久々に持病にやられた日。
わたしは持病があるのだけど、長いおつきあいになりそうで、時折やってくるだるさがつらい。
昨日久々にめげつつも、こんな時は休むしかないと、かじをぜんぶほうりなげ、布団に入った。
息子に一言、夕飯と妹のことを頼む、とだけつげて。。
しばらくして目が覚めたら圧力鍋の音とうちの中で野球をやってるかなりうるさい音がしてびびった。
けれども、ありがたいこと。
自分でメニューをかんがえ、ご飯作りつつ、遊ぶことも忘れない。
大人の顔色を見てあれこれしなくちゃいけないと過ごしてきた自分とは違うなあとつくづくかんじるとき。
そうしてあ、湯たんぽ作っておいたから❤️、と渡してくれる彼氏みたいな息子。配慮のできる男子。
んで、そんな息子はこんな状況でほしいも作りたい、と思い立ったようで、今度は芋をむしだし、干し芋まで作り始めた。ますますビビったけど楽しそうだし、ともう一眠り。
おきたら、頭の上でネットに入った芋が揺れていた。
あの、ストーブの上じゃないと干されないよ。。
そう言おうと思って横を見たら、食後のデザート❤️とやらで、子ら2人できゃーきゃー言いながら、チコリコーヒーと干し芋をトレーに乗せてお茶してた。
わたしなしでここまで生活含めて楽しめるとは。れべるたかいわー。。それにしてもああ、わたしが余計なこと言わないように、具合悪いんだろうか。。
そう思いながら起き上がると、大ちゃんに言われる。
「ねえ、さっこ。ふんどしパンツ、みえてる❤️。なんでみせてるのー??」
「……………みせてない。」
そうしてトイレから帰ってきたら、こゆはふんどしパンツいっちょで、大ちゃんはトランクスで相撲取ってた。あの、今夜はさむいんですけど。
面白すぎるんだけど、展開早すぎてついていけない、笑。
久々の猛烈なだるさに、希望を一瞬失いかけた。
もし仕事にでる必要ができたら、農家さんの手伝いがいいのに、こんなんじゃなんもできない。いってみたいとこもある。
みんな身体が資本だからなんもできないじゃあないか。
生活を変えていき、積み重ねて行けば体は変わって行く。
それをこの数年で経験したけど、辛い時はダメだねー、と自分の思考パターンをかんじる。
こういう時はただ寝るに限る。
食事を変えること、思考を変えて行くこと、疲れたと思った時は寝ること、好きなことをして、自分で気持ちをみたしていくこと。
できる限りの事をして今を積み重ねてる。
だからどんな形であれ、変わって行くことを知ってる。
習慣を変えていくって、希望だっておもう。
だからだるい時はやすむ。
昔は歯を食いしばって休まなかったからこうなってしまったんじゃないかと想像してるので、身体からのメッセージを受け取ることを今は意識してる。
休んでる間に身体は回復力を発揮してくれてるのだと思うから。休んだ分だけ。新たな力が生まれて行くことを希望にしてひびをつみかさねてます。
でも、こんなに身体がだるくても大方、ミシンは踏みたいと思う時がおおい。
こんな体でも自分がしたいことがあり、好きなことがある。
昨日それにふと気付いて嬉しくなった。
今年の札幌の紅葉は例年にないくらい美しい。
けれども色んな場所で自然災害が多い年になった。関東での水害も。10年前まで住んでいた関東。その頃には怒らなかったことがたくさん起こるようになったように感じてます。
温暖化の影響なのだろうか。こうしてとうとう日常にまでおよんできたのかな。
不安の中で暮らされている方を思うと心がいたみます。わたしも不安の中で暮らさざるを得ない日を経験しました。原発事故の怒った震災の時に経験した恐怖。去年の北海道の地震。不安は本当に辛いから。
私たちはこれからどう暮らしていけばいいのだろう。
できることをしながら、それをずっと考えています。
ポシェットとお財布ポーチを作りました。
顔のついたものをみるとほっこり笑顔になります。
母として自分を育てること。
私はいつの頃から子育て、って言葉を使わなくなった。
子どもを育ててるんじゃなくて、自分が育ててもらってる。
働きに出るのをやめて、子どもとの時間に没頭した10年。
子どもを育てたんじゃなくて、自分を育ててた。我が子や旦那さん、周りにいてくれる方々にも育ててもらいながらね。
子どもの頃から消えちゃいたいと思いながら生きてきた学生時代。
いつも寂しくて悲しかった思いがどこから来るのか考える余裕もなく、就職して自分を楽しむことができなくなってると知った。
いつも人の目を気にして、周りを怒らせないよう最大限気を使って、周りに合わせて笑って愚痴を言って。じぶんのきもちがわからないこともきずかなかったな。
誰かに怒られると悲しい気持ちで自分を責めた。
なんで私はこうなんだろうって。
自分は自分、って気持ちがなかったから何をしても不安で楽しめなかったんだと今は思う。あの頃とは150度は変わったろうな。
いまはおもう。全ては自分の責任。でも今のベストを尽くしてそうなったことなのだから、反省することはあるけれども、自分を責めることではなく、この経験をどうこれからにつなげていくか、そこに気持ちを使う。
そして、日々素直に。間違えたら謝るしかないから。未熟さにより怒ることも受け入れていく覚悟をもつしかないというか。
自分に誠意、それを持って日々を楽しみたいなと考えてる。
このままじゃダメだ。
母にさせてもらった私に入ったスイッチ。
ああ、だから私は働かないことにこだわってたのね、と。
家族で過ごすことに決めたのね、と。
そんな思いがうまいこと言葉にならないけどかきたくなったので記録に。
さてさてただいまタイに向けて準備中。
今年は本でも持っていこうかな。
ふとそんな気になった。
自分の思考がくるくる回ってちょっと抜け出したい気持ちになってきたから、その背中を押してくれることばがほしいな、と。
昨日の夜、ふと子どもたちの行為できになることがあった。
大ちゃんは不安が強い人。その不安はどこからくるのかなあって考えながら、もういい加減にしてよ、ではなくまってきたつもり。
でも、この不安を抜け出せたら、もう少しできることが増えて楽しくなるんじゃないかな、と。
ひさびさにここで、ちょっぴり背中を押してみようかな、とおもった。
こゆもきをつかうひと。人の中に入る時、人との距離感を見ながらとても時間をかけて距離を縮めたり、ここではないか、と決めたりする。
そんなこゆが昨日、大ちゃんとの喧嘩の最中に、私への気遣いをみせた。
そして自分の寂しさをちょっぴり口にしてくれた。
2人して自分がいちばんあいされたいおもいをかんじて、どうしたらいいんだーって呟いて朝になってた。
そうしておもう。
私自身が満たされなかった思いはなんだったのだろう。
この人たちの不安は私が押し付けてしまっている何か、なのかもしれない。
私が両親に向けられなかった思いを考えて見ることにした。
いつ出るかわからないその答えを模索し始めた。
いま、自分はどうしたいのだろう。
自分に対しても家族に対しても。
そんなさなか、内田也哉子さんの書いた本を見つけた。
「9月1日 母からのバトン」
樹木希林さんがなくなる2週間前に、不登校になり自殺をして行く子どもたちに対して、死なないで、と呟き続けていたことからそのことと向き合い、一冊の本に込めたメッセージを書いた本。
小さな頃から自分なんて消えてしまいたいとおもってきた昔の自分と向き合うヒントがあるかもしれないとおもって。
自分なんてと思ってきたことを受け入れてそれでも自分として生きて行くこと、に納得できた今。
けれども、母から認められなかったことで、時々押し寄せる不安がある。
自分の考えを受け入れてくれなかった母に、「お母さんはそれはダメだと思う」、という言葉に、「でも、、、、」と答えるととりみだされることが怖かった。
母の暴言がまた数時間も降ってくるのか、とたえられなくてしまい込んだ自分らしさ。
自分の考えたことが、じぶんにとってすじがとおってるのかいなか、わからなくなりかけて、整理することをいまでも続けてる。
これを超えて今もう一度成長させてもらっており、それを家族が受け入れてくれていて、なんももんだいないのにね。
昔、自分の時間を経験できなかったから、いま、経験不足によりどうしていいかわからなくてくるしんでるんじゃない。もう、わたしのこどものころをかえしてよ、って怒りたくなるとき。
自分が普通じゃないんじゃないかって思ってきた気持ちを受け入れたけれども、これまた時々不安となってやってくる。
今を受け入れられるようになりつつある自分。日々を自分のペースで楽しめるようになった自分。
けれども超えなければならない自分の過去がこうして時折おとづれる。
この内田也哉子さんの本をひらいて、ふと、あの頃の不安だらけだった自分の気持ちをちゃんと思い出して、はっきりとそんな自分を自分の中に刻んで、それでもいまの私は大丈夫、と思えるように整理してみようと読んで見ることにした。
我が子たちがくれた自分を超えて行く試練とかくご。
自分がどう生きて生きたいのか、こうして一つずつ思考を変え、行動を変えて行くことで強く優しくなれるはずだ。
なりたい母親に少し近づけるかもしれない。
ここをこえればまた自分を受け入れられる力が大きくなる。
そしてそれは家族との時間にも反映されて、もっといきやすくなるはずだと、私は思ってる。
子どもの人生を邪魔するおやにはなりたくない。
その思いがくれた、自分が変わって行くということ。
そして今はもう一つ思う。
自分がしたいように生きて生きたいということ。
そのためには、私の場合は、親に刻まれてしまったあなたは私と同じ、ダメな人間で幸せになれるはずがない、という深いところにある思い込みを外していかないとならない。
母は母であり、父は父である。そして私は私だ。母と同じダメな人間でもなければ、この人生を生きるのは、ははじゃない。幸せになれない、なんて誰にも決められない。
浅い部分は数年かけてこえてきた。だからこうして不安になったり、家族との関係で今は自分にはすべがなくどうしようもないじゃんっておもっても、
「今は、仕方ないよね、こうして経験積んで行くしかないから、もう少しまつかー。どうしようもないから、もうジタバタ答えを探すより、目の前を淡々とこなして行くうちに、なにかみつかるよね。」
って、自分を責めるわけじゃなく、なにもせずに待てるようになってた。
それは私にとって嬉しい自分の変化だったから、これを希望にまたこえていかねばばらないことをむかえてる。
大ちゃんとくらして10年経ってきづいたこと。
子どもたちを自分で育てたい、とうちにいることを選んで育ったのは自分だった。
変わったのは自分だった。
この子のために、そう始めたことがいつしか、この子たちのために、となり、旦那さんのために、となり、自分が生きやすくなるために、ってなった。
子どもたちが喧嘩ばかりしてる時期がきたとき、旦那さんがイライラしてる時期がきたとき、その2、3日はもう、なんで喧嘩ばっかりするわけ?、イライラをぶつけるわけ!?って悶々としてるけど、その後いつもおもう。
私の問題だ、と。私はこの子たちの気持ちをそのまま受け入れられてる?自分が親にされたようにしてるんじゃない?自分の経験値で、決めつけてない?とか、旦那さんに対しても、ここの配慮がたりなかったかな、とか、彼は今どんな心の状況にいるんだろう?とか、そのいらいらは、私の気持ちが子どものことで目一杯のさみしさから来てるのかもしれない、って。
ああ、私の彼らに対する理解の仕方の問題だ、と。
それともうひとつ、自分の昔の気持ちを表してくれてるのかもしれないと。
我が子たちが寂しがりなのは私と同じ。
私が寂しがりなのを引き継いじゃったみたい。
こんなに一緒にいるのに?って思っちゃってたけど、もっと一緒にいたいらしい。
寂しい気持ちを諦めて1人になることを選ぶのではなく、寂しいからもっと、って今のうちに言えるって大事なことだとかんじさせてもらった。長い目で、満たされて行くだろうし、私の中の親に対する寂しさもこの人たちが一緒にいる、ということでうめあわせてくれてるのかもしれない。
そう理解して、自分が満たされなかった思いをみたしてもらってる、彼らが私を好きでいてくれることは、何よりも私の自己肯定感の根を太くしてくれてる。
そして、自分を責めたり否定していても、家族の関係は良くならないことをしり、自分が気持ちよく生きれるように成長していく命がけの覚悟を彼らがくれた。
母であることの覚悟は、自分でもびっくりするくらいつよい。
私と家族でよかった。たのしいもん。
そう言ってくれる彼らの言葉に、また、今を超えて行こうと決まる。
時折萎えるけれどもね、萎えた時もあっていいんだーって思える自分への希望。
我が子にかける時間は自分にかける時間。
パートナーにかける時間は自分にかける時間。こちらはもう大人。私のできないこと、したくないことは別にしなくてもいいのだから。
そうおもえたから、いつでも自分が成長するための時間だと思える。
いい時間を家族で過ごしたい。
それだけのことが私にはとてつもなく大きなことを含んでる。
でも虐待をせずにすみ、自暴自棄にならずにすんで今を迎えてる。パートナーに暴言をはかずにくらしてる。
何があっても、自分はこの先どうなりたいかって、考える習慣がついてるから、今を受け入れることができつつあるし、失敗したら謝ることができる。
家族との関係を丁寧にして行くことは、自分をケアすることになる。
そうして相互作用で、自分が大事にされてる安心感をもらう。
こんなに自分のことを考えて、全ては子どものためではなく自分のためだしね、なんておもってる自分を普通じゃないとおもう。
結局、昔も大人の気持ちばっかり引き受けて普通じゃなかったけど、いまもふつうじゃないんじゃーん、笑笑。
親に満たしてもらえなかった。
そのおもいをずっともってきた。
けども、自分の親もその親に満たしてもらえなかった。だから仕方ないよね。
自分で自分を肯定する、大事にする、そういう感覚を身につけつつある。
今の家族に愛してもらってるし、友人が大事にしてくれてて、そんな自分をおろそかにしたくないと思う。おろそかにしたら、家族にも友人にもおろそかな態度になるから。
消えたいと思って来た思いが嘘のように消え、時折湧いてくるむかしの不安な感情を、どう自分で整理できるかな、と考える段階になったんだよね。
自分を超えて行く、自分を生きていく力ってそういうことなのかもしれない。
学校とかでいう生きる力はお金を稼ぐ力って意味なのかな。
それとは違う、今の自分でどうやって生きていけるか、っていう力。
我が子と過ごした10年間は、私が苦しかった過去から育ち直す10年間でした。
子どもたちのためにかけた時間が実は全て自分のためだった。たくさんの自分を超える覚悟を経験し、強くなったし、受け入れられるようになった。
そして血の繋がりで苦しんで来た私にとって、最大の難関、心地いい家族ってどんななのか、自分なりの答えを見つけつつあります。
今、ようやっと、自分を生きてる感じがする。もっと自分のために、愛のあるコミュニケーションを取れるにんげんになっていきたいとおもう。そうすることが家族を幸せにするのかもしれないと気づいたから。
自分のために時間をかけることの大切さを、家族と友人が教えてくれました。だから私は家族に時間をかけたいと思う。そして余裕ができたら友人にもだけどもう少し時間がかかりそうです。焦らずにそれまで待とうと思います。
かぞくと、ゆうじんに。いつもありがとう。
コクワをとったよ。
でも忙しくしてる間に季節は過ぎ、焼酎にはつけれなかったな。熟しきったコクワで酵素ジュースを少し。らいねんはやりたいなとやんわりおもう。
自然と共にある暮らしは待った無し。
だからできないことはしなくていい、とわりきるしかないんだよね。
ああ、やらなくちゃってスーパー行くたびに漬物コーナーみてあせるひつようもない。
だから、便利じゃない暮らしってけっこういい。余計なことで忙しくしなくていいから。
引きこもってます。
最近ずっと考えてる。
自分の怒りはどこから来るのか。
自分の不安はどこから来るのか。
時間をかけて自分を知り、自分の傾向を感じて行く。
何かがあって落ち込んだ時。
その何かはきっかけに過ぎなくて、原因となるそのことから来てることが他でもあったはずだと遡って行く。
私は自分が怒りの感情になるのがすきじゃない。
怒っていいじゃない、人間だもの。って言われるけど、この感情に引っ張られる時間がもったいなくて好きじゃない。
きっとね、ははがいかりと悲しみのひとだったから。それをみて来た私はそのときのつらさをおもいだす。そして私はもう十分に怒りを経験したから、怒るのではなく、それは自分にとって嫌なことだから、とか、不安になるからそこに立ち止まりたくない、とか、整理して、怒りの中に浸る時間は身近くして手放したいっておもってる。
嫌だ、という感情は大切。
自分にとって大切なことがあるから、嫌だと思うのだから。
でも怒りを引きずる必要はないし、自分の怒りを人にぶつける必要もない。
大方の感情は誰かによって、何かによって引き出されただけで、それを誰かに向ける必要がないことが多いように最近思う。
負の感情をせいりしていきたいとおもう。
自分の問題として、それをどう受け止めるか、それだけのように思う。
どこから来るのか、原因をさぐっていくのもよし、時には逃げてもいいし、横において答えが出るのをまつのもいいし。
家族間では怒りの感情が出やすい。
もちろん喜びもだけど、怒りも容易に出て来る。
そしていつも思う。
自分の問題と家族に伝えたいことを分けて表現しないとね、と。
自分の経験がこうだったからこのほうがいいって自分の経験に引っ張るのも違うし、でも伝えたいことも大事にしたいし。
冷静に伝える。
それならば、相手は冷静にそれがじぶんにとってひつようなのか考えて行ける。
怒ったことのほとんどは自分の問題だなっておもう。
どうしていいのかわからないこともたくさんある。
どうしていいかわからないんだから仕方ないよね。
外に向かって表現したことが無性に空回りしてる気がして、焦ったり、はっとしたり、そんな時間がここんとこずっと続いてる。
んで、外で上手にコミュニケーションとってる人がいいな、っておもったり。人のことを羨んでも答えはないことを知ってるのにね。長いこと持ってたこの思考が、再発し、目の前に止まってるんだな、っておもって、それをその都度自覚するようにしてる。
その先がまだ見えなくてふと最近思った。
ああ、いまはどうもしないほうがいいよな、って。
ここを超える瞬間がまた来るとおもう。
それがいつになるかわからないどうしようもなさもあるけどね。
静かに自分の暮らしをしていくしかないよね。
その答えに落ち着いた。
だからがむしゃらがんばらない。
ここを超えた時には、また一つ、自分の苦しみや悲しみ、不安がどこから来るのか、みえているはずだから。
今年はイマイチ調子が良くない。節目の年だからだね。
食事も変えたし、こうして思考や習慣も変わりつつある。
「御自愛」していこうと思う。
自分と向き合う上で一番大事なのはそれかもしれないね。
何かに邪魔されずに自分にとってなにが心地いいか、いやか、かんじていく。
子どもの時からいつでも、協調性が求められて、がんばることがもとめられてきた。
自分がなにを考えてどんなことが嬉しくて、どんなことが嫌かを味わうよりも、誰かといること、だれかと何かをすることに割いてきた時間が長かった。
だから今更ちょっぴり引きこもり。
引きこもって、充電して、自分でいいんだって自分で納得してまた歩き始める。
その時に向けてちょっとお休みちゅう。
多分、引きこもりってそういう意味があるんじゃないかな。
不登校の話になると、必ず出て来る言葉、引きこもり。
引きこもってても家族と穏やかな関係があればなんも問題ないはずじゃないかなっておもう。
問題になっちゃうのは、自分自身を受け入れてもらえない怒りやもどかしさを、暴力などのこういになって誰かに向けちゃうこと。
家族間で揺るぎない信頼関係をむすべるように、小さな頃から関係を築いていく、つみかさねていく。それだけなんだろうな。
ひきこもるのはだいじなこと。
そういうほんもでてたよね。
じぶんもそうかんじています。
感情が豊かな人間は、小さな頃から適度に引きこもる時間が必要なんだろうな。
我が子たちは自分の時間も、誰かと過ごす時間も好きで、だれかが突然来たときも気持ちの切り替えが早い。変な風に人に気を使って我慢してない。
自分の時間を味わうってきたからそういうことができるのかな。
今更ながら、自分を感じつつ、成長させてもらってます。
成長して行きたいな。
そんな私はただいま引きこもり期。
プチマルシェがあって、移動ポケットを仕立てました。
レッグウオーマーも。
移動ポケット。
布端を有効活用したくて、いい型紙見つけて作った移動ポケット。
トモエ幼稚園のマルシェに出しました。
男の子にもちょっと可愛くていいかなって思って作ったけど、子供が多いので100円くらいじゃないと売れないので次はもう少し違う手立てを考えなくちゃな。
でも女子女子してなくて可愛くて気に入ってるので、来年はどこかマルシェに出せたらいいな。
ということで作りためておこう。
レッグウオーマーも。
最近はオーダーでない限り、ほぼ100パーセントコットン生地を探す。
レッグウオーマー は伸びがあるほうがいいので若干ゴム入りだけどそれでもコットン率が高いところから購入してます。靴下の上にもう一枚あると空気を含んであったかいので、ウールでなくても十分。
こちらは置いてくれる場所があるので今年ように仕込みます。
わたしも昔はTシャツも化繊でも大丈夫だったけど、こないだ久々に化繊のをきたらチクチク痛くて痒くなってきれなかった。
化繊のものを燃やした時に出るガスも好きじゃないから、やっぱり綿やりねん素材がいいな。
森ガール風のストライプ、きょねんしたてすぎてじぶんのぶーむがさりつつあったけどまたつくろうかな。
また雨漏り再発です。
今年は春からノー雨漏りでここまできて予防に先週塗ったばかりなのにこの豪雨でとうとうことしもきた。
多分屋根に雨がたまって上の方の継ぎ目から来たのかも。
かなり想像力を膨らませないと経験ちが低い私たちにはわからない。
またこの秋雨が去ったらぬらなくちゃー。
でもだいぶビビらなくなったな。
どうしようもないことを受け入れる力が自然の中では強くなる。
人間にはどうしようもならないことが多過ぎてね。
そうして育ててもらってます。
ふゆにむけてつくったもの。
パパのシャツとトレーナー。
型紙、パターンレーベルさん
生地、マツケ2さん。
トレーナー。
型紙、マホエアネラ さん。
生地、マツケ2さん。
前に買った生地を寝かせていたので練習にパパ用の服、作りました。
ポッケにはちょっとかわいい子供の生地入れちゃったけどね、グレー好きで気に入ってくれてる。
なんだか外に気持ちが向かないモードなのでチクチク没頭してました。
引きこもりって悪いイメージにとられがちだけど、幼い頃に周りばかり気にし過ぎていたから、自分に帰るというか、自分を知る大事なじかんだとおもいます。
何をもって、どの程度で引きこもりって言うんだろうな。
言葉だけが一人歩きして悪いイメージにされちゃったような気がする。
そんなけいけんからわがやでじっせんしてみていること。
幼い頃に親に自分のために時間をかけてもらう経験を積み重ねたら、いいんじゃないかな、って。自分をちゃんと感じて、知って、日々を積み重ねて行くこと。世間のイメージのような家庭内暴力の引きこもりにはならないとおもうんです。これはきっと親にも受け入れてもらえてない不安からくるもの。
そうじゃなければ引きこもっても、家族とはちゃんと関係が繋げる。それがあれば引きこもりになんの問題があるんだろうなーっておもいます。
自分を感じる時間ってとても大事だから、イライラしたり、気持ちが疲れたりするときはお願いして自分の時間を最近はもらっています。私は嫌なことを嫌って言う経験が少な過ぎたし、自分を感じる時間が少なかったから、今の自分はこうなんだ、でもこんな中でどうして行きたいのか、を一つずつ考えて行く必要がある。
そうしないと不安になってしまって、自分がどう見られるかに気を取られて人と会うのも嫌になるから。
そんな状況真っ只中の私。
ここを超えた分、また生きるのが楽になるはずと信じながら日々を積み重ねて行くしか、ないよね。
積み重ねてる自分をちゃんとハグしたい。自分に与えられた課題だね。
一年半寝かせたお味噌も完成。2年味噌には届かなかったけど、舐めて見たらいつもと同じ配合なのにあまい。
というわけですごく美味しい根菜汁の完成。ようやくお味噌仕込みも10年を過ぎ、落ち着いてきたかな。ただいま我が家には50キロほどのお味噌が寝ています。
調味料にお味噌と塩があればとりあえず生きてける。
寒さと気持ちの疲れで胃が痛い。けれども自分の体の傾向がわかるようになってよかったなー。
ここをまた超えて行くしかないからなー。とりあえず胃をあっためよう。
言葉を使いこなせない中で暮らす経験をして。
言葉を使うって難しいって感じた日。
昨日、始めてあった人と話していたんだけど、自分の言葉にしたことの先に伝えたいことがあったことに気づかず、その人と別れた。
そうしてあとでふっと、その言葉の先に伝えたいことがあったんだって思い出した。
自分にとってはいつもその言葉で浸透してるけど、言葉にして伝えるならもう一言必要だった、ってね。これじゃ、ごかいをまねくよなって。そしてちょっと焦燥とどう思われたかなーって気持ち。
私の話し方の癖で、時々こういうことがある。
その言葉の先に伝えたいことがあるのに、そこまでたどり着かず終わってしまうことが。
言葉にするって難しい。
伝えるって難しい。
そうしてわがこの言葉を思い出す。
喧嘩をした時、どうして喧嘩したのか、どうしてそんな行為になったのか、それについてどう思うのか。いまだに時々、そこまで絡んでしまう。
今でこそ、だいぶ言葉を使ってくれるけど、わかんない、そういう子供達の言葉にハッとしたことがある。
言葉にできないことってたくさんある、って。いろんな感情の流れとか、相手の思いを踏まえた上での自分の気持ちとか。本当にわからないこともあるだろうし、上手く言葉にできなくてわからないっていってることもあるよね。
我が子との時間の中に、たくさんのこういうことがあり、私は言葉で伝えることをまだまだ要求してる部分があり、ハッとする。
きっとさ、こういうことって自分でその場でじっくり味わって、何度もなんども味わってやっと整理できて言葉になってゆくもの。いちいち、大人が自分の期待する答えを言わせるために求めることではないし、何でもかんでも把握しようとするもんじゃない。今の私は、そうおもう。
我が家は年に数ヶ月、タイで過ごす。
アジアが好きなウエスターナーも滞在してるので英語とタイ語のこの世界で過ごすのだけど、私はどちらもあまり話せない。
一年目は緊張してたし、困ったけど、いまはそれでいいと思ってる。
本当に話したい人は、こちらが理解するのも言葉が出るのも、待っていてくれるんだよね。
単語のつなぎ合わせでも一生懸命理解しようとしてくれる。間の取り方、ゼスチャー、目線、仕草。私も全てに感覚を研ぎ澄ます。
それで十分笑えるほどのコミュニケーションが取れるんだよね。
そしてふと、赤ちゃんたちってそうなんじゃないかなっておもう。
気持ちを通じあわせようとする。
相手の気持ちがあることをしり、自分の気持ちを表現し身体でぶつかり知って行く。
たくさんの感覚を研ぎ澄まし、お互いをわかり合うって楽しいなって感じてる。
難しい話ではなく、ここでみんなでご飯を食べて、それが身内じゃないからこそありがとうって伝えたくなって伝えてくれて、太鼓を叩いて踊って、仕事して。お互いの故郷に話は写真を見せながらして。
このやり方で友達100人できないけど、私は丁寧に関われる関係の方が心地いいから、お互いのことを思い会える距離間でお付き合いできるこの関係が好きで。
あまり言葉にできないこの感じも好きなのです。
たぶん人の原点であり、とっても大事な感覚を思い出してる。
余計な情報も入って来ず、ただ日々をのんびりと暮らして、きっと言葉はあれとって、とありがとう、で十分、笑。
言葉でない分、相手を全体で知ろうとおもう。
その人らしさは、その時の言葉ではなく、いつもの振る舞いの中にあふれてくるものだから、ってことを知る時間。
自分が言葉にすることが苦手だからこその気づきだけど、言葉は最低限でいいんだーってここで再確認。
自分にできる以上のことを時々勢い余ってして、ハッとする。
今回もそう。
そして人の目を久々に気にして、自分に改めて語りかける。
気にするならその時の言葉一つではなく、日常に溢れてくる自分の態度や仕草にきをつけて、と。
昔は自分軸がなかったから人にどう思われるかで動いてきて、帳尻あわなくなってたことがおおかった。でも、いつでも、今の自分に誠意。自分に嘘はつかない。優しい自分でいたい、したくないことはしない、間違ったらごめんなさい。
自分に誠意を持っていたら、小さな一つの間違いは小さな一つの間違いに過ぎない。
誰がなんと言おうと、それが自分の全てじゃない。
ならば人の目を気にする必要はない。
大事にしたいのは自分に対する誠意だけだったね、と自分にはなしかけ、昨日の焦燥感を薄めて行く。
言葉が通じない中から学んだことは蜜でも自分らしさを大事にすることでした。
そこにずっといたらいつか話せるようになる。そこにいた分だけ、ことばはついてくる。
だから今、タイで過ごすにはこの程度の言語能力が今の私には十分なのかもしれない。
言葉が使いこなせないことを楽しもうと思う。
そして、日本に帰ると、言葉にすることに対する義務感にスイッチが入りやすいから、自分ができることをしっていこうとおもう。
無理にことばにしない。
あいてに無理に言葉にさせない。
私の短所だと思っていたことが実は長所でもあるのかもしれないな。
みんななんでもできるわけじゃないもんね、人って。
マイペースでいこう。
とうきびとトマトの瓶詰め、作りました。
暮らしの中にたくさんの芸術。うつくしさ。
日々に感謝です。