日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

人間の体の神秘。

先週から札幌にやって来た暑さ。

街の中は30度の夜もあるそうだけど、山ん中は夜中はすずしい。

明け方は肌寒くなるほど。

 

ここ二日ほど旦那さんに時間をもらってすっかり外に出かけて講演会も聞くこともなくなったわたしが唯一でかける勉強会へ。

わたしは母にさせてもらってから、自分の人生をひっくり返すくらいいろんな感情を味わい、経験を味わって来てます。

それをしてくれたのが我が子であり、それに刺激を与え、支えてくれたのがこの園長でした。

 

母との関係を哀しみ、うらみ、子どもの頃から血縁なんてと家族で過ごすことが苦痛でしかなかったわたしに、アドバイスを持って考え方を変えさせるのではなく、根元でそっと囁き、自分で気づけるよういのり、ささえ、希望を与えてくれました。

今のわたしは家族は人生でいちばんの安心できる場所であり、それはどこにいてもこの家族がともにいればその機能を果たすものであることを感じています。

わたしだけではなく、だんなさんにとっても、こどもたちにとってもそうであってほしいと、自分の感性を柔らかくしていこうと思う日々。

 

今では幼稚園にいるときだけではなく、タイに行くとき、いったとき、この山で過ごすとき、全てがそういう思いを持ち続けられるので、クマさんと同居のここでの暮らしですら私たちには穏やかな日々。

家族一人一人が遊牧するかのように、幼稚園、タイの村、山の中、と1日の中で日常的に変わりゆく自分たちの暮らしを、楽しめてることが奇跡であり、ありがたいことだよなあと思う日々。

 

そんなふうに自分の生きる日々を感じられるようになり、今回の勉強会でままんだこと。

 

遺伝子のこと。自分の可能性のこと。

いつでもここで学んでいる、わたしがいる奇跡。我が子と旦那さんがここにいる奇跡。

 

親から愛をもらえなくて、幼い頃から、消えてしまいたい願望の強かったわたしが、誰も恨まず、羨ましがらず、今の自分で楽しめるように変わっていったのは、自分を受け入れられたから。

 

親に受け入れられなかった自分が、支えてもらい、今いただいている愛に気づくことから始まり、自分が生きていていいんだって感情が湧いてきたこと。

 

我が子がここにいる奇跡は、わたしが今ここにいることの奇跡でもある。

この大切な我が子とそばにいてくれる旦那さんとの時間を暖かくしたくてゆっくりゆっくり、自分の感性を開き、柔らかくして行く日常の中で、同時に自分の人生を味わって行く感覚を得て、いまここにいます。

 

わたしなんか生まれて来なきゃよかったのに。

 

そう幼い頃から自分を責めて来た。

母だけでなく、周りの人まで自分をいないものと思っている感が悲しくて、自分までそう、思いつめていたあの頃。

 

でもわたしを愛してくれる人がいたんだってきづいたときのあのなんともいえない感じ。

そこから始まった長い旅で味わった感情はいま、自分がどう生きて生きたいか、どんなことが溢れる人でいたいか、ということをいつでもわたしにささやいてくれるようになっています。

 

日々を大切にしたい。

 

自分の辛かった経験は、命がけで我が子を守りたいという思いから、誰かを愛し、優しくなりたいという思いに変わり、日々の中で生きています。

 

だからわたしにとって人生で起こったことは何一つ無駄のなかったことなのだと。

失敗も無駄も後悔も何もない。

あるのはただ、いつでもみすてないでくれてる子供たちや旦那さん、近しい友人、に感謝しかないなあ、とうこと。

 

今の科学の研究で、遺伝子はスイッチがありいれたり切ったりできるらしいということ、細胞一つ一つに遺伝子があり、それを解析して人の顔を再現できるくらいかがくはすすんでいること、どれくらい身体が奇跡と神秘の塊であることかを感じずにはいられないことをしった。

神秘と奇跡。そんな自分を大切にしない選択肢はもはやないよなあ。

 

わたしは、数年間、子どもたちとこのコミュニティのような幼稚園で日常を過ごし、タイの愛に溢れた村で、生の自然の中で暮らし、いま、アリンコの神秘でもはや虫も殺せない日々を過ごしています。

 

育って来た過去が苦しかったから、過去は変えられないから基礎は変わらない。

だからこの自分の苦しい過去のせいで苦しみながら生きて行くしかないおもい、私たちは幸せになんかなれないのよ、という親の言葉の通りの人生を歩みかけていたけれど、自分の選んだ環境は、わたしの遺伝子まで変え始めてるんじゃないかとあらためてかんじています。

 

極端な自然の中での暮らしが、太古の記憶を持った遺伝子のスイッチをオンにしてくれてるんじゃないかとおもうのです。

今に不安と恐怖と、怒りの中でしか生きてこれなかった自分が、自分が愛の中で暮らしていたことに気づきてから、感謝しかできない日々を過ごしていることの奇跡。

自然の中で暮らしているからこその癒しだと思って来たけど、動物としてのスイッチをオンにしてくれていて、わたしは自然を母に持ってる感覚をいま生えてるんじゃないかと思うのです。

 

自分が変わるのではなく、かわってゆく。

自分の努力だけではなく、変えてくれるものを見つけるわたしの本能がここにわたしをつれてきてくれて、こうしてスイッチが入った。

一年後はもっと癒されているのだろうなと、まだ見えない私を想像できる奇跡。

わたしが今、野生動物の暮らしに興味があるのはそのためだろうな。

想像し得ないくらい厳しいだろうけれど、むれをつくりかぞくを愛する像のように、地球に力をいただきながら生きて行きたいなと。

 

昨日から、自然の中で生きて行くことで、自分の遺伝子はどうなって行くのかなーって想像してます。子どもたちも。

 

今はおおきなアブが多くてたかられてドキドキするけど、これも数日するとスッと引けて行くと人生の先輩は教えてくれました。こうして日々移り変わって行くこの世界。

 

アブをどうにかするのではなく、自分たちが接し方を変えるしかないかー。

 

雨が多くて山の木々の湿度も手伝い、布団までカビにきをつかるひつようがあるくらい湿気に気を気張る日々。

布団は大変だけど毎日干すしかないし、洗濯物のにおいもつくこともあるけどしかなたいよねー、またあらうかーともはやあきらめもついてる。

 

しばらく出なかったネズミの足音で目を覚まし、目が合ってしまって、またでたかー!家の下にアオダイショウが住みつかないかな、とか野良猫に餌付けかな、、、、とか本気でいろいろかんがえたけど、そもそもこんなネズミの出入りできるはずの家に、2度しかかれらとそうぐうしてないのは、きっともう家の下に蛇が出入りしまくっているんだ!!と、きづき、この不安を手放せた。

 

そうであることを受け入れるしか人間にはすべのないことを知り、自分の思うように変える必要のない暮らしは、わたしにとって、生きることを楽にしてくれました。

熊がいることも仕方がないの、だって彼らが住んでいた山だから。

しょっちゅうハサミムシに刺されて痛いなあって思うことも仕方ないよね、きっと。そのうち自分自身に彼らを避ける能力がついて行く。

今年は結局網戸をちゃんと設置できず、蚊が入って来てひーってなってることも。蚊に対して敏感なスイッチが入ってるので意外に刺される量が少ないわたし達。今年はそこまで回す手がないから、違う方法で自衛する。しかたないよねー。

 

子どもたちのちいさないざこざにいらいらしていたけど、近頃日々の子どもたちの優しさに気づける心がさらに開き、多分、どうしようもないことは自分に変えられないことも腑に落ちてるので、どうでもよくなって来てらくになったなー。お互いに言い分と思いがぶつかり、うそつきーっていったり、それにたいして我をはったりしてエスカレートするのが苦手だったけど、きっかけなんてわたしも知らないことがおおくて、どっちも信じるしかありませーん、とか言って、わたしが怒られる、笑。たぶん、思いやタイミングが違うだけで別に本人は嘘ついてないのに、そう思われちゃう場面もたくさんあるだろうし、ちょっと、オーバーにわたしに伝えたら嘘つきって言われてゆづれなくなることもあるだろうし。いろんなことがあるけど、わたしがしているように、いろんな感情を味わえばいいよなあって、おもう。

 

それをわたしができるようになって来たら、我をはり続けてる娘、いつもは最後に大ちゃんに、こゆをきらいになってしまうよ、っていわれて きらいになってもしかたないよ、もういいんだよ、って意地張って後ろを向いてないてたのに、自分の大事にしてたデザートを持ってきてこれ、美味しいから大ちゃんにあげるね、なんて持って来てくれてた。(今日の話)。

30分以上ぶつかって、3分で和解。

 

ああ、受け入れる、ってまつ、ってこういうことかあ、とまたわたしの中に刻み込む経験。

 

経験をし、感情を味わい、変えて行くのではなく変わって行く。

変えて行くのは大変だけど、こうして何かの力を借りて変わって行くこともできる。

そちらの方がわたしには楽で、小さなことがありがたく感じられて嬉しくてそんな方法もいいじゃんーと最近はこちらよりになりつつあります。

ゆっくり経験して、あじわってゆく。

だからスローライフ

 

それにしても山のハサミムシはでかい。

今日もうっかり彼らの通り道に足を投げ出し刺されていたい。。でも一年後にはその感覚器もオンになって刺されにくくなってるんだろうなー。

 

楽しいことは一つでも多いほうがいい。そう思うからうちにいても外にいてもそんな時間を一緒に積み重ねる。

帰省ついでにラベンダーを見に。

 

いつも家族でいるんでしょう?そう聞かれるけど結構パパとはバラバラなこともある。

今しているお仕事を丁寧にしたいという彼の気持ちに共感できるので彼の時間を作っている間、私たちはこうして時間を過ごす。月一の家族会議で彼が仕事を大切にしたいことを聞いているのでそこにわたしは気持ちを寄せる。それと同時に、春からこゆがいろんな心の葛藤を抱えているので寄り添いたいというわたしの思いに、パパもこゆのことを見て共有してくれたのでパパが思いを寄せてくれる。子どもとじっくり過ごすことが得意でない彼もときおりいっしょにトモエ幼稚園に行ってくれるので、わたしができることはわたしがやるからねーと今日は母子3人でラベンダーをみに。

今、私たちにとって大事なことは何か、を会議で話して来た時間は13年を経て、ますます深みをまし、お互いを大事な存在に思う思いをはっきりとかんじてます。

 

そばにいてくれることがありがたい、そういう関係でいられるよう努力して行こうね。

と話をすると理解し合えること日々がありがたいとおもう。かぞくかんけいはつみかさね、なんですね。

 

ノロッコ号に乗りたい大ちゃんとお花畑がたのしいコユ。

わたしが我が子がどんなに小さくても、楽しいことを一緒にしたいと思って来たのは楽しかったことを覚えていて欲しいのではなく、楽しいなあってワクワク感や幸せ感をその時々で味わって欲しいから。どんなに小さくてもその内容ではなく、味わった感情は身体の中でずっと生き続けていると思うのです。

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小さいから忘れちゃうねーってよくおばあちゃんはいうけど、忘れていいの。ただ一緒に楽しかったこのかんかくはずっと忘れない。

だから楽しいことはたくさんあった方がいい。

いつか離れても、ああ、なんだかよかったなあって思ってもらえる時間を積み重ねて生きたいなあって今もずっと思っています。

そんな一コマ。