我が子は見ていましたから、いまはたくさん気づける人になっています。きっと私よりも。

 

繊細な気配り、素直な気持ちを持っていることを知っているから 叱る のは失礼だとすら思っています。そして我が子がそういう人だと知る、これからも知って行く努力をする。それが、我が子と信頼関係を持つ、ということだと思います。これからもいろんな姿があると思います。でもその都度考え、接しながら、私は理屈ではなく我が子の本質のところを信じて行ける、そう思えるようになった時、私は我が子との関係が変わったなあって感じました。

 

私がまだまだ未熟な母で、怒ったり泣いたり揺れたりしていても、このかんけいはきっとかわらない。私は子どもと学びながら成長して行く努力して行くのみなんだな。

 

そのために小さいうちに彼らに真剣に関わることは、おやである私にしかできない大きな責任なのだろうなあ、と思って過ごす子どもとの時間。

で次は睡眠時間。

で早起きしてお裁縫の時間。

 

今日作ったもの。サルエルパンツ。裏毛つかったからすこしおもくなっちゃった。今度はリネンで作るかな。

型紙、hoorayさん。

生地、マツケさん。

 

ちなみに上にきてるプルオーバーはmuniさんの型紙で作りました。

生地はたしかマツケさん。飾りのフードの部分が三つ折りにしてぬっただけだと既製品のようなクオリティが出ないんです。まあそれでもいいんだけど、技があれば知りたいなあ。

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便利なものがたくさんあるということ。

ものがない場所とある場所で暮らして感じていることがある。少し長い時間身をおいてみて、今、感じること。

 

暮らして感じてみること。きいて、考えるのではなく、感覚に染み入らせてみること。そのことを、私にとっては、「身をおいてみて」という表現が1番しっくりくるので、今はそんな表現を使っています。

 

便利さも不便さも、結局は同じことなんじゃないかということ。便利にもメリット、デメリットがあり、不便にもメリット、デメリットがある。それを今だけでなく、長いスパンで考えてみると結局同じくらいのメリット、デメリットがあるんじゃないかってね、感じているんです。

 

タイの小さな村で年に数ヶ月過ごし、残りは日本で暮らす暮らしをすること、三年。多くの気づきは身体を通して感じるようになりました。日常で暮らしている中で、ふっと疑問を感じる。頭でいいこと、悪いことを感じてきた感覚とは違う、否定ではない、あれっ?ていう疑問。

 

当たり前だと思ってきたことが当たり前じゃない、って感じるその時。

 

この感覚を経験してから、「いま」もたいせつにしているけれど、特に、私が自分が未来に残したいものは何なのだろう、と真剣に考えるようになりました。日々を暮らしていると、それを考えていなかった気がするのです。ほんとにね、今も大事、けれども、1日に一回でもいい、未来のことを心の何処かにおくこと。だって自分の家族が生きてゆく世界なのだから。

 

ほかの人が暮らしやすいことも大事。けれどもまずリアルに考えられるのは、そうぞうできるのは、思えるのは、正直なところ、家族からだと私はおもうのです。家族が戦いに巻き込まれないで欲しい、穏やかな気持ちで暮らして欲しい、平和の中で生きて欲しい。だから家族を思ってリアルに行動することはほかの人がどうでもいいということじゃない、結果ほかの人がにも喜ばれることなのだろうと想像しています。まず家族をおもうことから、それが自分の行動をぶれなくする一番の近道だとさいきんかんんじています。(もちろん、ゆるくないけどね。近い上に素直な感情を出し合うから)。

 

 

そう、そんなこんなでね、便利な暮らしで人間が納得する終点、行き着く先なんてあるのかなってかんがえてきたんです、この頃。でもね、きっと、ない。便利さはますますの便利さを欲し、人は頭がいいからきっとそれを解決する方法をどんどん生み出す。それは、悪いことではない。

 

けれどもね、人の欲のせいで、犠牲になるものがある。食べるために生み出されたくさん廃棄される、食肉用の動物。切り開いた山。行き場を失ったほかの生き物。

じぶんがほしいもののために、戦争が起きてしまう。

 

明らかにバランスが悪い。

 

だから、その中で暮らすに当たって私たちそれぞれが考えなきゃならないことがある。それを使えることを当たり前と思わずに。

昨日、そのことを痛感する出来事がありました。

 

私もそう、私たちの世代は、お金があれば、欲しいものを、欲しい時に手に入れることができてしまう、そんなありがたすぎる時代に育ってきた人たちで、そんな数々の「便利」が、当たり前という感覚になってしまっている世代だと思うから。でも、それって当たり前じゃないことがたくさんあるんです。

 

車でどんな天気の日だって快適に出かけられること、インターネットで他人の今の状況をさほど考えずにサクッとメールを送れてしまうこと。(例えば夜中は電話はできないけどメールはできてしまったり、ということ。)。メールなら、相手の今すぐの顔色を伺わずにいろんなこと、いえてしまうってこと、ありませんか??実は私もそうだったし今でもそういう部分が自分にあるので気をつけるようにしています。

 

その時に必要だってものはコンビニですぐにかえる。本当にその時だから必要なものっていうものもある。ちいさいこどもたちといるとね、なおさらね。けれどもそんなものが本当はいくつあるのだろう。欲しいものってしばらくは欲しいけど、なくても案外いけちゃったりするし、一年後待っても欲しいってものって結構少ないと思うのです。

 

手に入れられることが、当たり前。そしてそれは自分には作れないし、直せない。かわりのもにでだいようできたとしても、私は買っちゃっていました、100均で。壊れたら買い換えよう、100均だしね。だって、今すぐ欲しいから。

 

そして、人との関係も介さずにね、手に入れられる便利さ。すごくありがたいんです。

 

けれども、本当にそうなのだろうか。。それに疑問と、未来への一抹の不安さを、最近感じるようになりました。

 

人の欲というにはきりがないようで、また人の脳というのはすごく賢いようで次々の便利を生み出してくれています。

話がいろんなとこに飛んじゃってるけど、昨日私が感じたのはLINEの話から。

今はPTAのやりとりとかはLINEで瞬時に交わせてしまうんですって。

 

我が家にもLINEはありません。けれども、それを導入していないのは、新しいことを否定してるわけではなくて。それを始めることで、私が子供との時間もそちらに費やしてしまいそうなこと、パソコンもあるのに通信環境にこれ以上お金をかけるのがやだったから。ただそれだけです。

 

でも今はそれを持っていないことにも価値を感じつつあります。

 

友人はPTAの仕事で、ほかの人たちがLINEでやりとりしてるのに、自分だけメールに変換してもらうのが申し訳ないっていいます。だからLINE環境を整えようかと。たしかに必要以上に人のことを気にしがちだった私も、その気持ち、いたいほどわかるんです。

 

けれども昨日、気づいたことがあります。自分もその中に入ってしまったらそれのデメリットを解消できる人がいなくなってしまうという一抹の不安。

 

私の経験上、顔をあわせて、せめて電話を使って声を聞いての日常はコミュニケーション力を育てると感じています。

東京での1人暮らしとタイの村で滞在した中で人々のコミュニケーション力が全く違うということにびっくりして、何度も自分の中で確かめてきたここ数年。

 

タイの小さな村。そこの人たちのコミュニケーション力はね、豊かでした。すれ違うたびの笑顔は、その村で多くの人が安心して暮らしてるということの証だと思います。

 

もちろんかれらにも、人との関係が煩わしい時もあるのかもしれません。お父ちゃんだけ、酔っ払ってる時とかね、笑笑。けれどもその村の人たちのフレンドリーさ、思春期の子たちが、素直に気持ちを表現すること。短期滞在の私たちに、15歳の男の子が、親とのったバイクですれ違う時に、私の名前を呼んでくれるなんて、と感動しちゃいました。

 

先進国じゃないとこはイヤイヤ期も反抗期もない。これ、結構本当なんじゃないかって、感じてリサーチ中です。暮らしの中でイヤイヤする必要も、反抗する必要もないから。

 

私ね、おもうんです。コミュニケーション能力は親や教育が、教えられるものじゃない、子どもたちがそれぞれのペースで時間をかけて育てて行くもの。

 

人と話す時の間の取り方、表情、仕草。そして個性に合わせて対応したり、自分ときの合う人見つけること。これって全て自分の持つ感覚のなせる技で、五感を使わないと繋がらないもの。メールやLINEの中の文字だけではえられないもの。

 

コミュニケーション能力がある大人の中に身を置いてきた子どもたちでないと身につけられないものなんじゃないかって。村の子どもたちのように。

 

私の持つ、一抹の不安。

それはコミュニケーションは煩わしい、という感覚を子供たちに伝えてしまうんじゃないか、というきと。人は動物。1人じゃ生きては行けない。だからね、コミュニケーションが生きるすべになるとおもうのです。そしてコミュニケーションにはそれなりの配慮も必要で、その配慮は、私がこれに気づくまでしてきたように、人の顔色しか見てない配慮では自分がすり減ってやんでしまい、そのバランスを小さいうちに知って行く必要があるということ。

 

大人になってからではゆるくない。感覚の柔らかい子供のうちがいい。

 

私が村から感じさせてもらったことの一つに、コミュニケーションがあるのが当たり前の中で育ってきたら、コミュニケーションの煩わしさはさほど大きく感じないのかもしれないということ。もちろんいろんな人がいるから、おとなになってでてゆくひともいるのかもしれません。けれども、多くのひとたちがまだここにいる。

 

何もなくとも顔を合わせ、暮らしを共にする中で助け合い、おもいあうことができているのでしょうね。地域交流なんて名前だけで、その日にしか関わらないのではなく、常に関わっているここの人たち。

 

この村の子達が、学校の休み時間にそばを通るおばあちゃんの荷物持ちをスッとすること、山道になれない私たちを先に通し、自分が最後を歩く配慮をもっていること。外国人だしー、なんかきんちょうするしー、って変なこわばりもなく、うちの息子を気遣ってくれるこどもたち、いつだって抱きしめて可愛がってくれる大人たち。

 

この関係はLINEからでは決して、決して生まれないと感じています。

でもね、うちもパソコンもわずかとはいえ電気もつかってる恩恵をいただいてることに大きな感謝をしてる。だってね、こんな、こどもたちがおきるまえに自分の時間が欲しい、なんて日ののぼる前におきてミシンが使える、電気が使えることも当たり前じゃない。真っ暗じゃ、なにもできないもの。ほんとうにね、なーんにも。。そしてね、「もっと」を、求める限り、便利になってゆく世の中があるから、否定していても自分が世の中が見えなくなってゆくだけだしね。

 

私の経験から思うことは、便利さとの付き合い方をこどもたちのみらいを心の片隅に置いて考えてゆく必要があるんじゃないかな、ということ。

 

だから、えっ、、、と思う方もいるかもしれないけど、みんなが持ってる中で、持ってない、ってことも必要なんじゃないかなって思ってます。

 

当たり前のことはきっと全て当たり前じゃない。それを知ってゆくことって大切なことだから。そうしてイライラしなくても受け入れたり、受け流したりできることが増えて行ったらもっと楽にいきられると思うから。

 

だからね、最近、子どもたちが出がけに手がかかって時間通りに出れなくなることも、旦那さんとの価値観の違いをすり合わせることも、他人との違いも、自分の心の中で戦うことがすごく減りました。仕方ないっしょ、って。

 

長くなりました、ここいらへんで。

 

先週、2年熟成味噌講座をしました。味噌作り10ねん、私が緊張せずにできること。

これから私、味噌を作りたい人のお手伝いしようと思います。材料の手配先も大方把握してるから、材料仕入れも慣れてるし、手間賃を収入にさせてもらって手伝いますよ。

小さな子がいると講座の予定を合わせるのも大変。やっぱりこどもにあわせるのがいちばんだと、思いますしね。(自分がイライラしなくて済むから)。

 

私にとって豊かさの中の一つは、手前味噌。だってね、家族に手が入った伝統調味料なんて今しか作れないし、身体にとって優しいんじゃないかな。家宝が増えますよ、笑。

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まだまだ続く縫製工場 笑。そして私にとっての生きる力。

春夏物を作ってみようと思い立ったのでせっせと作ってます。毎朝一枚ずつ。

 

そんなわけで息子のも出来上がり。この生地、ダブルガーゼのようにあったかいニット。

娘とお揃いで上下で優しい色にしちゃったら女の子っぽくなってしまったので今日は、作り直し。ズボンはいつもの男の子カラーでワンポイントいれよかなー。ボタン入れるだけでグッと可愛くなるからね

。こちらはまだ縫製途中。

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カタカタミシンをしながらふっと思う。今年から大ちゃんの担任の先生がかわった。

新学期になって、幼稚園の時から仲良しの大好きな友達が迎えにきてくれたけど、行かないらしい。お友達がきてくれた時に、「いかないよ。ごめんねー。」とちゃんときてくれた感謝を込めて行かないことを伝えてるとこに大きくなったなあとかんじてます。今日はくるかな、ってよってくれて、行かないって選択にわかったよーと出かけて行く、yちゃんの思いにも感謝です。yちゃん、ありがとう。

 

新しい先生に、学校に行かない選択をどの程度理解してもらえるかな、私は息子に寄り添いつつ、どう先生とコミュニケーション取って行ったらいいのかなとかんがえてます。

 

先生もシステムの中で大変だから、私もその辺を考えつつ、配慮する必要があるなとおもう。(2年前は何でわかってくれないの?と怒っていた自分、成長したかな。)。伝えるとこは伝えるけど、先生も今の最大限を尽くしてくれるわけだから、私も配慮を忘れてしまったらそりゃ、先生とうまく行かなくなるわけで。

 

そんなこんなを考えつつ、ズボンを脱いながら、自分の中で大ちゃんの一年生になりたての時より整理がついたことに気がついた。

 

学びってなんだろう、ということ。きっとまだまだこれからもたくさんの気づきがあると思うのでこれはその中のわずかな一つだけど。

 

自分の人生を豊かにして行くもの。だから自分気づいてやらなくちゃ意味がない。

 

学びは一人一人のものであるということ。その人のタイミングで、その人の気持ちのむき方や興味の深さで全く違ってくる。

 

生きる上で必要な学びは、周りの大人に その人の学びを大切にしよう という気持ちがあれば、日常の中でできるものである気がする。もちろんこれはこどもにたいしてであるけれども、それは大人同士でも同じだろうな。

そのために私は余計なことを言わない、しない、そうできればいいんだけどまだまだそのことも学び中です。人のグチや文句を言わないこともそう。それぞれのペースで学んで行くこと、どうしても私自身がその相手の行為が耐えられないくらい辛ければ、穏やかにつたえばいいこと。責められることに慣れて育ってきた世代でもあるからその感覚を掴むために、日々学び。

 

特に読み書き計算、なんてのは今の時代の日常生活で、子供が知りたい時におとなが丁寧に接することができれば必要な分は、習得できると思います。大ちゃんやその友達をみてると感じます。買い物行っても困ってないし、本だって読めるし、私の知らないおやつが作りたくて、料理本読んで作れてるから、理解力もなんも困ってる気がしません。

 

数学のシグマ(こういうの→Σ)なんて顔文字にしかつかわないじゃんって思ってたけど、電気に詳しい人とかは使う必要があるそうで、そういう人は自分でやってるんですよね。だからその人によって必要なことはちがうしね。これはうちの旦那さんの例 笑笑。私はそれをできるようになることには興味がないけど、その宇宙語みたいな私の知識で読めない計算式が面白くてブックカバーにしちゃって楽しんでる。感性の方で役立ってるかなー笑笑。。

 

あとはこれは今日気づいたんだけど、この人の素敵だって人と出会えること。その人の出来ることはもちろん、その人との会話の中で感じる、言葉や仕草のきりかし、雰囲気。ああ、自分にもこんな要素取り入れたいなとか、自分のここんとこ気になってたけど、こうしてみたらいいのかもしれないってそんな人から気づかせてもらったりする日々が日常にあること。これは、いつ、どこでも、常に気づいて学んで考えて、自分のことをどんどん好きになって行ける魔法のような学び。

 

これって大人より、赤ちゃんや幼児、小さな人の方が感覚が豊かで、そういう中で生きて行けたら、安心して生きる土台が出来上がってく。

 

この大事なことは、バタバタしてる中じゃぞぜったいできない。だから私たちは今、我が子とそこのところを深めているんじゃないかなって思っています。

 

タイで3ヶ月のうちに100人の人に出会う時間。トモエ幼稚園に通う日々。家族で過ごす日々。これは家族からも学んで行けると思うんです。だってお互いに常に成長して行く存在だからら。私の大きな学びはここにあり、じぶんが、うれしい、かなしい、いやだ、を始め、これからどうしたいとか、そのために自分はどうあればいいのかとか、考えることを身につけて行くには、自分のペースの時間が必要だと思うのです。

 

平和は学ぶんじゃない。自分で感じて自分がどうありたいかを考えながら過ごす中で生まれて来るもの。

 

これってすごく大切なことな気がする、って思ってメモするためにミシンを踏む足を止めました。まだまだ気づいてないこともたくさんあるけど、家族との関係、時間を大切にする、それを行動できてる、そんな自分にうれしいなあって感じてます。

 

そしてぐんぐん成長してゆく我が子の学びも考え続けなくちゃなあ、(それによって動きも変えて行かなきゃならないし)、と改めて感じた今朝でした。

 

大ちゃんの握ったおむすび。ツヤツヤでちょうどいいかげん。こにうちのいくつかは醤油麹入れて作ったからのりでつつんだらバラバラーって溢れてきちゃっておむすびとしては食べれなかったのだけども。しゅうゆこうじはおべんとにいれるのも注意です。びしゃびしゃご飯に変わってしまいます。なんでだろう。でもそんなことも知った彼のおむすび作り。

昨日は自分で本見てパンケーキ作ったり、お料理が好きなんだってことにまだまだ驚く私。好きだからすごく丁寧で上手なんです。米粉の扱い難しいのだけど米粉にパンケーキは私より上手。ああ、日々学んでるなし、彼を見てるとそう感じます。

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できた新作。

コユの服が足りない、と毎日訴えられるので新作いきました。昨日半日と朝3時間で作ったもの。

 

これからぐんぐんあったかくなるからスパッツのくみあわせがいいかなと。

マホエアネラ さんの型紙で。

生地はマツケさん。

レースをつけたら大人可愛くなったのでしばらくハマりそうです。

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 こちらはhibi+さんの型紙で。

生地はSMILEさん。

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タグを挟むと可愛い。

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んでもって。薄手の長袖シャツ。

ちょっと大きかった。100じゃ型紙によってピチピチ、110じゃぶっかぶか。

この微調整が素人も私にはまだ簡単じゃない。けれども昨日一年前に作ったのが出てきて、ずっと綺麗に縫えるようになりました。好きこそものの上手なれ だね。

 

そんなわけでコーディネート。

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私の服作りって、作り始めと、途中経過と、出来上がりが思っていたのとちがってくるの。ただきてくれる人は決まってるので、その人の顔を思い出しながら思いを込めて仕立てて行く。

 

子どもたちは汚しちゃうんだけどね、それでもメッセージタグもつけてしまう。だってね、いつだって愛しい子どもたちに思いを載せたくなる。幸せに日々を過ごしてね、って。

で、そんなこと大事にしたいなって思う自分の思いも大切にしようって近頃思うから。

 

先日読んだ服作家さんのメッセージにぐっときました。

「子ども服ってすぐサイズアウトしちゃうけど、その時、その時の可愛さを共に楽しみたいから。」

って。きっと幼稚園ですぐ汚しちゃう。

 

けどあったかいコットンの服に包まれて、彼女の好きな柔らかい色に包まれて、彼女らしく日々を過ごしてもらいたいな。私が家族一人一人に出来ること。

 

にしても、楽しいなー。うれしいなー。

大ちゃんのも作って、旦那さんのズボンにも挑戦して、夏に行く結婚式のための子ども服も作るー。。あとレメディーケースもだなー。。

 

家族との日々。

旦那さんが仕事を変えてよく話をするようになりました。今までは日頃のつぶやきだったようなことも、よく会話しています。

 

そんな中思うこと。

以前は自分の思い込みが多かったなあってこと。

こんなことお願いしたら疲れてるのに悪いかな?とか、あれっ、これってどういうことかな?ってこととか、最終的に自分で答えに結びつけて自己完結。帰ってきてから話そうと思っても忘れてしまうし。

 

子どものことも感覚の違いを勝手に知ってるつもりで確認もしなかったから、勝手にイライラ募らせてたことも多かったな。

 

ここ数年、小さなことも話題にするようになった。たわいなく話したり、時には会話の流れで怒り口調になることもある。

 

けれどもね、気づいたことがたくさんある。

 

一緒に暮らしてるから、勝手に彼のことを知ってると思い込んでたということ。

掘り下げて話して見たら知らないことがたくさんありました。彼が見る世界、感じる世界。家族への思い。かれがどういきていきたいかということ。

 

そうして自分のことも知りました。自分は母として、妻としてこうあらなきゃいけないって思い込んでいたことがたくさんあるということ。そしてそれは、自分にできること、自分が築きたい家族とのあり方という主体的な思いや行動ではなく、そう世間での常識から身につけてきたことだったということ。

目の前の家族を見ての動きではなく、人の目を気にしての行動が多かったということ。人の目を気にして、というのは、自分がこうあれば、自分に無理なく、周りにも優しくなれきもちよくまわるということではなく、家族や自分、誰かを犠牲にして回してることが多かった、そんな気がしています。人の目を気にして子どもに我慢させる、とかね。今は無理して外食や講習会に行かない。うちで子どもたちと作るのも楽しいし、自分の好奇心は案外自分のそばでもたくさんの学びの機会を生み出してくれてる。

 

私は家族とどう気持ちよく暮らせるか、とか、お裁縫に興味があるのだけど、毎日通うトモエ幼稚園の助けを借りて、丁寧に子どもと関わったり、旦那さんとの日常の会話にいらっとした時、怒ってはなしをかぶせない(時々する。)努力を意識して行うとか、わざわざ話を聞きに行かなくても、自分以外の家族との関わりの中に今の答えが転がってることがおおいことを知りました。

 

このことに関しては、自分が旦那さんとの関係を日々丁寧に築く努力をしてくことで見えてくる答えがある。子どもに本気で気持ちを向けるよう日々努力して関係を積み重ねて行くことで見えてくることがある。今は家族の平和は、私にとって、旦那さんにとって、子どもたちそれぞれにとって、いまも、未来にもつながる平和な心になって行くと思うからすごく意識してることの一つでもあります。人も自分も常に責めてた、そんな昔の自分の経験を引き継ぎたくなくて。

 

お裁縫はとにかくやってみる。手を動かすこと、考えることで生まれた疑問を一つずつ解決して行く。大好きなことだから余計に愛がこもる、私は愛がこもるってことが好き。きちんときれれば完璧でなくても十分。必要に応じて直していこう。自分の興味も育てて行く、そんな感じ。それが今の私のスタンス。

 

 

旦那さんは1番身近な存在。だからおこったりわらったり、甘えたり、全てを素直にぶつけている相手。彼の話を聞くようになって感じています。

 

私は何度も私の方を見てよ、子どものことを見てよ、って思ってきたけどどんなに仕事ばかりしてるように見えても、彼は私たちのことも思っていたっていうこと。私は子どもと旦那さんを思う。旦那さんは子どもと私を思う。話して見るまで、わかってるつもりでわかっていなかった。あの頃は申し訳なかったなっていまでもふと思います。

 

今はどんなことがあっても彼は私たちを思っていて私は旦那さんと子供たちを思ってる。どんな時もそれがある。だからちょっとケンカになり掛けても、少し後に必ず思う。この思いを受け取ってくれてありがとうと。そしてまたおだやかなじかんにもどる。夫婦は日々、すり合わせ。彼は彼の日々の中で成長し私は私で変わって行く。すり合わせを怠ると、どこかで歯車が噛み合わなくなる。もちろん大好きなタイのサハイナンにいる時だって、旅の途中の楽しいときだっていつでもそれはやってくる。その都度すり合わせ、気持ちよく生きる方法を見つけ歩いて行くしかなくて。

 

それが日々の積み重ね。夫婦の関係が家族の穏やかさを作り出す。旦那さんに今の状況を理解してもらって家事を助けてもらうこと、旦那さんのしたいこともわたしのしたいことも文句言わずに見守れること。その穏やかさに我が子は喜ぶ。安心する。それがきっと彼らが自分のしたいように生きていく支えになるのだと感じています。

 

いまでも日々いろんなことがあるけれど、これが私の経験。だからまず子どもとの関係と思ってきたけれど、旦那さんとの関係を意識します。そして私たち夫婦の穏やかな気持ちが子どもたちに向き、こどものあそびにつきあうのがにがてな旦那さんの分まで私がお付き合いする余裕をもてる。旦那さんは疲れてるよねーと洗濯を干してくれる。

 

それを手伝ってくれるまだ物干しの届かないコユ。じゃー、きょうは僕がカレー作るわーと、4歳のこゆの包丁を持つ手を見ながら、2人で夕飯を作ってくれる大ちゃん。こゆの包丁使いは7歳だった大ちゃん先生が教えてくれたもの。家族で育ち合うってこういうことなのかも、しれません。

 

いつだって家族がいてくれることに感謝です。ありがとう。

 

タイのローカルのごま。これね、殻をとってふるいにかけただけの手作業。だから殻のゴミなどが混ざってます。でもこれは私たちにとって貴重なもの。ごまは酸化やカビなどがアレルギーのげんいんになるのですって。

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いってごまを瓶に詰めておきます。

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この日の夕飯は、玄米ご飯とおつゆ。大根に醤油とごまかけたサラダと三升漬けと、蕗味噌。子どもたち嬉しそうに食べてくれてありがたい。ちょっとまえに仕込んでおいた漬ものをいただき、大きなおかずはない日も多い我が家ご飯。リクエストメニューは時々。夜だって手抜き 笑笑。

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でもいつもシンプルな分、食べ過ぎないし、他で何をいただいてもご馳走になる。きっと結婚してもお嫁さんに文句言わない人になる、笑笑。何より手抜きさせてくれてありがとー。

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春ですよー。

ふきのとうが顔だした。春だねえ。

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「これは薬だから。」

私たちに暮らしを教えてくれる師匠はいう。サンドットさんと同じ、野生のものはみんな薬。この感覚、ようやっとみに染み入るようになりました。

 

ふきみそを作りました。小さなこゆも食べます。にがいのに。自然に近づきつつある暮らしが、繊細な小さな子どもたちのからだをめざめさせてくれているのかもしれません。今年も野草を食べる会、しようかな。

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タイから帰って3週間。私から始まり、家族一周した風邪がようやっと終わりに近づいています。子どもに寄り添おうと3週間こもりきった身体は外に出ると、空気を感じる喜びに満ち溢れていました。

 

ともえのビニールハウス。風は冷たいのにビニールハウスは初夏を感じさせる暖かさで、靴を脱いだほうが身体が温まってくる気がして、子どもと一緒に素足で過ごしてきもちよかったな。身体が冷えがちなのでこうして暖を取りながら。

 

トランポリン、ブランコ、泥団子。タイから帰り、久々のトモエで少し緊張してる娘に寄り添おうと決めて、がっつり遊びました。そんな思いが伝わってくれたのか、午後をすぎてきゃーきゃー喜ぶ娘を見て、1番嬉しくなったのは私。

 

子どものため、なんて言葉いつから使わなくなったのだろう。大ちゃんが6歳になった年に、ふと気づいたことがありました。だいちゃんのため、って思ってやりとげたこと。大ちゃんが満たされるから、と思ってきたけれど、いちばんにみたされたのは自分だった。満足してくれた大ちゃんの顔を見て自分が1番先にほっとした。

 

なんだ、子どものためじゃないじゃん。まずは全て自分のためだったんだ。満足してもらおうって自分がいろんなことをしてみても、大ちゃんは私じゃない。私が満足することを想定することが正解なわけじゃない。どんなことに満足するかは彼にしかわからない部分があるんだ。

 

それが腑に落ちてから、子どものため、なんて横柄な言葉を口にできなくなった。子どもたちが喜んでくれたら嬉しい。私が彼らに喜んで欲しくてしたことを、受け入れ喜んでくれた。

 

自分のすることが彼らの希望と一致するいうことはむずかしいことだと思っています。余計なことになっていることの方がきっと多い。

 

だからこゆの笑い声を聞いて少しホッとした。楽しんでくれてありがとう。私は母だからやっぱり喜んでもらえたら心の底から嬉しい。わがことのくらしのなかで結局たくさんのプレゼントをもらってるのは私。

 

タイに行きたくて付き合ってもらったのも私の方。ただ、子どもたちも行きたい気持ちがあるかはいつも丁寧に確認する。付き合ってもらってるけど、彼らがしたくないことだった場合、彼らの人生を邪魔してるだけだと思うから。

 

一緒に行って楽しんでくれたこゆ。数ヶ月というトモエのブランクは大きくなってきている彼女にとって、緊張という形になって現れた。私はそうぞうしていなかったけれども、それが彼女の今の姿。だから今は私が彼女によりそいたいと思う。ゆっくり彼女はここの暮らしを思い出して行くと信じているので、その時までゆっくり。

 

タイに行くこと、行ってからの暮らし。帰ってくる道中、帰ってきてからの暮らし。全ては私の暮らしで全ては繋がってる。旅行なのは移動の数日だけでそれも含めてどんな時も、変わらない私の暮らしであり日常であることに変わりはないんだと最近は感じています。

 

子どもと自分との関係、自分と旦那さんとの関係、自分がどういきて行きたいかを思う事。その日々の積み重ねはいつだってずっと続いてる、って思うから、どこにいても私にとっていつだって日常。

 

タイはどうだった??の質問に対する答えが今年は浮かばないのはきっとそのせいだと感じています。答えるとすれば、いつだって今自分がどう生きていきたいか、ずーっとそんな自分と向き合っていたよ。楽しいこともたいへんなこともたくさんあって。でも日々、私の感じる時間は豊かだったよ。だからとってもいい時間だった!いまでも同じ、同じひび。ってね、それが答え。

 

 

まだまだ続く手作り。

今度はお誕生日の友人三兄妹に。

 

型紙はマホエアネラ さん。

生地はsmileさん。

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作り始めて半年、トップスを20枚ほど、ボトムスを15枚ほど作ってたくさんの知りたいことが出て来ました。若かったら洋裁学校もあったでしょう。もちろんいまでも洋裁教室に行くと言うてもあるけれど、小さな我が子との時間も、自分を感じて過ごす時間も夫婦での時間も大事だから、洋裁教室に行く時間が今はない。すでにしたいことはたくさん、だから、自分で一つずつ紐解いて行く、そんなやり方を今はしています。

 

そしてね、もっと知ったらぐっと綺麗にできるかもしれません。でもね、着るには十分。それで足りてると感じています。昔はうちで作っていた。きっと着れたら十分、と言う感覚があったからなのではないかと思います。私の暮らしは十分なことがたくさんあるのだとなんとなく感じています。

 

当たり前の暮らしが当たり前ではない、そう思うようになったけど、まだまだ当たり前と思っていて気づいていないことがたくさんあるのだとおもいます。自分の持っているもの、人様とのつながりがどれだけ豊かなのかをこれからも感じていこうと思っています。そうして自分の生き方、暮らし方をまたグッと自分のしたい方向につなげて行く。日々は感じて行動に移すことの積み重ね。一歩ずつね。