日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

暮らしの中で必要なものをしってゆくこと。

今年ももう終わり。

昨年は北海道自身で怖かったけどうちのお水は電気で組み上げられてなかったから、こまらずにすんだな。ガスも使ってなくて、灯油コンロだったから煮炊きもとりあえずは困らなかった。もしこれがなくなったら、枝を集めてきて火を起こして外で煮炊きをすればいい、(薪ストーブもあるけど、まだそれを使うには暑い時期だったから)、水が蛇口から出なければ、下の川から汲んできて沸かそうと、当面の予定を立てたな。

畑があることは食べることに継続を意味する。備蓄に走らなくても最低限のしばらく方これで生きていける。自分たちがこれでつなげるからスーパーに行かなくていい分、町の人たちに渡る量が増える。畑があることは大事なこと。

 

身体に支障がなかったこと、それがありがたかった。ここで想定されることは土砂崩れ。どこにいても100%安全なことはないから、とにもかくにも身体が無事であったことはただただ感謝しかない。東日本大震災を経験してることもあり、そうでない地域の方の心労も想像しながら、大地が落ち着くのを待つしかなかった。

 

そしてね、リアルにかんじた。

身体に支障さえなければ、暮らしを継続していける、この不便な暮らしの意味をぐっとね。

 

知識として知るのではなく、経験したことの大きさを最近とても感じています。

タイのジャングルでの暮らしは、たぶん日本で少なくとも数ヶ月、自ら山籠りしないとできないような暮らしで、それは現実的ではない。だから、実際に暮らしている方々がいる村でのこの暮らしの経験はとても大きい。

 

そこで暮らしたたくさんの経験と得た知恵が災害の時に役に立った。

何をどうしていけば暮らしていける、それを自分で組み立てられるその安心感はとてつもなく大きいものだから。

今の私たちは、暮らしの拠点を街から移した。

それは水を得られることを意味する。

ライターは必要だけど、枝を集めれば火もおこせる。

水を川から組くみにいく状況で火事にならないように火を起こすにはどうしたらいいか、今の気候条件でどんな火を起こしたら安全か。火を起こすことには色々な配慮も伴う。その配慮も想像できることが必要となる。

知識があれば野草を食べてでも暮らせる。私たちは野草がある時期はそれをいただくことも忘れない。

どうしていけば生きていけるか、この経験の積み重ねがいざという時に役に立つ。

雑草は気持ち悪い、そんな意識があったら知恵も増えないし不安しか無くなる。

そしてそう暮らすことになったら私1人がそれをできても回らない。家族で分担して仕事をこなして生きていくしかないので、わたしひとりちしきがあったとしても、たくさんの時間が必要となってしまう。冬場に必要以上に薪集めしていたら体力を消耗するだけで命に関わるしね。みんなにそれが根付いてることが必要だとかんじてる。

 

あとは、これは我が家流だけど、物に執着する習慣を手放すことも結構大事かな、って。ジャングルでは食器もスプーンも竹などで作るから永久には持たないものだって感覚だから壊れるまで使って壊れたら山に返す。竹で作った家ですらそう。それを思い返した時に、ふっとおもったんです。物に執着しないで済んだら不安が少し減るんじゃないかって。お金をかけて作ったものほど、壊れた時に不安になりませんか?私はそうだったから。だから私は持ち家や素敵な家具を持たなくていいかなって思ってる。アルバムですら子どもたちのリクエストでしか作らなくなった。思い出はちゃんと心に刻まれていくから持つならば幾らかの写真で十分だとおもってる。

 

それから畑。冬場以外は畑に野菜を貯蔵しておける。

 

冷蔵庫よりよっぽど役に立つんじゃないかと最近は思ってる。

冷蔵庫をなくして四年くらい、なくてもいいやって思っていたからないことには困らない。漬物とご飯とお味噌汁を基本にしてるから、冷蔵庫がなくても大丈夫で。余談だけど、この冷やさない暮らしも自分の冷え症を改善してくれたのだろうなと今は思う。

今は必要ないよねーって思っているから冬に外に置いておくだけで保存ができるのはありがたい。もちろん縛れたり溶けたりするから、何を外に出すかはせんたくするひつようがあるけれども。

それよりもね、畑を持つことの重要性を感じてます。私も経験と知識がまだ浅いので、大きな畑は作れないからまずは小さく小さく。実物は難しい。農家さんはすごいと思います。私の場合は、色々はまだ植えれないから余ったとこにはお豆を植えて冬の保存食になってもらおうと思ってやってます。

 

災害の時に畑の威力を教えられました。ここに食べ物があるということの安心。またタネを植えれば、食べ物が得られるということの安心。

私も中に確かな課題が生まれました。野菜を育てられるようになること。野菜のお世話はたくさんの知識と経験を必要とします。一年二年でできることではないから、今、家庭菜園をしている(本当は肥料を入れたくないのでこれも少しずつ試してますが)おばあちゃん達から引き継はねばならないお知恵だと思っています。

私たちの世代は野菜を育てることとは離れてきているから、私がそのお知恵をついで、みんなが必要だと思った(いつかそうなるだろうと感じてます)ときに伝えられるよう、私がそれをしていきたいなと思いながら今やっています。

 

お漬物もお味噌も、麹作りもみんなそう。

お洋服を自分で作るということもそう。

私に興味があってできることは身につけておこう。

今はお金にならないけど、これはきっと子供達の未来につながってゆくとおもえてならないので、そのために時間をかけたいと思いながらいまをいきています。暮らすことに時間をかける、私にとってそれはこういう意味を持っています。

もちろん、お金になる日が早く来るといいなあ、ともおもうけれども、笑。今、こういう社会である以上お金も必要だもの。お金によって得られるしあわせもある。これもありがたいものだから。

 

私のジャングルでの経験の一つに、本当に真っ暗になる、というくらしがありました。

そばを歩く子供の手を引くことで彼らの所在を確認するしかないくらいの真っ暗さ。

そんな中小さな電気のありがたいこと。デパートのように明るくなくてもじゅうぶんにくらしてゆける。

暗くなったら基本的になるから、電気によって目が悪くなるってことも、あまりないんじゃないかと思います。

私たち一人ひとりの暮らしがこんなに明るくするのをやめたら、スーパーの灯りがもっと落ちたら、原発とか火力とかなくても必要な電力を必要なとこに(病院とか)回して暮らしていけるんじゃないかなって。

そうして、そこに勤めてる人の仕事は減るけど、もう少し小さな地域単位で野菜を育てる。小さな地域単位で人々が関わりあう。それを仕事にして行く。お金が回る量は減るけど生きて行くことは食う、寝る、遊ぶ、だから野菜を育て、自分とも人とも優しい気持ちで関われれば、生きていけるんじゃないかと想像していて。

災害などを経験している人が今はたくさんいて、人々が助け合うことの必要性を感じてる人が増えてるので、今までよりやさしい気持ちでそういう暮らしをできるんじゃないかな、って1人妄想しています。

 

老後をみんなが心配している時代です。お金があるように思える人でさえ、次から次へと心配してる。結婚してる人も心配してるし、結婚しないことを選んだ人たちはどん底のような不安な思いにかられることも多いと聞きます。

村のように小さな単位で支え合うことができたらいいのにな、って思います。

子供を持たない人も近所の子とかかわって、1人で暮らしている人のところにもげんき?っておかずでも持って顔見に行って。食べ物があって、友達がいるから大丈夫、そんな暮らしになれば自分ばかりが一番になる必要もない世の中になるんだろうな、とおもいます。

実際、こういう暮らしがいいことばかりでもないのかもしれないけど、やっぱり人は1人で穏やかな気持ちでは生きて行けないから。誰かの思いがあって穏やかな気持ちで暮らせる。そうおもうのです。

 

災害の話から大きくずれたけど、そんな時もそう。

小さく助け合うことが現実に生をつないでいける方法となり、心が潰されるだけではなく生きていけるのではないかとおもっています。

 

そう思うから、自分が生きるために最低限必要なことを暮らしの中に取り入れて行く方法を実践しています。

 

そして自分の経験から、このじぶんでこんな暮らしを経験してみるのがいいな、とかんじています。

とっても身軽になりました。

どんな風に暮らして生きたいか、ってとっても大事でそう暮らせているから心軽く今を過ごせるし、未来に向かって行ける。

何は無くとも自分の身体と家族が元気でいてくれることがわたしにはとてもだいじなことだと、スッキリ言えるようになった。それが今を楽しみながら未来に向かって行ける1番のことだから。

 

我が家の暮らしは不便だけど、これが私たちの暮らしだからなんてことはありません。

起こったことを超えた時、強くなります。嬉しくなって自己肯定感が自分であげられちゃいます。

自分たちの暮らしに必要なものとエネルギーを一つずつ確かめながら暮らしているので、多分最低限の暮らしをしています。

自分たちに必要な最低限のものは何か、最低限のエネルギーはなにか。

原発がいいとか、悪いとかより先に、それを考えるのが大事なのかもしれないと最近思います。

スーパーにいく回数が減ればプラスティックゴミが減る。

それをしれば自分がどれだけのプラスティックを使っていたのか目に見えます。

我が家の暮らしを体験しに来てくれる方にそれを考えるヒントを手渡したくて、体験を受け入れることも仕事にしています。

経験して感じて気づいたことは、新たな行動を生み出してくれる。考えることには長い目で色々生み出すけど、限界があるし頑張り続けるしかない。

 

経済が回るのも大事なのかもしれないけど、温暖化でこれからの人が生きていけなくなることを考えるとそれの方が心配です。母として、これから生まれて来るたくさんの命に申し訳ないとおもってる。

 

アウトドアではない山の暮らし。

いろんな気づきと希望をもらってます。

山の神様に感謝です。

 

感性が震えるたとき、それを美しいと思う。

頭でなく、心で感じた自然の美しさは私の感性にさらに振動を与えてくれました。

美しいものが増えた。新緑が深まったあの瞬間、子どもたちの声がかき消された川の清流のおとに息を飲んだあの瞬間、車の音のしない我が家の庭でしんしんと降る雪を浴びながら真っ白な大地に立ったあの時。なにも考えずただそこに立ち尽くす。

沢山の瞑想が暮らしの中にあります。

それを癒し、ともいうのかな。

炎の揺らぐのを眺めるのもすきです。

それを経験させてくれるこどもたちのようちえん。

暮らしの中でたくさんの美しさに触れられるひびでありたい。

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