何かを学びたいなら、身体を動かそう。
ジャングルご飯。
この日はご馳走そうでカオラームっていう竹でココナッツミルクを甘くして炊いたもち米おやつがあったね。
でも、大抵の日は、こうしてバナナの葉をテーブル代わりに、鍋ごとのご飯とおかずふた品でシンプルにいただくのが日常でした。
おかずもボウルに入れたまま、食卓へ。
お皿はココナッツミルク作った時の副産物で。
スプーンは竹をカットして。
カトラリーは割れて仕舞えばそのまな、森に投げ、循環の中に入ります。
ゴミの出ない暮らしの豊かさを、ここで知り、帰国してから納豆やお豆腐も作る様になりました。
ラップもないものだと考えられば、ミツロウラップもいりません。(そもそもここではうちの中が0度を切ることもあり、パリパリにヒビが入ってはがれてきてしまうので使えなかった、笑)
ちょっと大変でも、そうしたいと思えばできるってことを体感したことは大きい。
その手間がかかる分、他に無駄を省いてほかの食事をシンプルにすればいいだけだから。
学校でもセミナーでも、日本にいると実習より座学が多かった。
その中に大事なこともあるけれど、何かを体得するにはやっぱり手足を使って動いて感じてみることがとても大事なんだと思う。
身体を使って感じたことの思考はとても深まっていくものだから。
ジャングルのある村の子たちをみて思った。身体をつかって覚えたからこそ、その場に合わせて応用して使いこなしていけるんだろうな、と。
今、日本の山で暮らしてそこでつけたその感覚を使う。 「タイと日本の北国じゃ、暮らし方が全然違うでしょう。」 そう、問われるけれど、そういうことじゃないんだ。
「タイではこうしてけど、ここでもそのまま使えることがある。
じゃあ、多くのそのまま使えないことはどうするか??
ここにあるものを使ってどうしたらそれをクリアできるか、そう考えるだけ。」 手足を使って身につけたことは、それをどうアレンジできるかを考え、生み出すことができる力に変わって行く。
私たちが選んだ生き方は、ライフラインのない暮らしを「机上で学び、色々な場所を見て回り、実習してみる。」、という形ではなく、「そこで共に暮らしを営ませてもらい、身体に染み込ませていく、」という形だった。
見て覚えたこと、情報で覚えたことは、実践までに時間がかかる。
それをすることの恐怖や不安、一人で始める面倒くささや人の目を気にしてしまうから。
けれども身体で覚えたことは、自然に動かさる。
手足が動き、立ち止まってもどうしたら目的地にたどり着けるか、思考が先に考え始めてる。
そんな経験をして見て私たちはその価値をしった。
何かを学びたいなら、手足を使ってみること。
畑の野菜が減ってくると、ジャングル中を歩いて食べ物を探したなあ。
今でも食材がないとスーパーではなく、まずは山を歩く。
ミツバご飯の美味しいこと。畑の雑草、スベリヒユの美味しいこと。
自然に旬のものが並ぶ食卓になる。
それにしても、ジャングルご飯、恋しいなあー。