日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

タイパンツまつり。

夏休み、こどもたちとうみにいたりもしてるけど、山にいる率が高い。

今年はクマが出るから歩いて降りれないしね、リクエストもらってタイパンツとリスパンツ  作りました。

 

丹前下を解くのに数時間。

でもこの和柄がすごくいい。

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リスパンツ  一着目。

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でもこのオチ感がもう一声、だったの。

んで、また数時間かけて丹前下といてつくったのがこれ。

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ドレープが最高に気に入っちゃいまして、思わず、この手ぬぐい生地が買えないかと探していたら、見つけた見つけた反物屋さん。

来年はタイパンツもリスパンツも赤やこん、カツオ模様とかで仕立てて見たいと思いますー。

 

余ったので娘のタイパンツ。

モンペに近いかな。

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ついでにたいでかったきじでサルエル。

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丹前下をほどきながら昔の人の手仕事が丁寧で綺麗だなあって感じさせてもらっています。

つかうひtくぉおもって大事にぬって大事に使って。

わたしもまたたいせつにしたてよう、そうおもいます。

 

ハッピイ ハーベスト!

というわけで収穫のpじき到来です。

 

4月からずっと、育苗のためのタネ落とし、定植、くさとり、まびき、くさとり、直播き、支柱たて、わき芽取り、草取り。

この4ヶ月、絶え間なくすぎて、正直いまだにわたしの仕事のメインは草取り、間引き、わきめとり。

 

しゅうかくまできもちがいかないことばかり。

 

でも今年は育ってくれています。

お天道さんのおかげではじめての菜園にも実りがありました。

ちいさなかぼちゃ。

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山の枝を買って支柱にしたインゲン。

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タイバジルとレモングラス

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ガパオで有名なホーリーバジルも。

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実はこれはガパオをエコ村のみんなに食べて欲しくて、でも、タイバジルが手に入らないから自分で育てて見たのです。

んで、今夜の飲み会はガパオ!!

日本でタイ屋台でもひらけるように、れんしゅうしておこう。

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ジャガイモとササゲの塩煮。

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畑をやってみる、一年目。

お天道さんのおかげでしゅうかくできました。

ただただありがたいことです。

 

 

暮らしの経験から想像できる人になりたいな。

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おともだちにオーダーもらってお仕立てしたサロペットスカート。

一つずつお仕立てしながら思うこと。

 

あとは裾を縫うだけで完成という時になって縫製ミス。

ちょっと触ったら解けて来たので部分的に解いて縫い直す。

おもてにステッチ下糸をリッパーでうらに返し、縫い合わせの位置をこれまた生地がきれないように丁寧に解く。

 

そうして布のずれを直し丁寧にミシンをかけ、カーブにハサミを入れ、おもてに返しアイロンをかけてからステッチをかける。

こう行った補修の作業も結構てまがかかる。

そうしておもう。

市場で大量生産されてる子ども服も失敗したらこの作業をやり直すのだろうなあ。

そうしてできても同じ、一枚10円とか。。

 

工場で足元に赤ちゃん転がしながら働いているんだろうか。

そう思うと切なくなる。

 

わたしはお友達からオーダーもらって好きなことを自分の納得行く時間をかけてさせてもらってる。

けれどもこれとは裏腹にこういうはたらきかたをせざるをえないひとがいる。

 

今のわたしはいくらかでも知ってる。

 

服を作り上げることがどれだけ手間のかかることかを。

自分たちと一年分の野菜を得ることはどれだけ大変かを。

だから今の日本で農薬を使わざるを得ない理由を想像できる。

 

できるだけ形もおおきさも、あじもいい野菜を、安く得たい。

そう私たちが願う限り、農家さんは人件費を得ることも厳しいからそうせざるを得ない。

矛盾を分かった上でご家族用の野菜を別で作っているとしてもやむをえないことなのかもしれないとおもう。

 

うちで作ったキャベツにはナメクジがついてることもよくある。

けれどもスーパーでそうであったらきっと売れない。

だから収穫後にも薬をかける。そうでもしないとナメクジがいなくならない。

 

お友達がご近所さんにいただいた野菜を何人かに分けてくれたことがあって、丁寧に洗ってくれた上にナメクジがいるかもしれないから、いやでなければ、という言葉を添えてくれたけど、そりゃそうだ、とわたしはおもう。

 

先日見た昔話で、おらのはたけはこんな野菜しか取れねえだ、と小さなひょろひょろの大根と人参、ゴボウさんを籠に乗せてるシーンがあった。これが現実で。人が思うように大きな野菜をガポガポ取れるもんじゃないんだな、と改めてかんじた。(わたしの中で昔話はこういうことを学べるいい機会になってます)こういうことがあって化学肥料も生まれたんだよね。

 

日本の有機野菜はとても安い。

そんな農家さんの暮らしはとくにゆるくないということをしってるし、今自分が暮らしを変えて見てかんじることがふかくなったとおもう。

 

私たちがそういうことを知った上で買い方を変えていかない限り、農薬大国なのは仕方のないことなきがしていて、それを考えていく時なのだろうな。

 

我が家が農家さんから直接お米を買わせてもらってるのは美味しくて安心できるから、だけではなく、くらしをささえあいたいなっておもうから。直接の関係で、そう思えることの積み重ねがしゅうかんになり、わたしはいろんなものを見て想像できるようになったから。

 

これは作ってくれた農家さんはちゃんと生活できてるだろうか、と。

これって優しさの第一歩だとわたしは思ってる。

 

なので自分で作ってお分けする、そういうことを通して、自分が気づいたことをシェアして、こういったことを一緒に考える仲間が増えていったらいいなと思う。

100均にすぐ走らないとか、今日は買い物をやめようとか、ホテルの裏口やイベント後のペットボトルの山を見て唖然とするけど、ペットボトルは買わないようにする、とか、小さなことが行動になっていったらそれでまずは十分なのだろうな。

 

オーダーもらったネイビーのサロペットスカート。

お嫁に行きました。

直接の関係でお渡しする時には、かみぶくろにいれるのをやめてハギレで袋を作ってそれに入れてお渡ししています。

旅行の下着入れにしたり、お友達に借りた本を持ち歩く時にここに入れて置いたらスレて表紙も汚れないし、何かに使ってもらえたらいいかなと。

小さなことをなるべく一つずつ丁寧に。

なんでもはやく便利に、な世の中だけど、ゆっくり、丁寧に、何かが手元に届くのをまつことも大事だと感じています。

待っててくれてありがとう。

気に入ってもらえますように。

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人間の体の神秘。

先週から札幌にやって来た暑さ。

街の中は30度の夜もあるそうだけど、山ん中は夜中はすずしい。

明け方は肌寒くなるほど。

 

ここ二日ほど旦那さんに時間をもらってすっかり外に出かけて講演会も聞くこともなくなったわたしが唯一でかける勉強会へ。

わたしは母にさせてもらってから、自分の人生をひっくり返すくらいいろんな感情を味わい、経験を味わって来てます。

それをしてくれたのが我が子であり、それに刺激を与え、支えてくれたのがこの園長でした。

 

母との関係を哀しみ、うらみ、子どもの頃から血縁なんてと家族で過ごすことが苦痛でしかなかったわたしに、アドバイスを持って考え方を変えさせるのではなく、根元でそっと囁き、自分で気づけるよういのり、ささえ、希望を与えてくれました。

今のわたしは家族は人生でいちばんの安心できる場所であり、それはどこにいてもこの家族がともにいればその機能を果たすものであることを感じています。

わたしだけではなく、だんなさんにとっても、こどもたちにとってもそうであってほしいと、自分の感性を柔らかくしていこうと思う日々。

 

今では幼稚園にいるときだけではなく、タイに行くとき、いったとき、この山で過ごすとき、全てがそういう思いを持ち続けられるので、クマさんと同居のここでの暮らしですら私たちには穏やかな日々。

家族一人一人が遊牧するかのように、幼稚園、タイの村、山の中、と1日の中で日常的に変わりゆく自分たちの暮らしを、楽しめてることが奇跡であり、ありがたいことだよなあと思う日々。

 

そんなふうに自分の生きる日々を感じられるようになり、今回の勉強会でままんだこと。

 

遺伝子のこと。自分の可能性のこと。

いつでもここで学んでいる、わたしがいる奇跡。我が子と旦那さんがここにいる奇跡。

 

親から愛をもらえなくて、幼い頃から、消えてしまいたい願望の強かったわたしが、誰も恨まず、羨ましがらず、今の自分で楽しめるように変わっていったのは、自分を受け入れられたから。

 

親に受け入れられなかった自分が、支えてもらい、今いただいている愛に気づくことから始まり、自分が生きていていいんだって感情が湧いてきたこと。

 

我が子がここにいる奇跡は、わたしが今ここにいることの奇跡でもある。

この大切な我が子とそばにいてくれる旦那さんとの時間を暖かくしたくてゆっくりゆっくり、自分の感性を開き、柔らかくして行く日常の中で、同時に自分の人生を味わって行く感覚を得て、いまここにいます。

 

わたしなんか生まれて来なきゃよかったのに。

 

そう幼い頃から自分を責めて来た。

母だけでなく、周りの人まで自分をいないものと思っている感が悲しくて、自分までそう、思いつめていたあの頃。

 

でもわたしを愛してくれる人がいたんだってきづいたときのあのなんともいえない感じ。

そこから始まった長い旅で味わった感情はいま、自分がどう生きて生きたいか、どんなことが溢れる人でいたいか、ということをいつでもわたしにささやいてくれるようになっています。

 

日々を大切にしたい。

 

自分の辛かった経験は、命がけで我が子を守りたいという思いから、誰かを愛し、優しくなりたいという思いに変わり、日々の中で生きています。

 

だからわたしにとって人生で起こったことは何一つ無駄のなかったことなのだと。

失敗も無駄も後悔も何もない。

あるのはただ、いつでもみすてないでくれてる子供たちや旦那さん、近しい友人、に感謝しかないなあ、とうこと。

 

今の科学の研究で、遺伝子はスイッチがありいれたり切ったりできるらしいということ、細胞一つ一つに遺伝子があり、それを解析して人の顔を再現できるくらいかがくはすすんでいること、どれくらい身体が奇跡と神秘の塊であることかを感じずにはいられないことをしった。

神秘と奇跡。そんな自分を大切にしない選択肢はもはやないよなあ。

 

わたしは、数年間、子どもたちとこのコミュニティのような幼稚園で日常を過ごし、タイの愛に溢れた村で、生の自然の中で暮らし、いま、アリンコの神秘でもはや虫も殺せない日々を過ごしています。

 

育って来た過去が苦しかったから、過去は変えられないから基礎は変わらない。

だからこの自分の苦しい過去のせいで苦しみながら生きて行くしかないおもい、私たちは幸せになんかなれないのよ、という親の言葉の通りの人生を歩みかけていたけれど、自分の選んだ環境は、わたしの遺伝子まで変え始めてるんじゃないかとあらためてかんじています。

 

極端な自然の中での暮らしが、太古の記憶を持った遺伝子のスイッチをオンにしてくれてるんじゃないかとおもうのです。

今に不安と恐怖と、怒りの中でしか生きてこれなかった自分が、自分が愛の中で暮らしていたことに気づきてから、感謝しかできない日々を過ごしていることの奇跡。

自然の中で暮らしているからこその癒しだと思って来たけど、動物としてのスイッチをオンにしてくれていて、わたしは自然を母に持ってる感覚をいま生えてるんじゃないかと思うのです。

 

自分が変わるのではなく、かわってゆく。

自分の努力だけではなく、変えてくれるものを見つけるわたしの本能がここにわたしをつれてきてくれて、こうしてスイッチが入った。

一年後はもっと癒されているのだろうなと、まだ見えない私を想像できる奇跡。

わたしが今、野生動物の暮らしに興味があるのはそのためだろうな。

想像し得ないくらい厳しいだろうけれど、むれをつくりかぞくを愛する像のように、地球に力をいただきながら生きて行きたいなと。

 

昨日から、自然の中で生きて行くことで、自分の遺伝子はどうなって行くのかなーって想像してます。子どもたちも。

 

今はおおきなアブが多くてたかられてドキドキするけど、これも数日するとスッと引けて行くと人生の先輩は教えてくれました。こうして日々移り変わって行くこの世界。

 

アブをどうにかするのではなく、自分たちが接し方を変えるしかないかー。

 

雨が多くて山の木々の湿度も手伝い、布団までカビにきをつかるひつようがあるくらい湿気に気を気張る日々。

布団は大変だけど毎日干すしかないし、洗濯物のにおいもつくこともあるけどしかなたいよねー、またあらうかーともはやあきらめもついてる。

 

しばらく出なかったネズミの足音で目を覚まし、目が合ってしまって、またでたかー!家の下にアオダイショウが住みつかないかな、とか野良猫に餌付けかな、、、、とか本気でいろいろかんがえたけど、そもそもこんなネズミの出入りできるはずの家に、2度しかかれらとそうぐうしてないのは、きっともう家の下に蛇が出入りしまくっているんだ!!と、きづき、この不安を手放せた。

 

そうであることを受け入れるしか人間にはすべのないことを知り、自分の思うように変える必要のない暮らしは、わたしにとって、生きることを楽にしてくれました。

熊がいることも仕方がないの、だって彼らが住んでいた山だから。

しょっちゅうハサミムシに刺されて痛いなあって思うことも仕方ないよね、きっと。そのうち自分自身に彼らを避ける能力がついて行く。

今年は結局網戸をちゃんと設置できず、蚊が入って来てひーってなってることも。蚊に対して敏感なスイッチが入ってるので意外に刺される量が少ないわたし達。今年はそこまで回す手がないから、違う方法で自衛する。しかたないよねー。

 

子どもたちのちいさないざこざにいらいらしていたけど、近頃日々の子どもたちの優しさに気づける心がさらに開き、多分、どうしようもないことは自分に変えられないことも腑に落ちてるので、どうでもよくなって来てらくになったなー。お互いに言い分と思いがぶつかり、うそつきーっていったり、それにたいして我をはったりしてエスカレートするのが苦手だったけど、きっかけなんてわたしも知らないことがおおくて、どっちも信じるしかありませーん、とか言って、わたしが怒られる、笑。たぶん、思いやタイミングが違うだけで別に本人は嘘ついてないのに、そう思われちゃう場面もたくさんあるだろうし、ちょっと、オーバーにわたしに伝えたら嘘つきって言われてゆづれなくなることもあるだろうし。いろんなことがあるけど、わたしがしているように、いろんな感情を味わえばいいよなあって、おもう。

 

それをわたしができるようになって来たら、我をはり続けてる娘、いつもは最後に大ちゃんに、こゆをきらいになってしまうよ、っていわれて きらいになってもしかたないよ、もういいんだよ、って意地張って後ろを向いてないてたのに、自分の大事にしてたデザートを持ってきてこれ、美味しいから大ちゃんにあげるね、なんて持って来てくれてた。(今日の話)。

30分以上ぶつかって、3分で和解。

 

ああ、受け入れる、ってまつ、ってこういうことかあ、とまたわたしの中に刻み込む経験。

 

経験をし、感情を味わい、変えて行くのではなく変わって行く。

変えて行くのは大変だけど、こうして何かの力を借りて変わって行くこともできる。

そちらの方がわたしには楽で、小さなことがありがたく感じられて嬉しくてそんな方法もいいじゃんーと最近はこちらよりになりつつあります。

ゆっくり経験して、あじわってゆく。

だからスローライフ

 

それにしても山のハサミムシはでかい。

今日もうっかり彼らの通り道に足を投げ出し刺されていたい。。でも一年後にはその感覚器もオンになって刺されにくくなってるんだろうなー。

 

楽しいことは一つでも多いほうがいい。そう思うからうちにいても外にいてもそんな時間を一緒に積み重ねる。

帰省ついでにラベンダーを見に。

 

いつも家族でいるんでしょう?そう聞かれるけど結構パパとはバラバラなこともある。

今しているお仕事を丁寧にしたいという彼の気持ちに共感できるので彼の時間を作っている間、私たちはこうして時間を過ごす。月一の家族会議で彼が仕事を大切にしたいことを聞いているのでそこにわたしは気持ちを寄せる。それと同時に、春からこゆがいろんな心の葛藤を抱えているので寄り添いたいというわたしの思いに、パパもこゆのことを見て共有してくれたのでパパが思いを寄せてくれる。子どもとじっくり過ごすことが得意でない彼もときおりいっしょにトモエ幼稚園に行ってくれるので、わたしができることはわたしがやるからねーと今日は母子3人でラベンダーをみに。

今、私たちにとって大事なことは何か、を会議で話して来た時間は13年を経て、ますます深みをまし、お互いを大事な存在に思う思いをはっきりとかんじてます。

 

そばにいてくれることがありがたい、そういう関係でいられるよう努力して行こうね。

と話をすると理解し合えること日々がありがたいとおもう。かぞくかんけいはつみかさね、なんですね。

 

ノロッコ号に乗りたい大ちゃんとお花畑がたのしいコユ。

わたしが我が子がどんなに小さくても、楽しいことを一緒にしたいと思って来たのは楽しかったことを覚えていて欲しいのではなく、楽しいなあってワクワク感や幸せ感をその時々で味わって欲しいから。どんなに小さくてもその内容ではなく、味わった感情は身体の中でずっと生き続けていると思うのです。

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小さいから忘れちゃうねーってよくおばあちゃんはいうけど、忘れていいの。ただ一緒に楽しかったこのかんかくはずっと忘れない。

だから楽しいことはたくさんあった方がいい。

いつか離れても、ああ、なんだかよかったなあって思ってもらえる時間を積み重ねて生きたいなあって今もずっと思っています。

そんな一コマ。

 

 

 

 

 

 

 

 

大量生産品も手作りも、きっと、手間は同じ。

良いやっときた札幌の超短い夏。

30度を超える暑さをわずかな夏だーと名残惜しみます。

 オーダーもらったお洋服をチクチクしながら、自分の夢に近づいてる喜びを味わいつつ。

 

サロペットスカート、二人のお友達に声をかけてもらって、色違いでおし立て中。

わたしは黒だったけどお友達のはネイビー、パープルです。

ピンク系も可愛い。

イメージトレーニングも兼ねて自分用にもう一枚仕立てようかと検討中。

 

いつもおし立てしながら思うことがある。

世界には私たちの大量生産品のために働いている人がいるんだろうか、と。

赤ちゃんを足元に転がしながら、その日暮らすわずかなお金を得るために一日中薄暗い倉庫で働き続けるのだろうか、と。

 

時々、縫製ミスにぶち当たる。

生地を切らないように丁寧に糸を解いて、布を合わせ治し、おもてうらとはりがづれないように気をつけながらチクチクぬい、カーブであったならハサミを入れ、表に返し、ステッチを入れ、アイロンをかける。

その作業をたった一枚10円の子供服のために行う。

 

自分の納得のいくお値段でどなたかの手に渡るなら、それも思いを込めて行う。

けど、切なすぎるとわたしは感じてます。

とてつもなく、大変な作業だから。

市場を出回るやすい商品の中に手間のかかるものが沢山ある。

きっと100均の竹かごもそう。

 

お野菜もそう。

今のわたしはスーパーのお野菜が農薬漬けであるのは必要があったからだってかんじています。

自分ちの一年分のお野菜ですら作れないわたしは一年分のお野菜をうることの難しさの想像がいきらかつく。

普通に農家さんをするなら、一つ100円の大根ではのうやくなしでは暮らしが成り立たない。

毎日温度管理をしながらタネを落とし芽吹かせて、栄養のある土を混ぜて大地に定植し、雑草を抜く。追肥をし、水をやり、おおきくなれば支柱を立てて、受粉を手伝い、収穫をする。

この中に何度かの農薬をまいて、一つ100円のお野菜で家族いちねんくらしていくおかねをうるための量をそだてる。

 

農薬と化成肥料は私たちがそういう背景を想像できないことから、使われてるのだろうと思ってます。農薬や化学肥料を抑えた分、かなりの人件費が必要で、野菜の値段はぐんと上がる。

日本のオーガニック野菜は安すぎるから、そういう農家さんたちはたぶんとてつもないご苦労をされてるのだろうと想像しています。

でも、自分が食べれるものを作りたいとか、ご自身のポリシーで頑張ってくださってる。

我が家も自然栽培に近いことをしたいけど、現実、まだまだできません。

今は畑だけにすべてのエネルギーをつぎ込むことはできないから。

ちょっぴり高く感じることあると思うけど、その背景にはそのお値段以上の、ご苦労があるのだろうと今は想像できます。

 

お洋服を仕立てることもとっても似てる。

わたしはこれが大好きなことです。

そんなわたしにお洋服を作る時間を切れる友人たち。

わたしは自分で丁寧におしたてできるような手間賃を頂くようになりました。

何かに自分の人生の時間をかける、ということを丁寧に扱いたいと思うようになったのです。

そうしないと、受け取ってもらったお友達に喜んでもらえることが想像できない。

それを支えてくれる友人にかんしゃをしながら、それとは対極にある、安賃金で働かざるを得ない人をおもい、切なくなります。

 

野菜を作ることも、なにかものを作ることも、実はとても手間がかかること。

タイの村で、草を編んで屋根を作ること、竹を森から切り出して家の壁を作ることもそうでした。ご飯を作ることもそう。毎日みんなで集めたまきで三食のご飯をまきでつくる。雨の日は湿気った枝を使いこなし、火の神様に祈りながら火がつくのをまつ。そうして畑で時間をかけて育った野菜を収穫してから作る。冷蔵庫の野菜で作るのは手間がないけど、まだひのあけかけたうすぐらい畑から採ってくるのは手間がかなりかかるのです。

 

私たちは好きでそれをしています。だから正直大変な時もあるけど、それも自分たちの選んだ道。

けれども、わたしがふと思うのは、生きていくことにはとても手間がかかるんだということを、暮らしを通して知る、ってとても大切なことなんじゃないかということ。

 

生きるために、暮らすために必要なことの中に、とても手間がかかることがたくさんあることを知ってる。

 

このことでわたしはいろんなことを想像するようになりました。

今、わたしが手にしているものがここまでくるのにどんな道を辿り、どんな人の手に渡ってきたのかということを。

何より、わたしが暮らせてることのありがたさがいつでも自然に湧いてくるようになった。

目の前の人に感謝をし、旦那さんに感謝をし、子どもたちに感謝をする。

 

今のわたしはウジ虫はまだ嫌いだけど、アリンコはうちにいてもつまんで窓の外にポイする程度になりました。彼らのすごい役割を知ってしまったから。

彼らはお掃除屋であり分解者。先日彼らは夏場なのに1日放置してしまった生ゴミに湧いたうじむしを食べるために巣に運んでいたんですよね。

うちの中に転がってた時はびびったけど、自分より大きなウジを数匹でかみよわらせ、運んで行く。ウジ虫だって立派な分解者だからわるいけど、わたしの心はアリンコの偉業に心を奪われた。彼らが片付けてくれるものの多さに驚いた。

だからわたしはアリンコにも感謝をしています。

 

今多すぎて困ってるブヨにも何かきっと意味がある。

今の時期を過ぎるとさっといなくなるらしいから。

私たちは彼らにたかられないように、避けて暮らせばいいだけだとおもう。

 

自然に優しく、とか、自然を大切に、とかもうどうでもよくて、自然界にはただただ敬意しか無くなった自分の気づきが面白いなあと思って記録しています。

そう思うから自然界にできるだけ敬意を持って自分が存在していたいと思うのです。

 

自分たちの暮らしが変わってるなあとますます思う今日この頃。

わたしにとってのパーマカルチャー。

それはいい、悪い、の情報に左右されずに、自分が敬意をもって何かに接し、決めて行くいきかた。

人にも自然にも敬意をもって。

もちろん自分にも。

 

 

 

自然の中で暮らす感覚。

暖かくなってきたとはいえ、札幌の山は朝型とっても冷え込んでます。

今週末から暖かくなるそうですが毛布の必要のない日はきっと2週間から3週間ほどでしょう。

8月10日を過ぎると肌寒い日が増えてきますから、暮れゆく夏だなあと既に思っており、ピッチを上げて暮らしを整えねばなりません。

 

断熱入れて、ネズミが入らないようにして、薪を準備して、あきふゆやさいを植える準備をして。

でもそれに追われておると、子どもたちとの時間を楽しむ余裕がなくなっちゃうから、バランスも必要です。これが難しい。いつもちょっとまってね、ってなっちゃうのです。

そんな中で少しでも出来た時間を子どもたちは楽しんでくれてるので、ありがたいなあとかんしゃもしています。

 

ここで暮らしてもう少しで一年。

薄い壁一枚の小さな箱での暮らしは私たちを山で暮らしている感覚に近づけてくれました。

熊や鹿、虫や木々と近いくらし。

ミヤマクワガタコクワガタもスジクワガタもお隣に住んでいて、今時期は毎日そこらへんに落ちてて拾ってきます。子どもたちと庭で遊んでる夕方、足元を歩いている大きなミヤマ、あさ、はたけで雑草を取ってたら鹿よけネットに引っかかってたコクワ、畑の雑草を一つずつ取ってたらその中に紛れてたスジクワガタ。

かってみたいの、と大きな段ボールに突っ込んで集めてるのですが、脱走して布団の中でわたしの足に引っかかって捕獲される、、、、という適当な飼い方のおかげか2週間経っても毎日段ボールからガサゴソ聞こえるくらい元気でちょっとびっくりしてます。。

 

暖かい昼間、アオダイショウもよくかおだしますが、あおくんいるよーと声かけると子どもたちが、あみもってかけてきて、捕まえてひとしきり遊んでまたきてねーともといたばしょにはなします。

 

そんなあきることのないにちじょう。

 

色々感じさせてもらうここでの暮らし。

山にいるハサミムシのおおきいこと。

挟まれても痛くないけどハサミムシって、あのとがったお尻で突かれると痛いんだよね。いつの間にやら身体を歩いていて何度も刺されたことがあります。

カマドーマもアリンコもクモもうちの中でいつも見かけるのでもう、見てもスルーするようになりました。あんなに大騒ぎしていたアパート暮らしの頃が嘘のように、彼らの方がもともとここにいた存在である感覚がおおきくて。

虫を避けようにも避けられないよね、ってげんじつをまのあたりにしています。

そして彼らがいてくれるから自分たちの生ゴミや排泄物が消えてゆくということも。

 

石鹸は使いません。なるべく彼らを殺してしまわないものや真水を使います。

けれども人間が生み出したものは基本的には微生物のレベルまで行くと生態系を変えて行くものだということは自覚せざるを得ない。

 

畑はできることなら自然栽培と呼ばれているものに近いことをしたいと思っています。

けれども小さな頃から野菜をスーパーでしか買ったことないわたしには、普通の家庭菜園ですらゆるくないのです。雑草抜く作業も含め、野菜一つ一つの成長に合わせて育て方を調べるにも時間がかかります。

自然栽培で野菜を取ること、これは野菜を植えて放置しておいてできるものではないから。

畑の様子を観察し、我が子のようにどうしたらこの土地で育ってくれるかてとこころをかけ、野菜が食べれるようなものまで育ってくれる、それは生半可なことではないと痛感しています。

 

慣行栽培がどうしてこうなったのか、理解できるようになりました。

人のうちの野菜まで作るのに、こんな安値で売られていてはそうせざるを得ないとおもいます。人件費が満足に得られれば違うんだろうな。農薬使っても人の分まで作るというのはとても大変な作業。野菜を作る、生きてるものを世話をするってたいへんです。それをリアルに考えて、家族経営で、人の分まで作るための広大な畑、薬でコントロールしなくちゃできないと思います。

 

野菜を作るという感覚のない世の中で育ったわたしたちの世代。

なので私はまず今年は野菜を作ってみる、一年だと考えています。

 

今の私たちは自分たちを守る少しでも暖かい住める箱がないと、まずは生きて行けないから、そちらと子どもたちとの生活を優先しながら、畑をする。

そんなふうに始めた菜園は、わたしには、野菜はどうやって育つのかを観察するのに数年以上時間を要するでしょうし、自然栽培で自分たちの一年分の野菜を賄うようになるためのスキルがつくにはすくなくとも、10年はかかるでしょう。

そしてそれは果たしてこの自然界を壊さないかを考えて行くとさらに複雑になって行くと思うのです。

 

今は野菜を育ててみる、その経験を積んでいます。

自然栽培にこだわってるうちにできないまますぎてゆくとおもうのです。

まずはやってみること。

そばに住む五郎さんご夫婦から教えてもらえることから始めることが現実的なのです。

ほんをよみながややる、ってほうほうもあるけど、本の中から自分の疑問の答えがすぐでてこないことばかりなのです。野菜も一種類ずつ、作り方を見ている時間ははっきり言ってないのです。

 

パーマカルチャー=自給自足=なんでもナチュラルなこと、それは初めから一人でやるのは不可能だと身を以て感じています。

できることなら自然栽培で田んぼもし、きのこもやさいも鶏の餌も作り、お米と物々交換でお肉を得て暮らせたらいいと思う。

でもそのため大人が動く時間を売るには子供達も楽しく過ごせるような日々であるために、この近くにうちの子と暗くなるまで遊ぶ友達か必要で、その子の親ともいい関係をつくれる相性である必要があってそれは募集してできることではない。

 

昔は一日中遊んでたわーって五郎さんが話してくれます。いいなあ、でも今は昔ではないからね。保育所に行けば同世代のこはいるでしょう、けれども、ゆっくりじっくり人と関わることができない場所でもある。小さなうちはゆっくり人と関わることをあじわってほあいいとおもうし、きっと20年にも満たないわずかな家族四人で暮らす時間だから、わたしにはもったいなくてね。

だから作物などの時給をさいゆうせんにはできないのが本音。

 

ここで暮らして熊騒動も経験しながら一番感じていること。

人が生きて行くということはどんなに配慮をしても生態系を変えて行くのだということ。

人は山菜だけ食べて生きて行くわけではないから。

畑を耕し、重機をいれ、添加物の混ざった排泄物をし、プラスチックを使うこともある。

 

こんにゃくは自分ちで作らなければ大方はスーパの袋に入ったのをいただくし、納豆のプラの量は半端無い。これを燃やすのが嫌で、買うのをかなり減らして、うちで作り始めたけど、結構温度管理が難しい。きのこもね、しいたけを作ったけど失敗しちゃったのでたまに買うけれど、これも基本的に袋とパックに入ってる。

 

夫婦だけならストイックにすることもできるかもしれない。

けれども子どもの立場にも寄り添うと、ジャンクフードをさける家だからこそ、袋に入ったポテチも食べてみたいでしょう。

すぐゴミになると大人は思うガチャポンもやってみたいでしょう。

 

やってみたい気持ちを抑え続けることはストレスに変わる。

それじゃあ意味がない。

家族揃って幸せじゃあないよね。

 

わたしの目指すところは、たのしく生きることで自分にも人にも地球にも優しくなれる。心を向けられる余裕のある生き方をしていくことだから。人の生き方を認められるおおらかさを持っていける日常があることだから。

 

パーマカルチャーって自然に優しい暮らし方ってこと。

以前のわたしはそう思っていたけれど今は、ちょっと違う。

何が良い、悪いって争わずに、誰にも優しい生き方をすることだって思っています。

そしてもちろん出来るだけ自然にも優しい生き方をしたい。だから今は自分が生きていくために自然からどれだけの優しさをお借りしているのかをきづけるようにしています。

 

わたしのパーマカルチャーの師匠はそんな人で、学びたいとおもう先輩や友人もそんな人たち。

何が自然なのか、何が自然に優しいのか、、、、、それはこの暮らしをもっと続けていかないと、この便利な中で生きてきたわたしには理解し得ないと思っています。

ほんでまなんだ理論ではわからないことだらけ。

 

パーマカルチャーって、この言葉を作った人のあり方はこの人だけのものであり、私たちもこの言葉をお借りしているけど、今実践している人それぞれが使うパーマカルチャーって言葉はもはやその人その人のオリジナリティなのでしょうね。

 

ということを感じる一年目のここでの暮らし。

考えることより、感じることが多い暮らしです。

 

麹を作るとおやつで大方無くなります。

なんども仕込んでみて、だいぶ菌が回ってくれるようになりました。

子どもたちも麹の匂いで発酵具合を嗅ぎ分けてます。

この時期はぬか漬けも作るのでいつも食べてる玄米を精米して麹と糠に分けて使う。

蒸米布についた剥がれないお米はうるかしてコッコちゃんに。

みんなが喜ぶとこに回って行くのがうれしい。

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出産お祝いに。

旦那の仲良しのいとこさんが出産されたそうでうちにあったものを組み合わせてお祝いにサクッと仕立ててみました。

サルエルパンツとおじさんトレーナー。80センチ。

型紙は以前使ってたsmile さんとマホエアネラ さん。

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おじさんフロッキー、はまってます。

 

ちなみにこちらもプレゼント。

いつもお世話になってる方のお使い物。

120センチのキャミワンピとTシャツ。

こちらも手元にあるのを組み合わせたものいただいた生地とか余った分とかもふくめて。

 

キャミにアイロンがかかりにくくてちょっと苦労したけど、この柄もかわいいね。

娘にくれって言われる。。。。

全部あげたらあなたのタンスはコンテナハウスになりますよ。

でもバーバリーっぽい柄って可愛いよね。

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喜んでくれるかな?

いってらっしゃーい。