日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

便利なものがたくさんあるということ。

ものがない場所とある場所で暮らして感じていることがある。少し長い時間身をおいてみて、今、感じること。

 

暮らして感じてみること。きいて、考えるのではなく、感覚に染み入らせてみること。そのことを、私にとっては、「身をおいてみて」という表現が1番しっくりくるので、今はそんな表現を使っています。

 

便利さも不便さも、結局は同じことなんじゃないかということ。便利にもメリット、デメリットがあり、不便にもメリット、デメリットがある。それを今だけでなく、長いスパンで考えてみると結局同じくらいのメリット、デメリットがあるんじゃないかってね、感じているんです。

 

タイの小さな村で年に数ヶ月過ごし、残りは日本で暮らす暮らしをすること、三年。多くの気づきは身体を通して感じるようになりました。日常で暮らしている中で、ふっと疑問を感じる。頭でいいこと、悪いことを感じてきた感覚とは違う、否定ではない、あれっ?ていう疑問。

 

当たり前だと思ってきたことが当たり前じゃない、って感じるその時。

 

この感覚を経験してから、「いま」もたいせつにしているけれど、特に、私が自分が未来に残したいものは何なのだろう、と真剣に考えるようになりました。日々を暮らしていると、それを考えていなかった気がするのです。ほんとにね、今も大事、けれども、1日に一回でもいい、未来のことを心の何処かにおくこと。だって自分の家族が生きてゆく世界なのだから。

 

ほかの人が暮らしやすいことも大事。けれどもまずリアルに考えられるのは、そうぞうできるのは、思えるのは、正直なところ、家族からだと私はおもうのです。家族が戦いに巻き込まれないで欲しい、穏やかな気持ちで暮らして欲しい、平和の中で生きて欲しい。だから家族を思ってリアルに行動することはほかの人がどうでもいいということじゃない、結果ほかの人がにも喜ばれることなのだろうと想像しています。まず家族をおもうことから、それが自分の行動をぶれなくする一番の近道だとさいきんかんんじています。(もちろん、ゆるくないけどね。近い上に素直な感情を出し合うから)。

 

 

そう、そんなこんなでね、便利な暮らしで人間が納得する終点、行き着く先なんてあるのかなってかんがえてきたんです、この頃。でもね、きっと、ない。便利さはますますの便利さを欲し、人は頭がいいからきっとそれを解決する方法をどんどん生み出す。それは、悪いことではない。

 

けれどもね、人の欲のせいで、犠牲になるものがある。食べるために生み出されたくさん廃棄される、食肉用の動物。切り開いた山。行き場を失ったほかの生き物。

じぶんがほしいもののために、戦争が起きてしまう。

 

明らかにバランスが悪い。

 

だから、その中で暮らすに当たって私たちそれぞれが考えなきゃならないことがある。それを使えることを当たり前と思わずに。

昨日、そのことを痛感する出来事がありました。

 

私もそう、私たちの世代は、お金があれば、欲しいものを、欲しい時に手に入れることができてしまう、そんなありがたすぎる時代に育ってきた人たちで、そんな数々の「便利」が、当たり前という感覚になってしまっている世代だと思うから。でも、それって当たり前じゃないことがたくさんあるんです。

 

車でどんな天気の日だって快適に出かけられること、インターネットで他人の今の状況をさほど考えずにサクッとメールを送れてしまうこと。(例えば夜中は電話はできないけどメールはできてしまったり、ということ。)。メールなら、相手の今すぐの顔色を伺わずにいろんなこと、いえてしまうってこと、ありませんか??実は私もそうだったし今でもそういう部分が自分にあるので気をつけるようにしています。

 

その時に必要だってものはコンビニですぐにかえる。本当にその時だから必要なものっていうものもある。ちいさいこどもたちといるとね、なおさらね。けれどもそんなものが本当はいくつあるのだろう。欲しいものってしばらくは欲しいけど、なくても案外いけちゃったりするし、一年後待っても欲しいってものって結構少ないと思うのです。

 

手に入れられることが、当たり前。そしてそれは自分には作れないし、直せない。かわりのもにでだいようできたとしても、私は買っちゃっていました、100均で。壊れたら買い換えよう、100均だしね。だって、今すぐ欲しいから。

 

そして、人との関係も介さずにね、手に入れられる便利さ。すごくありがたいんです。

 

けれども、本当にそうなのだろうか。。それに疑問と、未来への一抹の不安さを、最近感じるようになりました。

 

人の欲というにはきりがないようで、また人の脳というのはすごく賢いようで次々の便利を生み出してくれています。

話がいろんなとこに飛んじゃってるけど、昨日私が感じたのはLINEの話から。

今はPTAのやりとりとかはLINEで瞬時に交わせてしまうんですって。

 

我が家にもLINEはありません。けれども、それを導入していないのは、新しいことを否定してるわけではなくて。それを始めることで、私が子供との時間もそちらに費やしてしまいそうなこと、パソコンもあるのに通信環境にこれ以上お金をかけるのがやだったから。ただそれだけです。

 

でも今はそれを持っていないことにも価値を感じつつあります。

 

友人はPTAの仕事で、ほかの人たちがLINEでやりとりしてるのに、自分だけメールに変換してもらうのが申し訳ないっていいます。だからLINE環境を整えようかと。たしかに必要以上に人のことを気にしがちだった私も、その気持ち、いたいほどわかるんです。

 

けれども昨日、気づいたことがあります。自分もその中に入ってしまったらそれのデメリットを解消できる人がいなくなってしまうという一抹の不安。

 

私の経験上、顔をあわせて、せめて電話を使って声を聞いての日常はコミュニケーション力を育てると感じています。

東京での1人暮らしとタイの村で滞在した中で人々のコミュニケーション力が全く違うということにびっくりして、何度も自分の中で確かめてきたここ数年。

 

タイの小さな村。そこの人たちのコミュニケーション力はね、豊かでした。すれ違うたびの笑顔は、その村で多くの人が安心して暮らしてるということの証だと思います。

 

もちろんかれらにも、人との関係が煩わしい時もあるのかもしれません。お父ちゃんだけ、酔っ払ってる時とかね、笑笑。けれどもその村の人たちのフレンドリーさ、思春期の子たちが、素直に気持ちを表現すること。短期滞在の私たちに、15歳の男の子が、親とのったバイクですれ違う時に、私の名前を呼んでくれるなんて、と感動しちゃいました。

 

先進国じゃないとこはイヤイヤ期も反抗期もない。これ、結構本当なんじゃないかって、感じてリサーチ中です。暮らしの中でイヤイヤする必要も、反抗する必要もないから。

 

私ね、おもうんです。コミュニケーション能力は親や教育が、教えられるものじゃない、子どもたちがそれぞれのペースで時間をかけて育てて行くもの。

 

人と話す時の間の取り方、表情、仕草。そして個性に合わせて対応したり、自分ときの合う人見つけること。これって全て自分の持つ感覚のなせる技で、五感を使わないと繋がらないもの。メールやLINEの中の文字だけではえられないもの。

 

コミュニケーション能力がある大人の中に身を置いてきた子どもたちでないと身につけられないものなんじゃないかって。村の子どもたちのように。

 

私の持つ、一抹の不安。

それはコミュニケーションは煩わしい、という感覚を子供たちに伝えてしまうんじゃないか、というきと。人は動物。1人じゃ生きては行けない。だからね、コミュニケーションが生きるすべになるとおもうのです。そしてコミュニケーションにはそれなりの配慮も必要で、その配慮は、私がこれに気づくまでしてきたように、人の顔色しか見てない配慮では自分がすり減ってやんでしまい、そのバランスを小さいうちに知って行く必要があるということ。

 

大人になってからではゆるくない。感覚の柔らかい子供のうちがいい。

 

私が村から感じさせてもらったことの一つに、コミュニケーションがあるのが当たり前の中で育ってきたら、コミュニケーションの煩わしさはさほど大きく感じないのかもしれないということ。もちろんいろんな人がいるから、おとなになってでてゆくひともいるのかもしれません。けれども、多くのひとたちがまだここにいる。

 

何もなくとも顔を合わせ、暮らしを共にする中で助け合い、おもいあうことができているのでしょうね。地域交流なんて名前だけで、その日にしか関わらないのではなく、常に関わっているここの人たち。

 

この村の子達が、学校の休み時間にそばを通るおばあちゃんの荷物持ちをスッとすること、山道になれない私たちを先に通し、自分が最後を歩く配慮をもっていること。外国人だしー、なんかきんちょうするしー、って変なこわばりもなく、うちの息子を気遣ってくれるこどもたち、いつだって抱きしめて可愛がってくれる大人たち。

 

この関係はLINEからでは決して、決して生まれないと感じています。

でもね、うちもパソコンもわずかとはいえ電気もつかってる恩恵をいただいてることに大きな感謝をしてる。だってね、こんな、こどもたちがおきるまえに自分の時間が欲しい、なんて日ののぼる前におきてミシンが使える、電気が使えることも当たり前じゃない。真っ暗じゃ、なにもできないもの。ほんとうにね、なーんにも。。そしてね、「もっと」を、求める限り、便利になってゆく世の中があるから、否定していても自分が世の中が見えなくなってゆくだけだしね。

 

私の経験から思うことは、便利さとの付き合い方をこどもたちのみらいを心の片隅に置いて考えてゆく必要があるんじゃないかな、ということ。

 

だから、えっ、、、と思う方もいるかもしれないけど、みんなが持ってる中で、持ってない、ってことも必要なんじゃないかなって思ってます。

 

当たり前のことはきっと全て当たり前じゃない。それを知ってゆくことって大切なことだから。そうしてイライラしなくても受け入れたり、受け流したりできることが増えて行ったらもっと楽にいきられると思うから。

 

だからね、最近、子どもたちが出がけに手がかかって時間通りに出れなくなることも、旦那さんとの価値観の違いをすり合わせることも、他人との違いも、自分の心の中で戦うことがすごく減りました。仕方ないっしょ、って。

 

長くなりました、ここいらへんで。

 

先週、2年熟成味噌講座をしました。味噌作り10ねん、私が緊張せずにできること。

これから私、味噌を作りたい人のお手伝いしようと思います。材料の手配先も大方把握してるから、材料仕入れも慣れてるし、手間賃を収入にさせてもらって手伝いますよ。

小さな子がいると講座の予定を合わせるのも大変。やっぱりこどもにあわせるのがいちばんだと、思いますしね。(自分がイライラしなくて済むから)。

 

私にとって豊かさの中の一つは、手前味噌。だってね、家族に手が入った伝統調味料なんて今しか作れないし、身体にとって優しいんじゃないかな。家宝が増えますよ、笑。

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