日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

豊かさを感じる感性は自分で作っていけるから。

なんでしょう、あの小さなタイの村で味わったほんわかした優しさを思い出すと、ホッとするのです。

時間に追われた緊張感のないあの暮らしとその中にいる人をふと思い出します。

 

日々の中に安心感がある人は優しさが深いと感じました。

そっとそえてくれるての暖かさも違って感じます。

気のせいかな、って思っていたけど、確かに違うのだと今は思います。

 

今日の話を綴り、最近、この話してなかったなーってーちょっぴり思うのです。

もう少し大目にこんな時間をとりたいな、って改めて思います。

 

あの村で味わった時間に追われない感じをもう一度自分の中に染み渡らせて、私のできる限りでいい、どっしり、ゆっくり、柔らかい日々を創り上げていきたいなと整理しております。

 

昔の日本にもあったのかもしれません。

けれど、私は知りません。

いつもバタバタしながら生きてきた感覚の方が強いので、意識して、まずは記憶をあの時、あの場所に戻してから今日は家族におはようを言おうと思います。

 

今日は昨日より気持ちよく過ごそう。

自分のために。

 

以下、インスタより転載です。

 

自給自足をしながら暮らす小さな村は男性も子どもたちにとても優しい人ばかりでした。

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こうして手を止めて一緒に遊んでくれたり、すれ違うときにはいつも笑顔を向けてくれます。

 


暮らしの中で子どもがいるのは当たり前で、彼らの存在をとても大事にしてくれる、そんな場所でした。

 


その暖かさがどこから生まれてくるのか、ここで暮らして感じたことがあります。

 


彼らも大事にされて育ってきたのです。お母さんとムスコが漫才の様に仲がいい、そんな姿を見せていただいて、お母さんもご近所から支えられてきたんだなあって感じました。

 


抱っこされたり、一緒に遊んだりのスキンシップもとっても多くて、その大切さを私はここですごく感じさせて貰いました。

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さて、話を日本に戻します。

子どもたちの通った幼稚園は、家族関係を育てる幼稚園だと園長が言っていました。

 


園長っていうのは通称で、ここの園はみんな名前で呼び合うので「エンチョー」が通称です。

 


子どもに教えるのではなく、園長、スタッフさん、親も子もみんなで日々成長し合う、それを意識してあえて先生とは使わないそうです。

 


ここでのスタッフ研修に時折参加させてもらいます。

 


毎回必ず、生命の誕生の奇跡から学び直すのです。

受精の瞬間のビデオをみんなでシェアし、お腹の中で育まれるという時間についての話もします。

そしてその命の源は、夫婦で思い合ったことによるスキンシップであり、家族同士が思い合い続けることの大切さにまで至ります。

 


私は育ちに問題を抱えていたこともあり、子どもを育む事については本で学ぶしかなかったのが現実でした。

自分が若かった頃、街の普通の暮らしで、小さな子どもと暮らす家族とじっくり関わることもなかったので本当に手探りでした。

 


本を読んで、情報を集めていいと思われるものを見つけてはそれを試そうとするけど、今までの思考の癖が邪魔をして、習慣に至るものはほとんど残らないのも事実でした。

 


そんな私にとって、ここでの学びは驚きでした。

子どもへの接し方、ではないのです。自分のあり方を問われる学びでした。

 


私が、望んで授かった我が子なのに、自分の心のキャパがオーバーして虐待に入りかける、そんなサイクルからどうにか抜け出せたのは園長お陰です。

 


園長は一人の命が生まれてくる事の奇跡を毎回私に刻んでくれました。

産婦人科の先生である在園児の親に話をしてもらったり、NICUで頑張るご家族もいたり、沢山の命を感じる研修をしてくれました。

リアルにそれぞれの人生に触れながら、命の尊さを感じます。

 


命が生まれてくる奇跡を忘れない。

 


それは我が子を大事にする思いと共に今でも多くの新しい気づきを与え続けてくれています。

 


自分と他人を比較する必要が無いこと。

 


まだまだ現在進行形です。

自分のペースでいい、焦らずに、自分で舵を取っていく、それを私の中に刻んでいます。

 


子どもを観察し、自分と違う人間である彼らを、他の人にするように敬意を持ちながら共に過ごすこと。

 


そこで味わった自分へのもどかしさは私にとって全て学びです。

自分の育ちからくる苦しみを受け入れられたのも、本気で変わろうと積み重ねてきた時間も、我が子に敬意を持ち、私の持ち得ない彼らの感性に心震えたからであり、彼らの人生の足を引っ張りたくないと思ったから。

 


私の今までの人生を全て受け入れる、そうして今のもどかしい自分も味わい尽くす。もどかしさは行動を変えるエネルギーにもなっていきます。

これから自分はどんな人間でありたいのか、日々考え、行動し、向かい続ける。

 


至らなさの中を生きる私の我が子への誠意です。

 


そして我が子の命だけではなく、自分の命の奇跡もあります。

自分の好きな部分の脇に自分の嫌な部分も抱き続け、自分のありたい方向に向かっていく。

自分にとっての大切な事さえ忘れなければ、未熟さは抱えていこう、そんな覚悟もきまりました。

 


夫婦でも同じです。

かけがいのない命を貰い、一生懸命生きてきたパートナーも、自分と同じ様に大事に思う。

 


感情が先に立つ夫婦同士だからこそ、時折それを意識するようにしています。

 


時々、子どもたちも受精の瞬間から始まり、胎児になって行く動画を見ます。彼らの方がみたがるんですけどね、笑。

 


こうしてみんな命を頂いて生きてるのに、つい目の前の小さな事で愚痴ってしまう自分の小ささに反省ですわ。。って呟くわたし。

 


命の誕生の瞬間に触れる、そして我が子が生まれてきてくれたこと、夫婦でいられることの奇跡を言葉のしながら溢れる感謝を感じて生きていたいと思う。

 


命の生まれ出る奇跡を学ぶ教育者の研修。

今の時代に必要なものかもしれません。

 


園長、ありがとう。

家族にもありがとう。