日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

足るを知ること。

ジャングルで暮らして知ったゼロから始まる暮らし。

それは、今日この日を生きるということは昨日まで作って来た自分をゼロという土台にして積み重ねていく作業なのかもしれない、と感じています。

 

足るを知る。

この言葉をジャングルから帰ってなんど想像しただろう。

わたしは足るを知ろうとしてる人間なのだろうか?

自分が怒りの中から解き放たれたときとても強く感じます。

わたしは今、ここで生きているだけで十分だし、それは今目の前にいる人も同じなわけで。

 

足るを知ることは物だけではない。家族に対しても自分に対しても。日々の暮らしに対しても。

 

私たちは生きているだけで十分。昨日、自然療法に先生から学んだ 人がいるということは目の前のものがあるということと同じ。 

わたしはジャングルで強く思いました。虫と人間は全くの同等であることを。それからわたしは殺虫剤を使わなくなった。

 

目の前のことをただ受け入れることができる人間になれたとき、わたしは本当に「足るを知る」ということが腹の底に落ちるのかもしれません。

 

誰にでもなく、まだまだ足るを知らない人間でごめんなさいと謝りながら、今瞬間穏やかであることに改めて感謝をしています。

 

ありがとう。今のわたしの心に、体に、家族に、時間に、空気に、、、、。全てに感謝を込めて。ありがとう。愛しています。

 

浄水器のカートリッジを捨てることへの違和感。微生物は大地だけでなく自分を作ってくれていることを知ってから感じています。やだなと思いながらゴミを出す違和感があったのはそれ自分にとって不誠実だったから。

炭に変えました。飲み水はこのタンクに夜のうちに入れて濾過します。きっと炭の効果で2,3日は腐らないでしょう。実験も兼ねてます。

 

そして洗濯も炭を追加しました。もちろんお日様に干せば水だけで平気なんです。でも北海道は冬は雪なので外に干すシステムがどこのアパートにもついているわけではないので、生乾きの匂いが残ったりします。洗濯槽も においがでるようになってきます。

炭と塩で洗ったその日から生乾きの匂いがぱたりと消えました。洗濯槽の匂いも。本当に目からウロコってこのことだと思います。洗剤を使いたくないけど、匂いが、、、という方,是非お試しください。わたしも実験続けてどれくらい持つかとか、使用後大地にお返しするまでどう使って行くかを発信して行きたいと思います。

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生きていること。

   昨日コユが熱性けいれんを起こしました。熱はあったものの自分で服を脱いでお風呂に入ってきたコユ。寒いというので少しお湯の温度を上げてあたためてあげようとおもったときに息子の叫び声。

 

    慌ててみると、目を見開いてがくがくしてるコユの姿がありました。呼吸が弱くなった瞬間、泣きながら救急車を呼んだわたし。3分近くの間、コユは震えていました。そうして白目をむいて泡を吹き、ウトウトし始め。。。。。胸を見ると小さくピクンピクンと横隔膜が動いているだけで、きちんと呼吸ができているのだろうかと、手を握ってひたすら声をかけ続けることしかできなかった。泣こうと口は動いているのにいっこうに声が出ないコユ。

 

    救急車は10分ほどできてくれました。そして隊員さんがきてくれた途端、ようやっと泣き始めました。仮死で生まれたあの日と同じ。コユはまだうつろな意識の中、優しい隊員さんのおかげでわたしは気持ちの落ち着きを取り戻しました。

 

    病院に着くと熱性けいれんをとの診断を受け、ようすをみましょうとのこと。この日は血液検査で帰宅することができました。優しい救急隊員さん、病院の警備員さん 、先生。自分がどれだけ支えていただいていたのか、本当に感謝が尽きません。

 

    こうして繋がれたコユの命。そしてコユ自身の生きる力。ありがとうコユ。コユは生まれた日に続き、二回も命がけでわたしに伝えようとしてくれたことがありました。いえ、一度した流産もコユだった気がしてならないので、もしかしたら3度目かもしれません。

 

    人が生きている奇跡。日々を共に過ごすことができる奇跡。人の命の尊さを、母にさせてもらったわたしは、深く感じています。今までもそう。けれどもその認識が薄かったのだと思います。今、いろんな気持ちを整理して、ドスンと腹の底で感じています。

 

    生きていてくれてありがとう。生きているだけで、いい。笑ってくれるだけで、いい。抱きしめられること、その温もりを感じられること、これは奇跡なのだと。

 

    そう思えた途端、とめどなく流れる暖かい気持ちは、わたしの中のインナーチャイルドにも伝わったようで、人は生きているだけで素晴らしいんだって、心が今でも震えています。それから毎日、コユと大ちゃんを抱きしめ、今日も生きててくれてありがとうと言えるようになった。もちろん旦那さんにも。

 

   そしてすれ違う人にすら、生きてる奇跡を感じる。生きるということは奇跡なのだと。そして生きている命は愛し愛されることができるのだと。

 

   わたしもたくさん愛されている。愛している。もうこれ以上手に入れなきゃならないものは何もないのだろうとおもいます。生きてる時間をどれだけ、わたしらしく生きるか。わたしらしく生きよう。今を積み重ねよう。

 

   コユが教えてくれたこと。これ以上彼女が母のために命をかけずに済むようにわたしは成長したいなと思います。子どもは神様。本当ですね。

 

    生きてくれてありがとう。私の身体は私が知らないうちに不調を治し、生きてくれている。いつだって私のためを尽くしてくれてる。そんな私の身体に心から愛しさを感じます。ありがとう。自分の身体を、直感を大切にしてみよう。こんなことに気づき、私は今年はもう一度誕生日を迎えたような気持ちでいます。コユの誕生日、それは自分の誕生日でもあるのかもしれません。沢山のことを教えてくれるこどもたちへ、もう十分にいただいてるから、年取っても決して親孝行なんて考えなくていいからねー!!私はいつになったら子孝行出来るのだろうか。そう感じています。

熊笹で。

   ビニール一枚を減らしたくて、日々探してます。そして思いついた方法。海苔がないときは熊笹を使います。7月のいい状態の葉をつんで乾燥させて使うときにお湯で戻す。熊笹の香りもとってもよくて。これでこの一年やってみようと思います。

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   今日はおむすびをつつんで海に出かける予定です。手が汚れていても大丈夫。やっぱりおむすびはそういうときに食べたいのでラップの代わりはないかなあって探していたんです。昨日は急遽出かけることになったので出来立てで水分が多い蒸しパンを挟んでみんなで食べながら出かけました。そんなときは戻さずそのまま。行き先が五天山公園だったのでそのまま山に返してきました。車中もゴミがたまらず嬉しい^_^

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    ちまきが続いたのでちょっとお休みして笹の葉蒸しで何かおやつつくれないかなーって考え中です。食卓に出す時も笹の葉とちょっと野の花を添えると一気に素敵になる。わたしはもちろんだけど、人間も動物だから、誰しも身体は喜ぶんじゃないかな。自然に触れることで身体は解きほぐされてゆく気がするのです。

 

    先日、オフグリッドソーラーのイオさんがアーシングのことを話してくれました。意識はしていなかったのだけどタイにいた頃はわたしは山の中も裸足が好きで、すあしでした。いろんな気持ちの揺れがあるわたしにとって、慣れない山道を素足で歩くということは、意識が足に集中するってこと。それがすごくよくて小さなイライラや人の動きなんて全く気にならず、気持ちよかったのでずっとそんな感じで暮らしてました。アーシングって言葉を知ったのは後のこと。

 

    アーシングって、身体にたまった電子を大地に返してくれるんですって。イオさんの話が自分の経験とリンクして納得できました。うつが改善するのも心臓にとって良いのも、身体のだるさが取れるのも、納得。わたしがあそこで暮らしている間、なんとなくいつもふわっとした心地よさの中でいられたのはそのおかげだと思います。身体で経験してるので、イオさんのお話がすっとはいってきて面白かったです。人間も動物ですものね。素足で歩いて、畑をして土に触れて。それって本当に大切なこと。

 

   イオさんは北海道の冬でもアーシングできる方法を考えて普及しようとしてくれているそうです。わたしもあのエネルギー溢れるイオさんのお話を、イオさん節でお聞きしたいな。

 

   そんな楽しいこと。今日は身体が海に行きたいっていってるからいってこようと思います。どんな楽しいが待っているのかなー。

石鹸のこと。

     昨日までトモエの家族キャンプ。それが終わって台所に排水溝を掃除した。悪臭とともにヘドロ状になって汚れが出てきて思わずそばにあったクレンザーをかけて磨き始めた。そしてふっと思う。

 

    この水が裏に沢に流れていく。どきっとした。

 

    わたしは掃除をしているつもりで、かえって汚しているのではないかと。

 

    タイで感じたこと。田舎の村よりも、バンコクの路地の方が排水による悪臭がするんです。わたしと旦那さんとで出した答えは、都会はコンクリートで覆われているから微生物がへりもはや分解能力が減っているにではないかということ。きっと田舎は土に帰り、そこで分解されているのだろう。洗剤を使わない暮らしは、きっとすべての生き物に優しい。昔は日本でも糞尿を畑にまいていたくらいだから、それを分解する微生物は神様くらいの力を持っているのだろうと思う。

 

    そうして、糞尿をけなさない人々の心は、自分の身体のことを受け入れることのできる生き方をしていたのだろうと想像しています。自分の中で否定するものが出てきたからうつ病のような病気が生まれたのかもしれないな。心と身体と頭の矛盾。自分が自分でなくなってしまったかのような現象のように感じています。

 

    なのでわたしがクレンザーを使って洗ったことで、沢の微生物の分解能力を落としてしまったのだと感じたのです。それは掃除をしているつもりでも汚していることになる。そして人間ばかりが偉いのだっていうエゴでもあると。。微生物を思う暮らしをしようと思います。いえ、洗濯に洗剤を使わない暮らしはもう始めているので、もう始めていますね。

 

    自然の力にはかないません。野生の直感をもつ動物たちにも叶いません。もちろん虫たちにも。

 

    先日畳の裏からありが上がってきていたことがありました。古い家なので仕方ないけれど、正直嬉しくはないので時々外に投げたり掃除したりしています。けれど殺虫剤を使いたいとは思わなくなっている自分がいました。対等に生きている同士として武器は使わない。台所まで行列は嫌なので、潰しても仕方ない。けれどそれをするなら自分の手でしたらいい。なので時々セロテープでとりました。子どもたちにも寝室でピクニックしないように伝えました。けれどそれだけ。

 

    でも私たちが慣れてゆきました。戦うこともなくなり、しばらくうちの中で食料を運ぶありとすれ違いましたが、2週間たち、いまはあまりいなくなりました。飽きたのかなー、めぼしい餌が少ないと思ったのかなー。きっとうちの掃除をしてくれてたんですね、畳の下のクズは減ったのかもしれません。

 

    フィールドに蜂がきました。スズメバチだろうと思って気をつけてはいましたが、増えてきたので車内に撤収。その後、トモエで似たようなことがあり、スズメバチだーって逃げていたらスタッフさんが、ウシアブというアブだよって教えてくれました。帰ってからスズメバチとウシアブの違いを調べました。そして万が一のために、ポイズンリムーバーも旦那さんと1つずつ、手元に置いて置くことにしました。こうして知識を増やすことで自然と戦わずに自分の身体を守る術を考えるようになりました。

 

   蚊取り線香も気づけばあまり使っていません。使わなければそれなりに暮らせる体になってゆくものですね。

 

    そうして自然と共にあることを自分がしたいと思うようになって、なんとなく受け入れられるようになったこと、が増えてきたなって実感がありました。どうしようもならないものはどうしようもない。ならばうけいれたらいい。それを自然は教えてれている気がします。その方が柔軟で心も楽ですから。自然は神様。昔の人がそういった意味がなんとなくわかるような気がする今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

   

ハサミのこと。

   使っていた裁縫バサミがきれなくなってきた。だから包丁用の砥石で研いだ。そうしたら全くきれなくなった。わたしは知らなかった。ハサミは包丁のように両面を研いではいけないってこと。

 

   全くきれないハサミを捨てようかと迷った。というか捨てたくなかった。なぜかというと、このハサミを捨てた場所の状態をリアルに想像できるようになってきたから。これを捨てて新しいのを買うのは簡単なこと。けれど孫の代にはこうして私たちの捨てたゴミでたくさんになっているだろうと。

 

    タイでの暮らしで、わたしはうちの前でビニール一枚を燃やすのが嫌だった。くさくて本当にあたまいたくなるし、明らかに土が汚れる。でも今まではわたしはゴミは出たら捨てちゃえばいいという気持ちがまだまだあった。面倒臭くてお肉を揉む時は袋を使った。でもね、このゴミは焼却されるからいいってもんじゃない。土地の汚れは地下に染み渡り水を汚す。空気を汚す。大地を汚す。その中で私たちは生きなくてはならない。

 

    便利さが生み出した小さな環境破壊は、温暖化という大きなものではなく、アレルギー、うつ病発達障害、がん。。。。。というみじかな問題としてもうすでに私たちに帰ってきているんじゃないかって、ちょっと想像してショックを受けた。そうして綺麗に暮らすことで私たちと生きてきた微生物を排除していく。私たちの身体はすでに生きずらさを抱えているのかもしれない。

 

    そう思ったらこのハサミは捨てられないって思った。わたしが気づいたこと、多分きっと大事なこと。だからわたしは90歳の大家さんに聞くことにした。ハサミをもう一度使えるようにできないかと。大家さんは笑いながら教えてくれた。「研ぎ屋さんにだすこともないよー。裏面も少し強めに研いでごらん!!」

 

    帰ってやってみること30分。なんども試し切りをしてついに切れた。嬉しくてこのハサミが一気に愛用品になった。このハサミと生きていこう。そして今までは値段と比較して迷っていたけれど、これからは迷うことなく道具は直して使えるものを買おう!!

 

    90歳のお知恵を引き継ぎたいと思った。今引き継がなかったらもう引き継げない。生きて行くことを専門家に人に頼り切らないとならない。自給自足の暮らしをしようとは思わないけれど、自分の近くにいる人たちと、自給他足の暮らしをわたしはしたい。助け合ってみんなで補って行けばいい。

 

    少しずつ積み重ねて、いつかわたしも知恵の宝庫になりたいな。生きるって頭じゃない。きっと感覚。昔の人は感覚が豊かだったのだろうと思う。

 

    これがハサミが教えてくれたこと。じぶんさえよければいいんじゃない、生きる知恵を身体に取り入れて引き継いで行くこと。そうしたら未来にもいい気がする。そんな優しさを引き継いで生きたいと、わたしの母性がつぶやいた。ありがとう、それを気づかせてくれたわたしの大切なハサミへ。

私の時間。

  子どもの頃から、1人ででいるのってかっこ悪いっておもってました。学生の頃は1人でお昼を食べるときは、誰にもみられたく無い、って気持ちでいました。でも今は思います。

 

   1人になる時間ってとっても大事。自分をしっかり感じて、自分がどうしたいのかを中心に動くために。

 

   赤ちゃんの頃から個を尊重してもらって育ってる我が子たちと私との違い。自分の時間を大切にできる我が子と、1人になると不安になっていた私。子どもの頃の環境ってすごく大切だと感じます。

 

   あなたはあなたでいいよ。そういう安心感の中育つ子は、小さな、小さな頃からいろんなことに挑戦します。そうしていろんな経験の中で、自分のことを知り、人の気持ちも感じ日々を積み重ねていくのでしょう。

 

    コユはわたしが怒り出すと言ってくれます。「ママ、コユがいるから大丈夫!!」と背中を撫で撫で。そして疲れてイライラしだすと、「自分が行きたくて行ったんでしょう。」と。

 

    感じることも表現も柔らかいのです。この柔らかさを潰したく無いな。そしてわたしも柔らかい大人になりたいな。

 

   わたしはまだふと、友達を作ろう妄想がやってくることがあります。でもこうして整理してみると、わたしにはもう十分。家族と何人かのお友達がいるから。心の平和にはもう十分。その分、時には子どもたちを旦那さんにお願いして1人の時間、自分だけを感じる時間をもったらいい、そう今、感じ直しています。

 

   さてと久々の更新。色々作りました^_^

わたしのワンピース。目指すは上下3セットの服で暮らすこと。理由は片付けが苦手だから。今は作る練習中だけど、一作目の服たちが着れなくなる頃には、お気に入りの生地と形で作れるようになるといいな。作ってみて思うこと。縫った裏の部分、既製品のように裏の始末まで綺麗にできてないけどそれでも着るには十分だってこと。そこまでやる必要もないのかなって感じています。そんなことから自分で暮らしを作る上で完璧にできることなんて何もないんだなって感じます。

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むすこっちのズボン。記事が足りなくてわたしの古着を足しました。

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帽子。わたしのと大ちゃんの。

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コユの。コユのは大ちゃんとコユのちいさくなったジーンズを使ってます。後ろのリボンは日除け。というよりダニ避け、笑笑。

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あとは小物。娘ちゃんの髪飾りを作ってみたかったの。ワンピースのブローチにもなるな^_^。こういう手仕事っていいなって思うので、ワークショップしよう。

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そんなこんなな日々。

梅仕事。

   梅仕事の時期がやってきました。いつものように梅干しを仕込み、最近うちの研究所にお客さんも来てくださるので久々の梅ジュース。もちろんお客さんにお出しするものも家族が飲めるものを、ということで黒糖で仕込みました。海外からも来てくれるので、梅酒も仕込みました。

 

I made Japanese apricot juice. 

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And I made silted Japanese apricot.This is Japanese traditional food.

   それから梅干も。

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  梅の香りで豊かな気持ちになります。子どもたちも一緒に梅仕事。

 

   そしてね、今年はお友達にも伝授しました。気になるけど今までできなかったことって言っていたけど、少し前の私もそうでした。それに小さな子がいるとなかなか難しいのも事実なんですよね。核家族でできることも限られますから。だからこうして手伝いながら伝えていく。そうして暮らしのシェアをしつつ、子どもたちも楽しく過ごす。それが私のしたかったこと。そうしてつながりと信頼関係を築いていきたいと、小さく小さく動き始めました。

 

   まだまだ我が家の暮らしもままならないので少しお金をいただいて、よろこんでいただいたぶんをくらしをさせていただくことにしました。お互いにありがとうの気持ちと、楽しかったね、というきもちをもつ。手仕事の素晴らしさはそこに余計な会話がいらないこと。来てもらってゆっくりお茶してからはじめるこの時間、暖かく穏やかな気持ちでシェアしていけたらいいなと日々を積み重ねています。こうしてお互いに余裕が生まれたら、もっと優しくなれる。もっと安心して日々を過ごせる。そうありたいからまずは自分から。

 

    自分の苦しんだ時間がこんな姿に生まれ変わり始めたこと、私の積み重ねてきた時間があったからだと、感じています。乗り越えた自分を、自分の育ちを、やっと受け入れられた、そんな気がしています。もっと自分を知りたいし自分を愛していきたいから、また日々を大切に過ごしていこうと思います。ありがとう、わたし。ありがとうございます、私を支えてくれた方々へ。ひとりぼっちだと思って来たけど、私を支えてくれた人が切っといたはずなんだろうといまは感じています。自分で感じようと思えば感じられたはず。いまはそういうアンテナを働かせながら生きて行きたい、そう思っています。