日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

子どもを信頼するということ。

子どもたちのことを心配しなくなったなあ、っておもう。

学校にいってないことも心配してはおらず。

普通のお子さんほどの勉学の能力はないけど、いつも楽しそうに日々を過ごしてるから。

年齢相応の学力がなくても買い物もできるし、手紙もかけてるので困ってないらしいのでいいかな、って思うようになったなー。

 

これからどう生きていくのかな、って思うことはあるけど、私の経験値の中で心配していても意味がないことに気がついてしまったんだよね。

だって、ちゃんと学校出てきて普通に暮らしている人の中にたくさんの鬱を抱えている人がいるのを見ていると、果たして今まで通りに生きてきて、幸せでいられるのかなあ?って疑問が湧くので、今をワクワク生きてる彼らを祝福する方がいいのかな、となんとなく思うから。

 

会社に入って自分の行きたい方向とのすり合わせができなくて鬱になるより、自分のやりたいことに向かっていける力を持った人間になった方が楽しいかも。

自分の過去を振り返っても、これしておかないと困るよーって言われて育ってきていろいろやったけど、してきても困ることはたくさんあったし、たくさんのことを自分の中に収めておく能力がなかったのか、身についていないことも、今思うとおおい。

だから今の常識が必要かといえば私的には疑問。

 

我が子たち、コロナで人に会えないことにもどうじない。

それって自分のやりたいことがきちんとあって、まあしばらくはこんなせいかつしかたないよねえ、と起こった事態を静かに受け入れる力がついていることに、すごいなあと思いました。

 

そんなこんなで気づいたんだけど、私は子どもが思春期になった時のことも心配してない。。

今まで築いてきたこの関係は、うるっさいなー、くそばばあってならないどっしりとした安心感がある。

なんでかな。

こどもたちといてここちいいし、こどもたちも私といるのが普通で負担でない様子。

 

こんなくうきになれたのはなぜかな。

それは多分、私が子どもに自然と敬意を持てるようになったからなきがする。

彼らの感性がすごいって日々の中でいつも思うんだよね。

普通保育士していた頃にはなかった感覚。

子供は可愛いけど保護の対象だった。守ってあげて返さないといけないので、ただただ守るし、その中でできることだけ小さくやる。

 

子供との関係をぐっと変えてくれたのは子どもたちの通った親を育てる幼稚園の園長の愛情の。おかげ。

 

こどもたちは、大人に敬意を示された分、自分の人格を大事にできる人になるという。

私は逆の人生を送ってきたのでなんとなく想像つくような気はしていた。

でも、ここで数年日々を積み重ね、気づけば子供たちに負けないくらい、私の感性が変わっていた、笑。

 

私にとって我が子。

彼らの存在は尊いだけでなく、日々の関わりの中で敬意も湧いてくる。

彼らのふとした感性や優しさに。

尊敬っていう言葉は普通は目上の人に使うものなんでしょうけれど、これも言葉にしたら、尊敬だよね、って混乱するけど、それくらい小さい人の魂は素晴らしいもので、私の思い込みを押し付けなくてよかったっておもう。

 

 

三ヶ月ほど前に、10歳の大ちゃんと年長さんの友人Aくんと二人で札幌から旭川まで電車旅をしてことがあってね。

朝9時から夜8時半までのお出かけ。

二人で決めたルートで旅に出たいという鉄男の青春、笑。

お昼は駅弁で、温泉に入って、夕飯も食べて帰ってくると7時半になる、というスケジュールだった。

 

大ちゃんの行動力や思考力、周りへの配慮を今まで知る努力をしてきたので、特に困ることもなく送り出すことに決まった。

出発前に一応声をかけたこと。

 

電車の中で駅弁食べるとき、Aくんがなるべくこぼさないように気にしてあげてね。

お風呂上がりは身体をふいて脱衣所に行ってね。

困ったら、どこかで電話を借りるんだよ、いってらっしゃい。

 

と、送り出した。

そしてそのあと、ふと気づいた。

こうしていつか我が家を出ていくときに、心配をせずに送り出すために私は我が子と日々の関係を積み重ねているんじゃないかって。

子どもがわたしに余計な気遣いをせずに、自分の人生を生きていくこと、そして私はいつでも帰っておいで、いってらっしゃい、って見送れるような親になること。

 

困る場面に合うんじゃないか、誰かに迷惑をかけるんじゃないか。

10歳になった大ちゃんに私はそれを心配していない。もうすでに彼は私以上に周りを配慮する力が備わっているのを知ってるから。

 

畑仕事のあと、夕飯を作った私に疲れてるよね、ありがとう、って毎日顔を見ていってくれる優しさ。

スーパーのレジで買い物をした後はもちろん、ガソリンスタンドで会計後、私たちだけでなく後部座席からも、ありがとうございます!!っていってくれるその気持ち。

 

学校に行かない時間を、通ってた幼稚園で小さい人とも過ごす(小学生もいるけど)。

あるひの大ちゃんとのばめんを話してくれた四歳の子のお母さんがいました。ヤギに餌を上げてたんだけど、娘が二頭いるうちの一頭ばかりにあげていてね。もう一頭にもあげなよ、って何度かいっていたら、大ちゃんに「いいんじゃない?自分の納得するまでやってみたら気づいていくから、やらせてあげても。」って言われてハッとしたんだって。

 

そんな場面を多々知ってるので、誰かに迷惑はかけないだろうし、お世話になったら丁寧にお礼をいってかえってくるだろうしね。

困った時も助けを求められるだろうし、その感謝ももちろんするだろうし。

 

今をワクワク生きる人だしね。

困った経験も次の糧にしながら、今頃楽しんでるかな、って思えるのでなにも心配するところがない。。。。

 

実は学力以上に大事な、基本的な生きる力はここにあるよね、ってこどもにおしえてもらいました。

自分が説教したくなったら立ち止まって考えるようにしています。

もちろん先に言っちゃうこともあって反省もするけど、私は自分の経験をはなすとき、自分がそうしてきた人生は本当に幸せだったろうかとふりかえる。

 

はい、幸せです、って言えるなら、大事な我が子にそれを強く言ってもいいと思うのです。

でも私はそうかなあ、って思うことも多いから、参考程度にきいてほしいんだけど、、、から伝えることがおおい。

 

私の生き方は参考程度がいいとおもってるから。

 

子どもを信頼するってそういうことなのかもしれません。

いつでも彼のやりたいことのために送り出せるように、彼を知り、寄り添う努力を重ねていく。

いろんな方向から、我が子の優しさと強さを知って、それに感謝し、応援していくのがともに暮らすものとして大切なことなのだろうと。

 

 

私だけではこんな風な関わりになれなかったろうな。

我が子の細胞は多くの方の優しさで出来てるとそばで思います。

そうしれ私は大事な家族一人一人を一番に信頼できるようになった。

こどもが信頼されるこに成長したのではなく、私が子どもを信頼できる大人に成長できたってことなんだとおもう。

 

我が子の人生の邪魔をしたくないって思ってきたけど、いくらかでも、そんな風にいられるようになってきたのかもしれないなと嬉しく思います。

私に起こる全ては私自身の成長のためなんだね。

ともに暮らせない時がきても、私と生きた日々が支えになってくれるように、我が子との日々を積み重ねていこう、そうおもう。