日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

生と死。

木を切り倒すと泣いちゃう娘。

虫を捕まえてもカゴで囲わない息子。

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彼らと共に過ごしてくれたお友達のお母さんの聞かれた。

 


「生き物に対する柔らかさがすごいのはなぜ?」

、と。

 


正直なところわからない。

けれども私も感じてた。

彼らの自然界への敬意が深いことを。

 


自然界からお借りしたものはこわれる前にそっと返す、そんな感覚をそばで感じてきたから。

 


ただ、山で暮らすようになって、生まれてくるものと死にゆく者に触れる機会が増えた。

 


春、カエルに卵が、卵の中でオタマジャクシの形になって行くことに歓喜し、畑で沢山の生き物たちに出会い、交尾してるともみて、卵を見つける。

 


ワクワクしながらかえるのをまってきたオタマジャクシやサンショウウオの赤ちゃんの多くが死にゆくことを知り、みんなで悲しくなったりもする。

 


畑にいるとお母さんグモがお腹に重そうな卵を抱えてあちこち移動してるのに出会う。

 


死んだ身体を他の生き物が食べる様も目にする。

 


熊もいるこの山で、熊の生体に興味を持つ。子グマを連れたお母さんは特に気をつけて、と。子ぐまを守るお母さんの気持ちを想像する。

 


冬の間、枯れ木のようになった木々が、雪解け水を吸って小さな葉を芽吹かせ、山がわっと緑になっていく様や、日に日に紅葉が進み綺麗だね、と言いつつ、それが散ってもの悲しいきもちになることも想像しながら日々がある。

 


一回死んでみれば、なんてふざけていう人もいるけど、本当に悲しい言葉だよね、という会話になることもある。

なぜそんな表現をするのだろうな、と。

 


ここでは日々の中で、死んだら生き返らないっていうことも、死んでしまうことへのなんとも言えない気持ちも感じているから、自然には口をついて出てこない私たち。

 


虫をそっと捕まえさせてもらったのに弱ってしまった時の子供たちの悲しそうな顔を見ると、わたしも何も言えなくなる。

 


全て感じてるのでいう必要もないしね。ごめんね、って一緒に謝る。

そんなモヤモヤな気持ちも日々の中にある。

 


いろんな感情を感じさせてもらう日々。

 


本当に毎日沢山の生と死が巡ってるんですよね。