日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自分のこととリアルに山で暮らして見て感じてること。

なんかメンタルの浮き沈みが激しい、参ったなあの春。

 

去年頻繁に勃発していた大ちゃんの喘息が今年はまだ一度きり。

昨年は一度発作を起こすと1月は身体の不調が続く状態でした。一昨年だいぶ良かったのでもう大丈夫かなって思っていた中での状態だったけど、なんとなく今、一時的に悪くなってる気がするけど、過渡期なのかもしれないって思って乗り越えたら今年は本当に調子良くてこないだの発作も、自分で今日はプチ断食にして一食にするからって自分で食事療法して、病院に行くこともなく、二日で乗り越えました。

 

日々わたしが自分に対して食事とか気持ちとかに気をつけてやってきたことが伝わったのか、自分で自分の体と向き合うすべを身につけてくれていて、うれしいなあとおもっています。

わたしはそれをしらずにくすりにたよることしかなかったから、大人になってあまり効かない薬もでてきてしまい困ったの。

身体の不調は、食事や睡眠、心のあり方、、習慣を変えなければ薬を飲んでも一時しのぎでどうしようもならないことをこうして感じています。

薬があることもありがたい、だから、西洋医学を否定してるわけではなくてね。息子もホクナリンテープを貼ってお世話になりましたから。けれども、薬でどうしようもならないこともあることを知ったから始めた自然療法。

結果、自分の体が変わってゆくことが楽しみになりました。

身体が自分の身体をなおしていってくれるお手伝いをする、そういう感覚でいます。

 

去年は大ちゃんの過渡期だったけど今年は自分の過渡期のようで、ちょっと気分の浮き沈みに参ったなってかんじてます。

でもこれも通り過ぎるのを待つしかないのかな、っていまふっとおもい、自分の心をコントロールするより、浮き沈みしなくて済む暮らしかた、日常の過ごし方をして見たらどうかな、(気持ちが乗らない日は無理に人に会わないとか)と気づきやってみようとおもいます。お鉢を食うのはそばにいてくれる家族。子どもたちは母にはとても気使いしてくれるようになるので申し訳ないのです。

 

自分の気持ちとどう向き合うか、子どもの頃からの経験が少ないので、今ここでしわ寄せきてるなあと感じてます。でもこのままの状態で子どもたちと過ごしていたらこどもたちもそうなってしまいかねないので、ここを一つ越えないとね、そう自分に言い聞かせ、ミシンを踏み、ストレッチをして心をキュッとならないように外側からケアしています。

 

多分過渡期。。

一つずつ今の自分を越えていくっきゃあないよねえ。

 

大ちゃんがうちの前で拾ってきた蜂の巣。

和紙のような繊細な薄さともよう。

なぜか大きい巣の中に小さなすがもうひとつはいっているの。

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ここにきて思うこと。

自然の美しさ、神秘、不思議、人も動物だったってこと。

毎朝、野草を摘みに外に出ると、緑の色が変わってる。

光を浴びて地面に降りてきた木々の緑が、すき通るグリーンから深いグリーンになり、茂ってきてちょっとくらくじゃり、ふかいみどりにつつまれる。

 

5月の半ばから朝の7時には満開のハルゼミの声に外に出るたびに両手を広げ、大きく息を吸い、立ち尽くしてしまう。100匹くらいいるのだろうか。。

 

雨の予報の日の朝、いつもよりはやくなきはじめたハルゼミの声。

いつもより2時間ほど早かったかなぁこちら北海道は4時前に日が出てくるのですが、よじには響き渡るハルジミの声に、今日は早いなあと思っていたら、6時になり、急にピタッと全ての声が止まり、その1時間後、あめがしとしとふりはじめる。

よく聞くよね、昔からの言い伝え、ねこがかおをかいたら、あめがふる、とか。。。。

 

我が家のコンテナハウスは、少しでも風が吹けば風の音が響き、雨が降れば雨の音がする。

気温が下がれば一気に冷え上がればまた一気に暑くなる。

明け方肌寒くてつけるストーブも、真冬部屋を温まる時間と春先に温まる時間は全く違う。

 

月が出る日はうちの中を明るく照らし、出ない日は真っ暗の山の暮らし。

お日様の登る位置も毎にすこしずつずれてゆく。

 

それをリアルに感じる毎日が大好きだなって言ったら家族一致でそれぞれが、自分もそうなんだ、ってこたえてくれた。

 

なにごとにもかえがたい自然の中の一部を借りて生きているわたし達。

そしてその暮らし。

人間だけが特別ではない厳しさもここで感じさせてもらっています。

そうしてきづいて感謝するここでの暮らしがあります。