日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

子どもに、ごめんねって言いなさいと言わないワケ。

ごめんねって言いなさい!って私が子供に言わないわけ。

 

私は、ごめんねって言いなさいとか、ありがとうは?とかこどもにいいません。。

上の子が3つまでは言ってた気がします。

 

〜ごめんね、のこと。〜

〜なんで「言わせる必要がないのかな」?感情をあじわいつくすことに寄り添った日々。〜

〜自分に素直に生きる人から学ぶ日常〜

 

 

〜 ごめんね、のこと〜

3つの頃、息子が幼稚園で他の子に砂をかけてね。

ああ、ごめんねーってあわてながらすなはらって、息子にごめんねは??って言った私に相手のお母さんは笑いながら、言わせなくてもいいのよー、って一緒に素直をはらってくれてね。

 

なんで言わせなくていいの??

 

そう思ってすたっふさんにきいたの。

そしたらさ、「お母さんがごめんね、って言っておいたらだいじょうぶ。子どもはお母さんが悲しそうな顔して謝ってるってじっと見てるから。そのうち自分から言うようになるよ。」

 

その意味はなんとなくわからないでもない。。それとね、そこで気づいた。

たしかにまあ、砂かかってやだったよねー、ごめんねー!!って思ってるのは私の方。息子は泣かせちゃったなー。くらいだったのかもしれない。

そうか、じゃあ、そうしてみよう。

その気づきが腑に落ち、そこからごめんねもありがとうも言わせなくなったの。

 

でね、いまのこどもたち。

繊細な配慮でごめんねを使ってくれるの。

 

 

 

〜なんで「言わせる必要がない」のかな。感情を味わい尽くすことに寄り添った日々〜

 

って、検証してみました。長いぞ、ごめんなさい。

 

大ちゃんは幼稚園で素直に気持ちを表現して過ごしてきたんだよね。

自分の言ったことによる相手の反応を時間をかけて味わった。

 

二年間、函館で過ごしてお父さん仕事ばっかり系、お母さん発狂系の暮らしでこころがあれて帰ってきた札幌の幼稚園。息子は気持ちに余裕がなく、遊びたいと思う子にタイミングを読めずしつこく迫り、泣かせてしまう日々。

みんな素直だから、誰とでも仲良くしましょうは通用しない。

今は違う人と遊んでるの、だからヤダ。とあっさり拒否られる。そこに強引に入ってなかれる。

 

基本的に私は自分の経験したことしか自分にならないと思うので、見てるだけ。

経験したことが、その子の1つ1つの細胞になるのだと思うから。

その子のお母さんもただそばで見てるだけ。(私はこういう方針だからやられてる方より、やってしまう方の苦しみの方が大きいことも学びました。むすこがさってから泣いてる子にあやまるひび。私も泣きました。)

本人もさぞもどかしかったろうな。遊びたいだけなのに。いろんな感情を経験したろうと思う。最後までそのこに自分の思いを表現して諦めて離れてく大ちゃん。

毎日毎日繰り返し、どれだけの感情をどれだけ時間をかけて味わったのか、わかりません。

数ヶ月経ったある日その子と遊び始めました。(泣)

 

大ちゃんはどんな感情を味わい、どう整理していったのでしょう。

そのお友達もその感情をどう味わい、どう整理していったのでしょう。

 

こんな経験が数えきれないほどあるのです。

嬉しい感情も悲しい感情も言葉にならない感情も、こうして味わいつくして積み重ねた大ちゃんの人生。あの頃は分からなかったけど、いまのだいちゃんをみてはっきりわかること。

経験は全て細胞になってその人になる。

 

私はたくさんのごめんねを使いました。

泣きながら謝ったこともあった。

それをそばで感じてきた大ちゃん。

 

ごめんねを言われることもあったね。そんな時も感情を味わったんだろうと思います。

誰に止められることもなく、遊びたいだけなのにどうしたらいいの??って自分で自分を責めたこともたくさんあったろうと思う。

大人が答えを出したんじゃなく、大人が待てなくて止めてしまうこともない。次の活動があるから、そこまでにして、と大人がくぎってしまうわけでもない。

そんな中で味わう感情は、今だけのものではなく、長い期間にわたる思考の日々で厳しさもあったろうと思うのです。

 

でもそうして7年も過ごしてきた大ちゃん。

彼はいま、繊細な配慮でその言葉を使います。

そして彼から私は教わった。ごめんねは、言葉じゃない。溢れた気持ちなのだと。

 

感情を味わった中で、大ちゃんはある日ふっと気づいてくれたのだと思うのです。

「ごめんね。」って言葉から溢れる魔法を。

傷つけるつもりはなかったの。僕は怖い人じゃない、ただ遊びたかっただけなの。その方法がわからなくて、ごめんね。

 

こうして泣かし続けたことおともだちになっていきました。

多分、ある日ふと遊び始めたのは彼がそれをなんらかの方法で伝えることに成功したから。

そしてね、そのお友達も、ヤダ、しつこい、怖い、、、、わからないけどいろんな感情を味わい尽くして彼が本当にしたいことに気づき始めてくれたから。

「ああ、怖い子じゃないんだ、遊びたかったんだ。」

そう気づいてくれて大ちゃんのことを見てくれるようになって、そうして見えてきたら、なんだ、結構合いそうじゃんって思ってくれたのかもしれない、って今は思う。

 

ここに時間をかけること、私が子どもたちを幼稚園や保育園にあずけなかったワケです。

システム上、先生にそれをお願いすることはできないもの。

人体実験といえばたぶん、そうだとおもう。失敗しなくてよかったー😂笑笑。

 

 

 

〜自分に素直に生きる人から学ぶ日々〜

 

自分が自分らしく歩いてこれなかった理由は、自分の感情を味わい尽くしてこなかったからであり、素直に生きてこれなくて自分を知らないから。

幼い子は素直で嫌味も文句も言わない。

それは自分を表現できるから。

そんなこどもたちと、そうしておおきくなったひととふれさせてもらって、ああ、自分のことをわかるってたくさんの感情を味わい、自分に素直な人なんだな、ってちょっぴりだけわかってきたような気がします。

 

この人たちは揺れない。

自分の気持ちを表現することや言葉を使うことをおそれてないし、表現が的確、なんです。そしてみんな自分の親御さんに、周りの人に感謝してて(若いのに!)、だから愛が溢れて愛されてる!

素直で生きる、ってこういうことなんだとちょっとしりました。

だから自分との付き合い方が上手なんだって、いちいち大揺れせずに、自分を主張せずに、どっしりしてるんだって、ただただすごいなあーって。

 

自分を知ってる=自分の素直な気持ちを穏やかに伝えられる、うん、きっとそういうことなんだろうな。大人に止められずにすでにたくさんのことを超えてきた彼らは、揺れることもなく、自分の気持ちをずっしりと伝えて行く。そこに焦りはない。

この人たちはそんな人。いい先生に私は支えられています。自分の子が師匠になるなんて思いもしなかった。

愛の深さを教えてくれる子どもたち。そんな師匠に敬意をしめします。

いつも本当にありがとう。