日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

夫婦がお互いに歩み寄ると言うこと。

我が家は狭い。

だから子供が遊んでる時、わたしがお裁縫に集中してる時、いやおうなしにちらかる。

 

わたしは集中しちゃうのでそのまま最後までやっちゃってから片付けたい。

最中は散らかっちゃうけど、そのつもりで生きてるから、散らかってるなかでさえ、どこに何かがあるかを把握できる能力を持ってるらしい。(旦那さん談、笑)

 

旦那さんはその逆で旦那さんのお母さんは我が家にいたら1日掃除をしてるだろう。

いつもビシッとしていないと不安の人で、その血をついじゃったらしい。

 

散らかってるのが好きなわけじゃない。でもちょっとくらい汚れてても死なないからー。

というわたしに対して、旦那さんは心が乱れてここにいられなくなるんだと懇願する。彼の抱えたものでもあると思うのでそれに付き合う努力をして片付けるようにはしてきた。

 

小さい家を選んで済んできた私たち夫婦。

わたしがちょっとくらい散らかってても、怒らないようにして欲しいっていうのは、子どもたちの、「今、これが楽しい!!」と感じてる時間を思う存分味わって欲しいから。

 

でも彼は耐えられなかった。

旦那さんはこう言う。「次のことやるなら片付けてよ。」

「えーっ。今これ楽しいのに。」

少し大きくなってきた大ちゃんには旦那さんの思いも伝える。

だからその時々に応じて彼なりにパパの性質に配慮する。

 

わたしは思うんだ。こうして少しずつ変わっていくから、できる限り、大人側が彼らの今の心を想像し配慮していく必要があると。

 

次から次に片付けることは、今でも必要ないとわたしは思う。

まずはこどもはとことん楽しんだらいい。

楽しみに没頭すると言うことは、これから生きていく基礎教育のようなもので、楽しいことを見つける力を、自らにしみこなせていくということだとわたしはおもう。

 

片付けの習慣は小さいうちから必要か、って言うとわたしはそうでもないとおもう。

綺麗であることに気持ちよさを暮らしの中で知っておけば、いつか繋がるよね、と思ってる。

そしてね、いつかちらかってこまることがじぶんのなかででてくるとおもう。

その時に整理していくことだってできる。

 

とことん遊び散らかした後ろから、わたしは、ここ、片付けるよー!!!と容赦なく片付けていく。

いいよー、というこどもたち。

暮らしの中で片付けも大事の要素ではある。

だけど、次に行く前にはいつでも片付けなくちゃいけないわけではない。

誰かが困っていたらそうするべきだし、自分で気付いたときはそうしたらいい。

 

他の人に対する配慮は大事だと思ってるけど、これは片付けでだけではなくて、日々の中の全てにおいて、その状況で判断していく力が必要なので、どんな時も丁寧に大人が寄り添っていけばいい。

 

例えば、外に行ったとき。お友達のお家にお邪魔したとき、うちのパパが困ってそうなとき。

わたしがそれに気づけば子どもたちはいつの頃からかわたし以上に配慮のセンサーが敏感に感知するようになってるからすごいよね。

 

 

旦那さんは、今でも子どもたちの遊びに対し、ちらかってるーという。

だからその度にわたしは彼に伝える。

そして彼がどうしても受け入れられないなら歩み寄れるとこまででいいと思ってる。

 

そこを丁寧に夫婦で話していく日々が大事なんだと思うから。

お互いに大事だと思うことをとことん話し合う。

そうしてお互いが歩み寄れるところまで歩み寄って、それ以上無理ならば、それに関しては今は、無理に合わせなくてもいいと思ってる。

そうして歩み寄って、我が子にどう寄り添いたいかを二人で確認して、彼ができないことはわたしがやったらいい。

 

夫婦で大事にしていることを言葉にし確認していく作業を積み重ねてるその一部であり、全て同じ足並みにする必要はない。

今はここまで、ってときだってあるから。

忘れちゃならないのはお互いへの配慮。

歩み寄ってくれてありがとう。

聞いてくれてありがとう。

今はそれでいいよ。

 

そうしてわたしも彼に歩み寄る。

それぞれの大切なことを守っていける暮らしであろうと思う。