日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

矛盾のない生き方をしたいな。

先日友人家族がうちに来てくれました。その時に聞いたこと。

 

ある時、母子でお買い物に行ったら子ども同士トラブルがあったそうな。そうして友人の子が相手の子に噛み付いてしまったとのこと。

 

その背景は聞いただけなのでわからないけれど一つだけ、あれっとおもいました。

 

噛み付かれた子のお母さんが言ったらしい言葉。泣いてる子供をみて取り乱したのでしょう。

謝る母である友人に、噛み付いた子にも謝るように求めたらしいのです。そして

「ちゃんと謝ってください。謝らないとこの子の気が収まりません!」と言ったそうな。

 

この子の気持ちがおさまらない訳ではないと思います。「私の気が収まりません!」という表現の方が当てはまるのかなっておもいます。

 

子どもたちの気持ちになってみたらもしかしたら噛まれた方にも何かあったのかもしれません。だとしたら、その子は謝ることを求めていなかったことも考えられるのです。

 

友人の子は3歳。3歳にもなればかなりのことを考えていると思うのです。相手のお子さんが小さかったとしても、お母さんが付いていればその経過の中必要な声かけはできます。

 

そしてね、子どもは小さくても本当にいろんなことを考えて感じていると思うのです。私が具合の悪い時、子どもはいくら小さくてもなんとなく状況を察してくれているとかんじてきました。だからきっと丁寧に見守って来ていれば、小さな子どももその状況に合わせた動きをしてくれています。

 

娘が3歳にちかかった頃、私は上の子にかなり怒った時がありました。いや、その頃はよく怒っていたのだと思います。その時に娘がとった行動に私ははっとし、今でもいつも心にその時のことを携えています。

 

怒鳴っている母の前で泣いている大ちゃんを見てコユは言いました。「だいちゃん、コユがいるからだいじょうぶだよ。」そういい、大ちゃんをぎゅーっと抱きしめたのです。

 

そのあと今度は私のそばに来て、「ママ、そんなに怒らなくても大丈夫。コユがいるからね。」そうしてまた私のこともぎゅーっと抱きしめてくれたのです。

 

コユは3歳にもみたない。けれども私たち双方の気持ちを感じ考え、自分が一番だという方法を取っている。

 

そう考えるとこれは三歳になるからできる、ということではないと思うのです。今までこういう思いをたくさん積み重ねてきて行動になっていった、そういうことなんじゃないかって想像したのです。

 

私に取っての大きな学びでした。大ちゃんが幼い頃、私はいろんなことを口うるさく言ってきました。でもそれは、大ちゃんが自分で感じて考える。そういう機会を奪って来たのだって思うのです。

 

母は、我が子の命を命がけで守りたいくらい愛しい存在に感じています。けれども、それ故に、自分と同化するかのように、自分の感覚で、物を言ってしまう傾向があると感じています。

 

寒い日にTシャツ一枚ででかけた熱を出したとて、そうなれば自分で着るようになるでしょう。下り坂を走って降りたとて転げて経験すれば、走り方を変えるでしょう。もちろん注意を促す意味での声かけは必要な時もあると思うのです。

 

けれども毎日同じことをいっても、無駄だし、それをもってやめてしまったら彼らは違うことをして大怪我をするかもしれないしさせてしまうかもしれない。

 

「想像力がつかなくなる。」のだと思うのです。

 

我が子は自分じゃない。今日は寒い、のも、これをしたら怪我をするのも、母である私自身が怖いからなだけということが多いと気づいたのです。それよりも彼らが自分の尺度でできることを判断する経験を奪ってしまう、そのことの方がもんだいではないかと。

 

それから私は考えます。

 

こどもがこれをしてみたいといったとき。欲しいと言った時。

私が言った時に帰って来た言葉が、正論かもしれないと感じてるのにイラっとして引けない時。

それ、やめてよ!って思った時。

 

自分の器が狭いからやめてほしい、って思ってることが結構あるんです。私が人の目を気にしているからそうなってしまうということが。もちろん私自身に今は負担になりすぎることを、黙ってみてはいられないので、今の私はこうだからやめてほしい。お願いできる?ということも沢山あります。

 

 

けれども彼らの世界や直感を奪ってしまうのはあまりにもったいないことだと気付いてしまったのです。

 

今のこの判断は、私だけの感覚ではないだろうか?

 

私はさいきんいつもこの感覚を、心においています。

 

子どもと接する時、旦那さんと接する時。他人様と話す時。特に家族内での関係は甘えもおおくてつい、自分の感覚になりがちなことに気づきます。

 

人の生き方を邪魔しない。

そして先ほどのお母さんの言葉から感じさせてもらったこと。私の言葉は我が子の言葉ではない。だから、我が子の友人への関わり方も、余計なことをしてはいけないなって。

 

今気づいたけれどそれは、他の人から言われたときもそうですね。私は自分の生き方を邪魔されることもない。そしてその人の言葉はその人の常識であり、それで自分を判断する必要もない。きっと、そう。

 

もっと自分とも、家族とも丁寧に接していく必要があるなって思っています。

 

来月からタイにいきます。人の目を気にせずにいられるこの村での時間、私はたくさんのことを感じて来ます。そうして自分の内側から動ける人に変わっていきたい。それがそこに、3ヶ月もいる意味。

 

思いやりや優しさは評価されるものではない。自分から生まれるからこそ、どんな状況であれ、じぶんがのぞむように動くことができる。マナーや常識ではなく、心地よくなるからそうする、という自然発生的な優しさこそが強さでもあるんじゃないかって感じています。

 

自分にも優しくなろう。それは自分の行為と心が矛盾しないということ。

 

今までのじぶんに、

ごめんね。

許してね。

ありがとう。

愛してるよ。

そして今の自分も変わらずに、愛しているよ。

 

自分自身と、私と関係を気づいてくださってる方々に心から感謝をして。

 

子どもたちのリクエストでネックウォーマー。

型紙。アンの木さん。

布。SMILEさん。