その26 学ぶということ

さてさて先日のつぶやきの続きを。

 

私にとって学びの心地よさをここで初めて感じています。

 

先日のココナッツミルクを作るときの話、またしますね。ココナッツ選びから始まり鉈で割ってミルクを作って行く作業。何十回も見たその作業、ついに先日、私がサハイナン仲間に伝えるときが来てしまいました。

 

だってね、この殻を割る作業、鉈のスキルもいるし、力作業。間違えたらスパッと指を怪我するし、ちょっと怖かったんです。けれどもね、ここに9ヶ月もいるから聞かれたことに自分で答えたい、と思い、答えました。

 

「I show you!」

 

そうして自分でココナッツを割る作業をこなしつつ、出て来た疑問を一つずつクリアして行きました。動作をするということの中で、見て来ただけでは解決できないことがたくさんあることをまたまた知る私。4歳の娘が私の疑問にさくっと答え、子供の観察する力の強さを改めて知ります。

 

彼らはただ見てるだけじゃない、好奇心という大きな学びの窓から観察しているんですね。それをとても感じました。

 

行動の中で生まれる疑問を解決したとき初めて、知るということが自分の細胞になるように思います。ここで初めて自分の生きるための知恵になる。

 

それに気づき、ハッとして、私は今改めて学びとは何かを感じています。

学生時代に丸暗記したことは、九九ぐらいしか自分の人生で活躍してくれてなかったのです。

自分が好きなことであれば、またはそのことに好奇心があれば見たことは自分の中に取り込まれる確率が高いと思います。まさしく小さな子どものように。

 

けれども、教えられたこと、テストのために覚えたことは自分が生きる道を助けてはくれない(もちろん全てとは言いません)のではないかと感じています。

 

競い合う学びは、その人が生きることをダイレクトには助けてはくれないのではないかとおもっています。自発的である学びが、自分の細胞になる。

 

私は今、学びなおしています。たくさんの資格を持っているけれども、暗記だけだったのでいまはまるで役に立たないこの経験を経て、学びを自分の細胞にしていきたいなと。

 

だから我が子にも彼らの経験を待てる母になりたい。そうなれるように今日も学んで行きます。

 

それを感じたシンプルな暮らし。自分の身体と、人とのコミュニケーションをしたいと思う気持ちがあれば学んで行けることは限りなくあるのですから。

 

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火を使うこと、鉈を使うこともこの学校では日常です。暮らしと学び、気遣い、全てがここでは循環しています。先生が必要以上の準備もしないし、必要以上の親への気遣いもしすぎない、信頼感家で成り立ってるから、建前ばかりのお便りや挨拶もなく、人と人の関係がとても深く成り立っているように思います。

 

そして先生がね、子どもの話を真剣に聞いてくれるから、こどももきいてくれるのだろうとおもいます。

 

ひとりの先生が35人もの子どもたちの学力を確実にあげなくてはいけない、という緊張感がない分、フレキシブルに授業を展開し、個々との関わりを持ってる。そこには、日頃から地域でつちかってるコミュニケーション能力がフルに使われ、異年齢で過ごす時間もとても自然。

 

これは生きる上でとても大切なことだと感じています。信じ合うことで人同士を大切にしあう。本当に目が輝いてる彼らから学んだこと。

 

コミュニケーションは生きる上での基礎、です。