日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

子どもに世界は大人の鏡。。

小1の壁、って、ヤフーのニュースを見た。

 

小学校一年生で、学校の授業について行くのもままならないまま、夏休みを迎え、両親は仕事、子供は学童。学童に行くにはお弁当もいる。旦那さんは仕事で忙しく、自分も忙しいのに一人で仕事との両立。子どもが学校から連絡帳を書いてきても何書いてるかわからない内容で、その成長具合にも不安、そのうえ保育園の時は園が働く親に対して全面的に協力してくれ、親が直接縁に聞けばよかったけど、学校に入った途端こどもだよりの連絡の取り合いになるから、母親がよけい不安になる。。夏休みの宿題もたくさんあるからそれに付き合えるかも不安。。ついでにその人の友人に年々、長期休みになると、学童にいきたがらなくなると聞き、それも不安。。

 

、、、という記事を目にした。

この記事を見る限り、母親目線に立った記事だった。

けども、わたしはこの子の行く末を案じて不安になった。。

いや、この話が本当ならば絶句、でした。

 

多分、多分だけど、そもそも、このお子さんは人とこころのコミュニケーションが取れる環境にいたことがあったのだろうか。。

保育園にはいっていたそうだけど、1番の問題はこの子の心の安心が今まで得られてなかったんじゃなかろうか、っていうことなきがします。

このままいくと、夢の持てない人間になり苦しむ生き方になってしまう気がします。。お母さんが自分に不安しか抱えていないとすれば、そう生きて行くしかなくなってしまうというか。自分で自分を認められず、いつも不安で、消えてしまいたいって思いながらこの先の多くの時間を生きてゆくことにならないだろうか。。

 

そもそもそのお母さんの不安は、子育てに対する諸々の心配ではなく、意識の下での我が子の生存危機の不安なんじゃなかろうか、って感じています。

人は動物だから人とコミュニケーションが取れないということは、生存危機の不安に繋がると思います。

 

世の中の動きが、子どもは保育園に、高齢者は老人ホームに、障害者は施設に、って感覚が強いように感じています。

全てではないにしろ、寝たきりになる率の高いのは、先進国の高齢者なのでしょう。寿命が延びたのに、(言い方悪いけど、)ヘルパーさんや便利な暮らしに彼らのやることを奪われてしまい(もちろんたすけてもらってることもたたあるとおもいます!)、身体を壊したことをきっかけに動けなくなって行く。

 

家族で畑をやり、子供を育てていた頃はどうだったのだろうって想像しています。そして実際に聞いたりもしています。

日々やることがたくさんあった頃、タイの村のようにいつまでも暮らしに参加していたそうです。畑や孫のお守り。そうして暮らしの中に高齢者がいるから、高齢者を煙たがるということもなかったのでしょう。今は老人ホーム訪問のようなことを小学校とかでやってるけど高齢の方を手伝うのは日常の行為の一つだったのだと思います。もちろん高齢者の方がいろいろな世代の人と関わることが日常の行為。街の中でおじいちゃんを助けてくれた子どもを見て感動した、ってCMがあったりするけれど、タイの村ではいつだってそうでした。それは素晴らしいことであるけれど、それっていつでも優しさが使えていたってことですよね。それはもっと素晴らしいことなのだろうなって。

障害を持った方も一緒に日常の中にいることで、私たちも自然と彼らのことを理解してフォローすることができているようになってると思うのです。私たち健常者と言われる人も多かれ少なかれ、発達障害的なとこを持ってると思うのです。コミュニケーション苦手だったり人の目を気にしすぎる事もそういったことの中に入ってくるのだと思うのです。だから、得意不得意を共に暮らす地域でフォローし合えたら一番暮らしやすくなるのは自分自身なのだろうと想像しています。障害と言われるような不得意なとこも含めて、その人なりのすごさがあり、お互いに楽しく生きることを学び合っていけるはずなんじゃないかって想像しています。例えば、障害を持ったお子さんが学校のクラスにいること、(いやみんな障害持ってるけどね。)、そのことにより、人の不得意さを責めることの意味のなさを学べる気がします。現行の教育システムじゃ先生に負担多すぎて難しいのかもしれませんが。。

 

勉学よりもまず大事なことってそういう人の優しさとか、気持ち良くくらすにはどうしたらいいだろーってことな気がするなあ。そうしてコミュニケーションを丁寧にして行く世の中があれば小1の壁は無くなる気がします。

 

小1の壁、それは今の世の中の漠然とした不安がこうしてまた一つ、形になったってことだけなんでしょうけれどもね。子どもたちは大人の鏡ですから、彼らの問題ではなく、大人たちの生き方の問題なんだと思います。ふあんなくくらすにはどうしたらいいんだろう、って多くの人が考える必要があることを教えてくれてるんでしょうね。

 

そしてね、子どもがあちこちにいる地域は、子どもの声を騒音とはみなしません。それによって音に神経質なひともへっていくとおもいます。どちらにしろ、便利な世の中になって暮らしにくくなった部分もたくさんあるのでしょうね。

 

便利も不便も、メリット、デメリットはさほど変わんないんだろうとまた思います。言い換えればマイナスに思われがちな、不便ということ、これも楽しむことができるんだと思います。我が家だけかな、笑。

 

いやはやニュースの話になるとうちの大家さんがいつも涙流します。

テレビなんか見ない方がいい。どうしてこんなことばっかり起こるのかと、悲しくなるから。昔はこんなんじゃなかったんだよお。。と。

 

なぜ悲しいニュースばかり流れるのでしょう。

我が家にテレビがなくなって7年目。サスペンスとかも全く見なくなったからたまに旅館にとまって、サスペンスの予告見ると心臓ドキドキして怖くなります。

子どもに推理ドラマも自分が怖くて見せられません。。

表現するのすらためらってしまうけど、事件の現場のシーンで、どうしてそんなことがおこらなきゃならなかったのか、そちらも考えてしまう。

自分が幸せに生きたいのに誰かを傷つけてしまったら幸せからは離れて行くと思うから、それを軸にすると、そうしなくちゃならなかった犯人の気持ちも心が痛いなあっておもってしまってかなしくなってしまう。

 

ふと気づいたことは、こういうことって面白おかしく、楽しむことじゃないんだろうな、ってこと。

 

身の危険を感じこわいって思い感覚って動物だからきっとあるはずで、こういうとこから人の中に日々の不安がつのっていくのかもしれないな、ともかんじています。誰かこういう研究してる人いないのかな。

 

昨日は子どもたちの希望で札幌ジャズフェスタに行ってきました。

わたしは楽器が好きでいくつか持ってるけど、うちの子たちも思った以上に音楽大好きなことをこのところ感じるので、いろんなジャンルに音楽や楽器に触れる機会を増やしたいなって感じて帰ってきました。

 

夏本番の札幌、ステージに立った演奏者さんが気持ちよさそうでした。そのよこでうちの子たちもノリノリ、ジャズもお好きでしたかー。自分が好きなことを一緒に好きってうれしいなー。。

 

 

 

子供達の幼稚園。

こどもたちのかようようちえん。

 

冬にもこんな素敵な遊びをさせてくれます。

スノーペインティング。

素敵なバーが作れそうです。

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絵の具で雪に色をつけます。

なのでここの子たちのスキーウエアはいつもカラフルに染まっています。

楽しい時間を過ごした証。

 

これはお誕生会の一コマ。

スタッフさんがお誕生日の歌を弾きながら娘を膝に乗せてくれてます。

娘の大好きなスタッフさん。

こうしてピアノの椅子の後ろに乗せてもらってそばでピアノを眺めたり。

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素晴らしいなあって思うんです。みんな平等にならないから、一人だけこうして抱っこできない、とかではなく、こうしてね、一人一人との関係を丁寧にきづいて言ってくれる。

彼らの中には、あたたかな大人との関係があってその日々を積み重ねていて。

ここから得られる豊かな心、彼らが大人になる頃には計り知れない大きさになっているだろうと思うのです。

 

ここでね、寄り添う、ということを私は学ばせてもらっています。

そして自分も子どもたち、えんちょう、スタッフさん、ゆうじんかぞくに寄り添ってもらっているのだとつよく感じています。

 

乳幼児期の育ち方が人の一生に関わって行く。

わたしは自分の経験からそれを強く感じています。

母として、できること、大切なことを目の前の小さなことからやっていこうっておもいます。

 

いつでもたいあたりのこどもたちとだから、自分を隠せない。

いつでも本気。自分とも子どもとも。

それがたのしい。色々あってもそれを超えた先が見えてるからそれを超えて行くしかない。

 

今日も楽しもう!

 

 

 

我が子と暮らす時間のなかで。

わたしは人生のどの時期よりも精神的成長のチャンスをもらっています。

だってね、嫌いな自分のまま、子どもと過ごしていたら、彼らに何も残すことはできないと思うんです。自分のことを大切に思える人に育って欲しい、そう思うのに、自分の未熟さにきづかず、自分の短所を短所のままにしていたら、そうなってはもらえないよね、って。

 

だから子どもと暮らしてる時間は自分に嘘をつけない、自分の人生を豊かに変える癖をつけて行くチャンスだと思っています。ありがとう、こどもたちー。

 

自分の両親との関係の悪さも、自分の性格の短所と思って来た部分も、見つめ見つめ見つめ続け、だいぶ整理ができて来ました。そうしてね、最近気づいたこと。わたしには夢がある。

自分なんて、って思って来たわたしだからこその夢が。きっとね、こうしていい時もイマイチな時もいつの自分も受け入れてゆくことが世界平和への小さくて大きな、けれども確実な一歩なのだと思ってます。

 

だからわたしは子育てって言葉を使わない。自分が育ててもらってるから。家族でそれぞれがそうしてお互いを思い合い育って行ってるから。自分育ち法による家族育ち。

 

共に暮らす時間は豊かな時間。だからまずは家族で助け合う。ちなみに家族で助け合う、という極意を我が家はタイの村に行った経験から身につけました。タイの田舎の小さな村にあるはずのコミュニティ。英語すら通じない村に幼子を連れて我が家族四人で向かうという経験は、家族で心を支え合う、ということの重要性をはっきりと教えてくれました。村の人同士で助け合うということは、多分村人同士が家族、なのだと思います。心が思い合ってるのだろうと。それからずっとそれを積み重ねているように思います。

 

私たちを助けてくれる友人家族は、私たちにとって家族、です。例えばゆうじんかぞくのお母さんが具合悪いから手を貸したいなって思う時、思い浮かぶのはお母さんだけではなく、旦那さん、子どもたちのことも。その人の旦那さんがなるべく負担少なく仕事に行けるように、子供達の生活に無理がないように。できることしかできないけれど、わたしにできることを手伝いたいと思う。その人の家族が今日も平和に1日を過ごせるようにと思いながら。

 

さてさてわたしには人生の素敵な先輩がいます。

素敵な60歳 70歳 80歳の先輩方が。

今あるわたしを積み重ねて、素敵なおばあちゃんになりたい、それが今のわたしの夢です。

そしてね、素敵な友人家族がいてくれます。

40代 50代の。

今ある自分を積み重ねて、素敵な40代50代になりたい、それも近くの夢です。

 

最近ふっと思ったことがあります。

両親が辛そうに生きているので、大人になることに楽しみが全くなくて、どんな人間になりたいかなんて考えたこともなかったし、考えさせてくれる人との出会いもなかったと思ってた(きっとあったと思うんですけれどもね、自分が生きているのに必死だったんだとおもうんです。)

 

けれどもね、今はわたしにはこんな人になりたい、って思う夢があります。

こんなふうに思い合える家族になりたい、自分になりたい。

憧れではなくて自分もそうなろうってその方達から学ばせてもらい、自分の生き方に変えてゆくがごとくこうして見たらどうだろう、って経験に変えて行く日々があります。

 

こうなりたい、でもそのために自分はどうしたら良いのだろう。

 

自分のすぐそばで生きている先輩方や友人家族がいてくれることで、わたしはいつもそれを意識し、自分に合う形に変えて試していくことができます。

そうして自分のあり方をいつも見つめてきたこの五年間。

わたしの人生の日々は180度変わりました。

 

その経験から思います。

失敗なんて何一つないのだと。

失敗と思われる経験によって気づいたことはとっても大きくて、そこからの自分の成長を考えたら、それは失敗とはいえないと、そう思っています。その失敗に巻き込んでしまった人に謝ることだって、そう自ら動くことで、じぶんの誠意を自分で感じることができるから。そこで気づいた自分のその未熟さを卒業できるから。

 

もし、そこで誰かが怒ったとしても、それはその誰かがなぜ怒ったのかに思いをはせることができる。そうして自分はそういう時、その人の立場になったならどうしたいかなって考えられる。こういう場面を第三者としてみることがよくあるけれど、大抵わたしは、怒るがわの人にもその人自身が抱えた問題があるのだろうと感じているけれど。いつだって自分は自分に誠意をもってこの行動をとってるかを、一つの失敗から考えるきっかけをもらってると感じています。

 

こうしてたくさんの時間、経験を積み重ね、素敵なフォーティ、フィフティ、おばあちゃんに近づいていきたいと思う今があります。

 

素敵な先輩方の存在もですが、素敵な友人家族の存在がみぢかにあることも大きくて。今のわたしは、いくら幸せそうに見える人も人それぞれ苦しみを抱えていることだってあることを知っているから、憧れる、ことがなくなりました。

素敵だな、とは思う。憧れに近づくのは難しい気がするけど、どうしてそんなに素敵なんだろう、ってことには近づいて行くことができる気がしていて。

家族かんけいをみていると、その人のあり方が少しわかるような気がするのです。家族関係が良い人は家族同士思いあえていて、だから自分も大事にできていて、家族の外にも愛を注いでいる。そういう人は日々を楽しんでる、って法則が見えて来たんですねえ。

 

そういう人は家族内ではあるけど(家族に甘えて、ね笑)、外でむやみやたらに怒ってないんですよね。だから外で声を荒げたり嫌味を言うってことは子どものいじめと同じで、寂しいんだろうなあ。自分を正当化せねばならない苦しさを抱えてるんだろうなあ、そう感じることが多々あります。伝えることと、それに怒りを乗せることは全く違う。自分にも相手にも異なる部分で未熟さがあるのだから、怒らずに伝える必要があると思うんです。相手の未熟さを責めていたら自分の未熟さも責められちゃう。共に成長し合う、それを認め合う優しさが今の世の中足らない気がしてます。自分もまだまだですが。

 

友人、そのだんなさま、こどもたち、と接していると自分がどうしたいかが見えてきます。自分がどんな風に家族とありたいかも見えて来ます。

 

こんな風に深く考えられることが日常になり、自分や目の前にいる人に愛を持とうって意識するようになったのも、素敵な先輩方のおかげで。

 

何をやってもうまくいかないって思わなくなったなあ。。しばらくは落ち込んでる自分でもいいや、って思えるようになったなあ。自分がどうありたいかの軸を持てたから、人に言われたこともファイルに分けられるようになりつつあります。そうして人の目に縛られていた人生から離れつつあります。

 

我が家のホームドクターはあなたが自分の人生を生きられるようにすることがわたしの仕事ですから、って言ってくださいます。

 

その言葉の意味を最近ずっしり感じ、心が震える言葉だなあって思います。お医者様が病気であるわたしはもちろんのこと、そこを超えた部分を見てくれていて、それが人生なのだって教えていただいた(わたしの解釈ですが)気がして。未だ、からだがついていかないひもたくさんあるけど、どう生きようかな、って思うとワクワクします。いつまでいきられるかわからない最後の日まで楽しみたいなと思います。わたしは家族と共に楽しみたいから、今ある家族の姿で無理せず要られるような状況の中で楽しもう、って思います。

 

たくさんの子どもたちが未来に希望を持てるようなうしろすがたでいたいっておもいます。

自分を大切に、自分の未来も大切に、そう思える人が一人でも増えたらもっといきやすいあたたかい世の中になるんだろうなあ。

まずは自分がそういきていこう。

そのための夢。

家族が気づかせてくれてわたしの夢、です。

 

娘2歳。初めてジャングル暮らしをした年でした。にいちゃんの帽子とリュックで遊んでました。ちいさいなあ。

たくましく育ってくれてます。こども旅日記、またまとめようっと。

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子どもは生きることの天才だ!

私にとってのこどもといるじかん。

それは自分の時間の一部。

今だけの共にいる時間を大変な時間、とは思いたくないなあともうから、じぶんがどう、いまをこのひとたちと生きていきたいかいつも考えています。

 

色々あるけれど、子供達がいてくれることで、自分はどうやっていきてゆきたかったかを気づかせてもらっています。

だから色々あるけど、たのしい、につながってゆく。

 

自分の考え方次第だなあって思います。

 

いろんなことをここで整理してるけど、けして暗い気持ちではなくこうして、整理してみると全て学びであり、経験であり、豊かに生きることにすべてのけいけんがつながってる。私の生き方がなぜこうなったのかはわからないけど、これでいいか、って最近、おもってます。

大変、でも忙しくもなく、自分が今この時間を味わってる。いつだってただそれだけで。

 

あなたがいてくれて、共にいまの時間を過ごしてくれて、わたしはうれしいよ、それが子どもたちの心の中にのこって言ってくれたらいいなあって思うから。

何かあると、最後はハグ。何もなくても最後はハグ。

 

あなたがここにいてくれることが嬉しい。

そう思う日々があるから子どもたちに寄り添う日々も結構楽しくやってます。

いや、実はハグして元気をもらってるのは自分だったりします、ハイ。きっとよりそってもらうりつがたかいのも私自身なのだと思います、ハイ。

 

もうじき幼稚園のキャンプ。3泊4日!途中に結婚式をはさむけど、こどもたち泊まる気満々。花火にアフリカンダンス、縁日。こうして日々をマックスに楽しむ子供達、大ちゃんは小学生になっても時分で楽しむことを味わっています。自分で楽しいことを見つけるっていうのも能力の一つだと思います。いつでもどこでもそれを探せたらすごいよね。ねー、つまんないんだけどってうちの人たち、いいません。飽きたって本当にごくまれに言われますけど、自分で楽しみ探せること知ってるのでそっかー。じゃあ、今のその感覚を味わってー、しかいいません。私が探したりしないので、じぶんでまた何かを見つけてあそんで疲れ切って毎日寝るうちの子達。私もおなじようにばたんきゅー。昔、うえのこがさんさいのころ、つまんなーいって言われると一緒に探していたけど、そうじゃなかったんだな、っていま感じています。自分の人生、自分で楽しめるはず。よけいなことしてたなー。

 

でもこうしてそだっていったらどんなじんせいを切り開いて行くんだろうな、って私が勝手にワクワクしています。不安で踏みとどまるより、まず踏み出す子どもたち。経験値、かなり高いと思います。

 

その経験を共にさせてもらいながら、わたしも家族で楽しめる日々をおくらせてもらってることにかんしゃだなー。人生の半分前半から中盤くらいまでを自分を責めながら生きて来たから、これを力に変えて楽しみながらいきていきたいのだ。過去を責めても変わらない、今、育ち直させてもらいながらかわっていく、そうきめたので。せっかくの人生、いききらなくちゃね。

 

ただいま3時。これから子供達と出かけて来ます。大人はこれから電車に乗るのトラッシュにぶつかるなって思うけど、子供達は夕方から出かけるのが楽しいらしい。楽しむ天才だな、笑。この感覚を教えてもらえるのがありがたいし、面白い、と最近思います。この才能ってすごくないですか?私は小さい人からたくさんのことを学んでいます。我が人生の1番の師匠であります。

 

ウコッケイの卵でオムライス。

上が私の、二枚目が娘の、三枚目が息子の、それぞれ自分で作ったオムライス。あり合わせの野菜と昨年作ったトマトソースで簡単にソース作って。

イエイ、ご馳走!

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我が家のシェフ。

今朝は七味唐辛子ならぬ四味唐辛子をつくる大ちゃん。

本当に、本当に好きなんですねえ。

 

昨夜は手打ちうどん

もちろん、大ちゃんシェフの手打ちです。

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トッピングはレタス、きゅうり、うめぼしでした。

あ、つゆも手作り。

しいたけだしとお醤油で。

 

うまく伸ばせないんだけど、やってーと言われたけど、いいんじゃない?と言い続け、自分なりに工夫して麺を切るとこまで終えた大ちゃん。湯を沸かして茹でて盛り付け決めて。相変わらず彼のセンスは素晴らしい。

麺だけ、ではなくバランスを考えてくれるのです。

 

わい、いただきまーす。

薄くなりすぎたらしいのだけど食べやすくて美味しい。

丁寧に包丁を入れただけあって、繊細にきれていて、めんにつゆがからんでさいこうにおいしい。

何を作っても美味しい大ちゃんのお料理。

 

こんなに彼がお料理が好き、とわかったので、遠くないうちに私の料理アンド人生の師匠に会いに行かなきゃかなって思ってます。

結婚式をしたフランス料理のレストランの料理長。

その方にフランス料理をとおして料理の技術を習いました。けれどももっと大切なことを教えていただいていました。今私の身体にしみいっている基本調味料は本物を使うこと、大切に育てられたものをその人から直接分けてもらうこと、人と人が優しい気持ちで生きて行くことをはじめにその方が教えてくれたのだと、今改めて感じているのです。

 

料理長みずから全国回って生産者さんに会い、その人のかおみて話をきいて、食材を直接分けてもらう手配をするのです。そしてね、これが欲しいと思ったら、値段を聞かず、ひとケースください!と言うそうです。

 

すごいなーって思っていたけど、今、その料理長はそのお金で何を買っていたのかがわかるような気がします。たぶん、その方の生き方がすごい、って感動した思いにお金を払ったのだと思うのです。

 

生産者さんが心を込めて人生かけてやってるそのことに敬意を示し、お金というものに変えただけなのだろうと感じています。とっても愛を感じて、自分はこの料理長から愛を、いきかたを学んでいたのかもしれない、と感じているのです。

 

だからあのお料理が、心からワクワクして、幸せになる美味しさだったのだろうと思います。

生産者さんの愛と、料理を作る人の愛、これが合体して美味しくないわけないですものね。

 

お料理が好き。そんな大ちゃんがこの料理長のことを思い出させてくれました。

人生、いつなにがおこるかわからない。だから遠くないうちにあのレストランのお料理をたべに、料理長さんに感謝の気持ちを伝えに行こうと思っています。

 

最近思ってることがあります。私が我が子に出来ることを一つ見つけました。

好きなことを大事にして生きている、我が子とそんな人に会いに行くこと。

お料理が好き、自分の人生を大事にしてる、わずかでもいい、そんな人に会って大ちゃんの生きる楽しみが、大きくなる希望が膨らんでくれたらと思うのです。

 

私が育ってきたような当たり前のレールを生きていない彼に私が残せるもの。

もちろん小さいうちは私も寄り添いたいとおもうけれど、いつか私の寄り添える範囲をこえ彼自身の力で、ほかの肩の力を借りながら自分のレールを作り上げて行く日が来るのだと思うと、その時に、彼が自分のアイデア、人様との繋がり、自分がどう生きて行きたいか、全てを集結できるように、そうして幸せに生きていけるようになってもらいたいなっておもうのです。

 

彼がこれからいろんなことに挑戦して失敗もして(失敗なんてないのだと思うけれど)たくさんの経験をして行く時間を持ってもらいたいから、もうきっと、私が母としてもまよってる時間もあまりないのだろうなと最近感じています。

大事だって思ったら私が動く。そうして彼が必要なものを自分でつまんで行ってくれるのかな、そんな感じもしています。

 

私が我が子とともに生きた時間、どれだけ彼の希望に貢献できるか、寄り添えるか、母としての自分の育ちにも期待していこう。くじけてる暇はない。

 

大ちゃんとこゆがわたしよりすこしでも幸せに生きることができたなら、子孫の未来はもっと幸せになって行く。私と旦那さんが幸せに生きたなら、周りの人たちにも笑顔になってもらえるかもしれない。

 

人生1秒でも幸せは多いほうがいい。

自分の平和は家族の平和。家族の平和は世界平和。

今日も平和でいよう!とおもう雨の続く1日。

 

蝦夷梅雨で農家さんが頭を悩ませてるそうです。

私も畑をはじめてその現実を目の当たりにしています。

自然とも、ひととも、どうおつきあいしていくかを本気で考えていかなくちゃならないな、と思う今日この頃。

 

 

コンクリートミキサー車がやってきた。

我が家のためにコンクリートミキサー車がやってきてくれました。

旦那さんと吾郎さんで、鶏小屋作ってます。

これは一大イベント、と言っても私も手伝い要員。

 

コンクリートミキサー車登場。

子供達大興奮。

そりゃそうだ、こんな身近で見れることないものね。

でもコンクリート入れた後はかなりの重労働。

助っ人してくれた方が土木を知ってる方で、かなり助けてくださって無事終了。

 

いやはやすごいなー。こうして世の中できてるんだ。

鶏小屋作り。

中古スーパーハウスを運んでくるとこから改装まで旦那さんと吾郎さんの手作業。

というかここではほぼ全て人力とミニ重機でおこなう。

スーパーハウス移動も地盤を水平にする土もりもり。

畑仕事も家作るのも。

私はできないけど、旦那さん、トイレとお風呂場作ってます。

 

私は畑と子守担当。

とはいっても最近私は改心しまして、子どもたちに口も手も出さないようにしようって思ってます。

だから飽きたーって言われても、そっかー、飽きたかー。しか言わない、笑。

楽しみは自分で探すもんだ。アパートに戻るとうちの外は車道、どこかに行くのにおつきあいするしかないけど、ここは沢あり、坂あり、木々あり、雨あり!!

 

私は黙々と畑仕事。

これ、終わらなくてね。一年分をふた家族分、雑草抜き、間引き、食べるための草を育てるお手入れしてるので生きるためにするっきゃない。

私にとって、子どもの人生邪魔してる暇もないのでいいんです。

 

んで、飽きたー、と言われてから30分後。

子どもたちは離れたとこで、トレーニングしてる!と言いながら延々とランニング始めてました。

4歳と9歳のジャガイモ畑に向かい坂道のトレーニング、笑。

そして1時間後、排水が流れる水の先を追いかけて、ずっとみてたいから、アパート戻りたくなーい!!

 

ほらね。楽しんでる!!

楽しめない日は体調悪い日。

 

この人たちの楽しいことを見つける力はすごいです。

早いとこ、ここに引っ越してこよう、ってそう思ってます。

タイにいって、おもちゃのない暮らしをして、子供達がおもちゃがなくても楽しめることを知りました。別にあってもいいんだけど持ち歩きたくないしね。

それは私も同じ、あたらしくすむちいさいおうちにものが入らないならば服と家族それぞれの一番好きなもの一つだけを残して、手放してきたらいいと思っています。それならいつでもここに越してこれる。暮らすだけでどれだけ楽しいかを知ったから。

 

自分で得た食べ物の豊かなこと。

自然が実らせてくれるハスカップ、野草。

 

子どもたちと同じように、大人たちも自然の力に喜びをもらっています。

今年は雨がすごいから実りの悪い畑に実ったものが本当にありがたくて。

スーパーのお野菜が高い、安いの喜びとは違うことが今の私にはあふれています。

 

吾郎さんと旦那さんの作った鶏小屋、我が家の周りの土地の整地。

旦那さんの手をかけたことによる愛着と高齢の吾郎さんの私たちへの想いに対する感謝が溢れないわけには行きません。ここにいれることはすごいこと。

 

今自分がそうしてることが奇跡。

どれをとってもかけがえのないもの、ことなんです。

 

この蝦夷梅雨が終わったら、テントを張ってここに住もうと決めました。

私もこうして自分を支えてくれる人たちの苦労を知りたいと思うし、吾郎さんご夫妻を手伝いたいと思うのです。(今は畑をする主力要員なので。)

 

生きてることが当たり前じゃない、ここにいるとそれをとても感じます。

私なんて消えちゃえばいい、物心着いてから結婚するまでそう思っていた自分に教えてあげたい。

家を出て、一ヶ月間、旅に出てごらんと。

 

本当に一人になって、学校でひとりぼっちな気がしてた情けなさ(その時はそう感じてたんです)が小さなことに思えて、自分がどれだけ誰かに愛されていたかきっと感じることができる気がするのです。海が美しいこと、川の流れはどこまで行くんだろうって思いをはせること、その土地土地の食べ物が美味しいこと。優しい人にであったこと。一人になると誰かがかけてくれた声に救われることがある。

 

親じゃなくてもいい、きっとね。友達、おばあちゃん、近所の人。自分を愛してくれてる人がその時々に必ず一人はいたんだと今思い出すとかんじるから。

 

そうして自分で自分を受け入れる入り口にたてるきがしています。

 

今、私は自然の中で暮らしたいと思うようになりました。

なぜかってね、そこにいると、当たり前なんて、常識なんてないと思うから。

自分がご飯たべれるだけでありがたいって思えるから。

 

どうしようもない自然現象をただ受け入れるしかなくて、ただ受け入れるしかないこともたくさん、たくさんあるのだって気づけるから。

私の力でどうにかしなくちゃいけない、そう思って生きてきたけど、自分ができない、って思ったらそのまま受け入れたらいい。諦めるんじゃなくて受け入れる。そうしたら自分の身の丈にあった答えが出てくるから。

 

雨が降ってどうしようもなく野菜もあまり育たないけど、あるもの食べたらいいだけで。野草はもりもりそだってくれる。

そうして今までお腹空いてなくても食べたくなっちゃってたことも多かったから、自分が食べる量を減らしていけば、こどもたちにまわっていくわけで。

 

雨が降ってもこどもたちは外でもあそべるわけで。

私はお風呂の用意してあげたらいいだけで。

 

雨で予定中止になったならそれは受け入れたらいいだけで。

その分なんにもしないということや自分がどう生きて生きたいかかんがえることができるわけで。

朝ヨガ、をやった時期もあるけれど、やらなくちゃ、になってしまったからやめました。自分がやりたくてやるならいいけれど、やらなくちゃに時間をかけるってもったいない気がして。

畑して、時々、深呼吸してればわたしには十分で。その分、今は何にもしないをけっこうたのしんでたりします。

 

それは全て自然が私に教えてくれたことでした。

受け入れて受け流して、自分がしたいようにしたらいい。

ただただ自分に誠意(信じられる自分)だけあればいい。

 

自然の中でくらしてる自分が一番好き。

そうやっと思えるようになったアラフォーの私。

子どもの頃に思えなかった自分を好きになるという感覚を持てた今から、また私は育ち直してます。

未熟すぎることだらけの私だけど、それでもいっかー、と腹をくくります。

そんな自分を受け入れてね、日々を生きてく。

そんな自分で愛する家族と暮らしていこう、って思えた、それも私には嬉しいこと。

 

今日も楽しもう。

 

コンクリートミキサー車の写真撮ってなかったからいつものふくやさん。

ダブルガーゼでワンピ。

型紙、毎日着る女の子の服より。

生地、HINODEYAさん。

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キャミソール。

型紙、candyflossさん。

生地、マツケさん。

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目の前で起こること。

毎日いろんなことが起こる。

感情がその度に揺れる。

 

外に出ても出し、家族ともだし。

いつもおもってることがある。

 

起こることには意味がある。

いいことは楽しい、でいいし、自分にとって良くないことは、どこかに学びがある、って最近は思ってる。

そう思うようになったから何か苦しいことに出会ったら、それを責めるんじゃなく、自分にとってここを超えたら、成長があるはずだと先が見えるようになった。そうしておもう。

全ては自分の受け止め方次第。相手が悪いわけではない。

 

あの人のこんなとこが嫌だ、それは私がそこの部分を受け入れることも受け流すこともできないということ。私の中で何が問題なのだろう、って考える。

 

自分が悶々とした時、何に悶々としているのか考える。考えてもすぐに答えが出ない時は、とりあえずいつものように暮らしながら、いつかこの悶々がどこから来るのか見えて来るだろうと思いながら悶々と暮らす。あんまり好きではない状態だけど、焦ってもわからないから仕方なくて、とりあえず人に会うのをやめてみたり、温泉入ってみたらしながらね。

 

そう、全ては自分次第だって今は腑に落ちてる。

自分がそう受け止めてるだけなのだと。

そう思ったら、家族以外の人との付き合いが楽になった。

自分に誠意があればそれでいい。

優しさも自分がどうありたいのかも全てそこに投入したのだから、そこで今話が噛み合わなかったとしても自分が出来るベストを尽くしたのだからそれでいい。

 

噛み合わなければ、今はその人と相性が合わないとか、お互いの学びのタイミングが違ってたとか、そういうことだと思う。自分がどうここにいたいか。

わたしは日常を自分の好きな場所で過ごしたいと思うから、そんな場所では、できる限りいつもきもちよくいたいとおもう。それは相手も気持ちよく私と顔合わせてくれたら嬉しいなという想いも含めて。

 

さっきお風呂から出てふっと、反省したことがある。

以前より旦那さんとの時間、子どもとの時間を気持ちよく過ごせるように意識するようになったとおもう。

けれどもまた学びの段階がきたようで。いや、いつも学びが溢れてるのだけども、家族のことは特に、特に、心を使う。私は感情がストレートに出すぎて嫌な思いをさせることも多々あるから。

 

イラっとした時に私の子どもへの感情の向け方に、自分のあり方への思いと矛盾があったことが突然ストンと見えてしまった。気づいてしまった。。

 

大ちゃんとこゆのきもちのひょうげんのしかたが気になって、昨日、またまたおこってしまったけれど、そもそもの根本の問題がまた一つ見えてしまって、大反省。。

私の表現の仕方に問題があったのだった。大ちゃんが生まれてから九年間、気付かずにきたこと。彼らに背負わせてしまってきた自分の問題。ここから芋ずるで色々見えて来るのだろうと思う。母との関係もみえてきちゃうし、今回はどどんと気づいてしまったからちょっと怖い。けども立ち止まってる暇はないわけで、今日から変わって行こうと思う。

 

目の前で起こることをゲームのように自分でクリアして行く。自分でクリアして行くしかないオリジナルゲーム。

そうして自分がもっと好きになるように、変わって行く。

今日も明日も楽しいじかんをいちびょうずつでもふやしながら日々を生きていけるように。

日々自分の人生ゲームなんだねー、笑。

 

でもそう思えるようになったから、ちょっと面白いかも。