日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

子どもと共に育っていくこと。

昔は森のようちえん的なのに興味があってね。

子供は自然に触れさせておく方がいいって思ってました。

 

けれども、私が出会った幼稚園はそれ以上のことを私に教えてくれました。

幼稚園の時期に子どもだけが自然に触れていても、意味は半分くらいかな、ってこと。

自然の中で感性を育てる子どもたちに負けないように、親自身も育っていかないとならないってことに気がついてね。

 

子どもは自然の中でどんどん成長していくの。

感性を柔らかくし、たくさんのものに興味をもち、生き生きと生きるようになっていく。

優しさも強さも忍耐も身につけていくの。

 

その場その場での自分の立ち位置というものを経験して危険回避の能力もぐんぐんと育てていく。

ものの見方も、捉え方も、小さいうちから大人が待って付き合ってあげることで、自分の感覚で身につけ、柔軟に、生きやすくしていく。

 

小さな我が子と一緒にいるとき、いま、この子は何を感じて考えているのだろうと耳をすますようにしてきました。

お友達に冷たいことを言ったとしても、親として余計なことを言わずになぜそういう態度をとったのかという背景をだまってかんがえる。

私の人生の経験なんてちっぽけなもの。

私が決めつけて自分の思うことを口早にいわない。

 

危ないな、って思った場面でもそう。

小さいうちから自然の中で経験のある人ほど、怪我することは少ないし、大きな怪我なんてそうそうしない。

(大きくなってそういう場所に来たお子さんはちょっと気をつけて見てやった方がいいかもしれません。

小さいうちから経験がある人は、自然にバランス能力を身につけているけど、舗装された道を歩いてきたお子さんは結構危ない場面を目にしますするから。じぶんがどこまでできるかわからないまま、だれかがやってることを真似したがることもあるのでね。

ここも大人がお付き合いすることからスタートする必要があるね。)

 

 

うちの子もそうでした。

かなり急な山の斜面を2歳の頃から駆け足で下降りる。

足がもつれて、前歯折れるよーってヒヤヒヤしたけど、その後四年、いまだにころんだことはありません。

木登りの時もそう。そこへいき??って私が思って、危ない目にあったことはなかったな。

 

我が家が通った幼稚園は崖っぷちにロープブランコがあるけど、大きな怪我が起こってないのは子どもたちが自分の感覚で気をつける習慣がついてるからだとおもいます。

先進国は学習のための道具も先生が用意してしまうし、トラブルの仲裁も大人がしてしまうなど、大人が介入しすぎなんだろうなあっておもいます。

本の学校は忘れ物に厳しいけど、忘れて困ったら忘れないようになるし、貸して、っていうコミュニケーション力をつける方が大事な気がするので、先生が介入しない方がいい気がするなあ。

 

 

親が我が子を心配する内容も時代によって変わってきている気がします。

今の時代の心配は、親が子どもの能力や性質をきちんと把握してないがゆえに、起こってる気がしていてね。

私も以前、子どもの行動に対して色々気になってました。

一番は危ないなあってことにたいして。

普通の保育士だったので、集団で保育する上での危険回避の感覚だったんですよね。

でもほんとにそれはあぶないのか?って思うようになった。

公園の遊具だって危ないのは、大人の意識の差があるので家庭によって子供達が身につけてる能力が違うだけで、小さい子が遊んでるって意識して配慮できる子もいてそういう子には必要のないルールになるわけだしね。

危ないかどうかをその子自身も判断できるという力をつけるのが、その後のその子の持った優しさに変わっていくのだろうと考えてます。

ルールに従うことに慣れてしまってる私たち世代だけど、そうすると創造力使ってできる遊びが減っちゃうから、lそれについても大人が考えた方がいいのだろうな。余計なことは言いたくないな、って葛藤にぶつかることもあった。

そんなことを経過して、今思うのは、子どもだけに成長させるのではなく、その環境がいいと思ったなら親も共にそこで感覚を磨いて学んで行く必要があるということなんじゃないかなっておもう。

 

でもいろんな人がいるから、公園に行くと親がちょっと疲れちゃうよねえ。なので混んでる公園は避けるようにしてきました。

 

そうして日々の中で私が危ないって伝えるのを我慢する、のを続けるのではなく、我が子といろんな場所でけいけんをつんで、この子の能力がどれくらいあるのかを私が、学ぶようになってきました。

 

ああ、この子は私と違ってこんなに運動神経があるんだね、すごいなあって思うようになり、あぶないよーって言わなくなった。

子どもたちは必要に応じて結構気をつけてるもの。

 

いろんな場面でその子が真剣に取り組んでいるときに、途中で切り上げて帰るよーって言わずに待つ。大人は忙しいからね、買い物とかに行きたくなっちゃうけど、諦める覚悟をできるになった。

それって子供の成長によりそうって言う学びになっていくから、結果大人のためになってくるんだよね。

いろんな場面で、その子にとって必要な時間をかけて真剣に取り組んだからこそ身についてくるから、こどものじんせいの邪魔をなるべくしたくなくて。

 

小さい子の学びって全て感覚。人が育っていくための大事な方法だとも思います。大人がそれを学んで行く必要がある気がする。

 

自然の中での暮らしは子どものためにいいよね、って言ってくれる方がいます。

でもね、大人も一緒に育っていかなくちゃならないので、綺麗事じゃないこともたくさんあったし、たくさんあります。

でも尽きない学びと成長がここにはあります。

 

子どもの遊びに寄り添い、彼らが飽きるまでという時間の中、忍耐の限界に挑戦してクタクタになるけど、彼らの自然への感性に感動して生き方を考えさせてもらう。

 

そんな風に在る生き方も結構面白いもんですよー。