日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

なんとなく感じる村のこと。

このむらのこと。

 

地域の仲間と協力して家を建てる。みんなで協力して建てた家はあっという間に出来上がる。そばで見ている子供達もスキルを身につける。

 

バッファローのウンチと果物の皮で作ったEMとライスハスク。それに少しばかりのバイオチャコール。これを作るのに牛飼いからウンチを買う。買うといってももうけるほどのねだんではない、そのひにたべるぶんだけ。これで肥料を作る。

畑を耕すのに家族で協力する。種まきの時期、収穫の時期には家族で協力する。だから村の子供達は学校を休む。労働力としてではなく、この時間は親について生き方を学ぶ時間とサンドットさんは表現する。

サンドットさんの3歳のむすこくんは歩き始めた頃からいつでもサンドットさんと一緒でした。パパの仕事をしてる側で自分で楽しいことを見つけて遊ぶ。少し大きくなった今は、子ども同士で遊ぶことも増え。こゆやだいちゃんとのじかんもたのしむ。

彼はいつも目の前の状況を相手の気持ちを踏まえて考える。譲れない時もある、けれども自分の気持ちと相手の気持ちをその都度じっくり考える。

我慢ではなく、自分が満たされた上での優しさ、待てる力はとても豊かな優しさとなる。

彼はいつでも穏やかに考える。気持ちのせいりがつかなくていつまでも泣いていることがない。たった3歳で気持ちを自分で整理でき、おとなをまてることに驚くけど、寄り添うってそういうことなんだよね。

この村の笑顔の大人たちに、やさしいこどもたちにこの村のあり方をかんじさせてもらってる。

 

子どものペースに落として仕事をすること。あとでね、ではなく、この子の今を受け止めること。それが安心感になる。

両親の経験が我が子の経験になる。きょうみになる。その興味に寄り添うことが、彼の人生になる。

 

多くの時間を家族で共有すること。お父さんと共に、お母さんと共に、それ以上の時間を家族一緒にすごすこと。心が満たされるほど、何かに依存しなくていい。甘いものにもコーヒーにも。家族でバランスをとるには、お母さんだけではなしえない。おとうさんだけでもなしえない。2人揃っていたらとってもいい。村で見守れたらもっといい。

 

この村の子どもたちは川で遊ぶ。皮だけではない、村のあちこちをふらりとすると仲間に出会う。そうして一緒に遊び始める。共に暮らす場所だから気持ちがぶつかり喧嘩になっても、また楽しくかかわりあう。子どもの頃から年齢の違うこ、おじいちゃんおばあちゃんと関わりあう。身体に障害を抱えた人とも。だから共に生きるのはふつうのこと。

いろんな人と関わりあう経験はいろんな状況を想像する力を育てる。だから彼らはとてもやさしい。

思春期になっても小さなこと関わりあう経験は、親になるためのきちょうなけいけんになってゆく。

 

そして何かしなければならないことに縛られずに、楽しい時間を思い切り過ごす。

楽しいことを生み出す知恵が生きる知恵になる。

 

この村の家にはマットレスと蚊帳、テレビと冷蔵庫とお皿。幾らかの調理器具。それに服。

本もなければテーブルもない。おもちゃもわずか。兄弟でお下がりを使い合う。服もそう。大人でもお下がりをもらい合うこともある。

ご馳走を食べたいということも多分ないのだろうと思う。

いつも同じようなご飯を飾るわけでもなく、いつも同じプラスティックやたけのお皿で分け合って食べる。

食べる量も幼稚園児くらいだから、バイキングに行く必要もないしね。

カルボナーラみたいな重い味付けを好まないタイのトラディショナルふーどのむら。

旅行に行きたいということもないのだろうと思う。

 

日々の暮らしで時間がすぎてゆく。

そしてひととあうことで遊ぶ。

早めの手作りのお酒の晩酌で会話を楽しみ、日の落ちた8時には寝て、また3時ごろからまちのあかりがともしだす。

 

スマホが入り、情報が入るようになったので少しずつ変わり始めているのかもしれません。

けれどもどんなに少なくてもみんなで食べ物を分け合うという時点で欲はほぼないのだろうと感じています。

 

南の国は食べ物が豊かだから人がのんびりしてるんだよ、と聞いたことがあります。

確かに温かい分、育つのが早い植物があると思います。

けれども一年かけて育ったパイナップルの木からはたった一つのパイナップルしか取れません。

半年から一年かけて育ったバナナの木からも取れるのはたった1バンチ、一つの茎に実った数ふさのバナナだけ。

食べ物がたくさんとれるから、というよりも分け合うから困らないのではないかと感じています。バンコクのはたくさんいた物乞いさんがここにはまったくいない理由もきっと助け合ってるからなのだとおもいます。

 

満たされた大人が子供を育てる。すごく豊かで優しいこの文化を真似したいけど、正直これをそのままわたしの札幌の暮らしに持ち帰るのは難しいとおもっています。

 

先進国が良くないっていうのではなく、その国々にその国の人の持った良さがあって、それいかして多くの人が幸せを感じているのならそれでいいと思います。けれどもたくさんの問題も感じている私は、昔の良さ、もしりたいとおもうのです。

私がここにきているのは日本が良くない、不便がいい、っていうのではなくてね。そう、私は日本でこれほどまでに見習いたい人や場所にいくつか出会うことができたから日本もとってもいいところ。けれども同時に、ここ、タイの村でも私の好きな豊かさに出会えたのでここで感じさせてもらって自分に積み重ねてみているだけなんですよね。国は関係なくて人とそれ生きてゆくのに大事なことはなんだろうって、学ばせてもらっているだけ。

 

こういうことって、本を読んで自分の中で活かすのはとっても難しいことだと思うのです。

暮らしの中で自分の中に積み重ねてたくさん感じて、自分で動いてみて、自分がどうしてゆきたいのかがさだまってくるとおもうのです。

 

自分のペースで、子どもの頃自分がどんな環境で生きていけたら幸せだったかを今考えています。

いろんな時代があって今がある。

いいところを寄せ集めることってできないのかな。

 

息子の通う学校で授業をしてます。

旦那さんは日本語の。言葉も通じ合わない同士ですがこれもわるくない。

子どもに教わることで同じステージに立てるから。

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塩の上に色を乗せてアートの授業。
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みんなの分を準備していなくても自分の番を待ってそれぞれのペースで進んで行きます。
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犬と遊んでのんびりまってます。待つのが得意な子どもたち。
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授業がおわって火おこしして持ってきたマシュマロを焼きました。

こういうのって結構盛り上がって交流にはもってこい。

全員満足するだけの量はなかったけど分け合います。

これって積み重ねなんですね。

私は閉鎖的な核家族でそだったぶん、自分のことを考えてたし、おやも我が子を優先しがちだった。この子たちは村で育ってるから、学校に来てるみんなのことをかんがえあう。大人もそうなのでしょうね、自分の子が、ではなく、みんなのこ。我先に大きいのを選ぶこともありません。
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