日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

母として自分を育てること。

私はいつの頃から子育て、って言葉を使わなくなった。

子どもを育ててるんじゃなくて、自分が育ててもらってる。

働きに出るのをやめて、子どもとの時間に没頭した10年。

子どもを育てたんじゃなくて、自分を育ててた。我が子や旦那さん、周りにいてくれる方々にも育ててもらいながらね。

 

子どもの頃から消えちゃいたいと思いながら生きてきた学生時代。

いつも寂しくて悲しかった思いがどこから来るのか考える余裕もなく、就職して自分を楽しむことができなくなってると知った。

いつも人の目を気にして、周りを怒らせないよう最大限気を使って、周りに合わせて笑って愚痴を言って。じぶんのきもちがわからないこともきずかなかったな。

誰かに怒られると悲しい気持ちで自分を責めた。

なんで私はこうなんだろうって。

 

自分は自分、って気持ちがなかったから何をしても不安で楽しめなかったんだと今は思う。あの頃とは150度は変わったろうな。

いまはおもう。全ては自分の責任。でも今のベストを尽くしてそうなったことなのだから、反省することはあるけれども、自分を責めることではなく、この経験をどうこれからにつなげていくか、そこに気持ちを使う。

そして、日々素直に。間違えたら謝るしかないから。未熟さにより怒ることも受け入れていく覚悟をもつしかないというか。

自分に誠意、それを持って日々を楽しみたいなと考えてる。

 

このままじゃダメだ。

母にさせてもらった私に入ったスイッチ。

ああ、だから私は働かないことにこだわってたのね、と。

家族で過ごすことに決めたのね、と。

 

そんな思いがうまいこと言葉にならないけどかきたくなったので記録に。

 

 

さてさてただいまタイに向けて準備中。

今年は本でも持っていこうかな。

ふとそんな気になった。

自分の思考がくるくる回ってちょっと抜け出したい気持ちになってきたから、その背中を押してくれることばがほしいな、と。

 

昨日の夜、ふと子どもたちの行為できになることがあった。

大ちゃんは不安が強い人。その不安はどこからくるのかなあって考えながら、もういい加減にしてよ、ではなくまってきたつもり。

でも、この不安を抜け出せたら、もう少しできることが増えて楽しくなるんじゃないかな、と。

ひさびさにここで、ちょっぴり背中を押してみようかな、とおもった。

 

こゆもきをつかうひと。人の中に入る時、人との距離感を見ながらとても時間をかけて距離を縮めたり、ここではないか、と決めたりする。

そんなこゆが昨日、大ちゃんとの喧嘩の最中に、私への気遣いをみせた。

そして自分の寂しさをちょっぴり口にしてくれた。

 

2人して自分がいちばんあいされたいおもいをかんじて、どうしたらいいんだーって呟いて朝になってた。

 

そうしておもう。

私自身が満たされなかった思いはなんだったのだろう。

この人たちの不安は私が押し付けてしまっている何か、なのかもしれない。

 

私が両親に向けられなかった思いを考えて見ることにした。

いつ出るかわからないその答えを模索し始めた。

 

いま、自分はどうしたいのだろう。

自分に対しても家族に対しても。

 

そんなさなか、内田也哉子さんの書いた本を見つけた。

「9月1日 母からのバトン」

樹木希林さんがなくなる2週間前に、不登校になり自殺をして行く子どもたちに対して、死なないで、と呟き続けていたことからそのことと向き合い、一冊の本に込めたメッセージを書いた本。

 

小さな頃から自分なんて消えてしまいたいとおもってきた昔の自分と向き合うヒントがあるかもしれないとおもって。

 

自分なんてと思ってきたことを受け入れてそれでも自分として生きて行くこと、に納得できた今。

けれども、母から認められなかったことで、時々押し寄せる不安がある。

自分の考えを受け入れてくれなかった母に、「お母さんはそれはダメだと思う」、という言葉に、「でも、、、、」と答えるととりみだされることが怖かった。

母の暴言がまた数時間も降ってくるのか、とたえられなくてしまい込んだ自分らしさ。

自分の考えたことが、じぶんにとってすじがとおってるのかいなか、わからなくなりかけて、整理することをいまでも続けてる。

これを超えて今もう一度成長させてもらっており、それを家族が受け入れてくれていて、なんももんだいないのにね。

 

昔、自分の時間を経験できなかったから、いま、経験不足によりどうしていいかわからなくてくるしんでるんじゃない。もう、わたしのこどものころをかえしてよ、って怒りたくなるとき。

 

自分が普通じゃないんじゃないかって思ってきた気持ちを受け入れたけれども、これまた時々不安となってやってくる。

 

今を受け入れられるようになりつつある自分。日々を自分のペースで楽しめるようになった自分。

けれども超えなければならない自分の過去がこうして時折おとづれる。

 

この内田也哉子さんの本をひらいて、ふと、あの頃の不安だらけだった自分の気持ちをちゃんと思い出して、はっきりとそんな自分を自分の中に刻んで、それでもいまの私は大丈夫、と思えるように整理してみようと読んで見ることにした。

 

我が子たちがくれた自分を超えて行く試練とかくご。

自分がどう生きて生きたいのか、こうして一つずつ思考を変え、行動を変えて行くことで強く優しくなれるはずだ。

なりたい母親に少し近づけるかもしれない。

ここをこえればまた自分を受け入れられる力が大きくなる。

そしてそれは家族との時間にも反映されて、もっといきやすくなるはずだと、私は思ってる。

 

子どもの人生を邪魔するおやにはなりたくない。

 

その思いがくれた、自分が変わって行くということ。

そして今はもう一つ思う。

 

自分がしたいように生きて生きたいということ。

 

そのためには、私の場合は、親に刻まれてしまったあなたは私と同じ、ダメな人間で幸せになれるはずがない、という深いところにある思い込みを外していかないとならない。

 

母は母であり、父は父である。そして私は私だ。母と同じダメな人間でもなければ、この人生を生きるのは、ははじゃない。幸せになれない、なんて誰にも決められない。

浅い部分は数年かけてこえてきた。だからこうして不安になったり、家族との関係で今は自分にはすべがなくどうしようもないじゃんっておもっても、

「今は、仕方ないよね、こうして経験積んで行くしかないから、もう少しまつかー。どうしようもないから、もうジタバタ答えを探すより、目の前を淡々とこなして行くうちに、なにかみつかるよね。」

って、自分を責めるわけじゃなく、なにもせずに待てるようになってた。

それは私にとって嬉しい自分の変化だったから、これを希望にまたこえていかねばばらないことをむかえてる。

 

大ちゃんとくらして10年経ってきづいたこと。

子どもたちを自分で育てたい、とうちにいることを選んで育ったのは自分だった。

変わったのは自分だった。

 

この子のために、そう始めたことがいつしか、この子たちのために、となり、旦那さんのために、となり、自分が生きやすくなるために、ってなった。

 

子どもたちが喧嘩ばかりしてる時期がきたとき、旦那さんがイライラしてる時期がきたとき、その2、3日はもう、なんで喧嘩ばっかりするわけ?、イライラをぶつけるわけ!?って悶々としてるけど、その後いつもおもう。

私の問題だ、と。私はこの子たちの気持ちをそのまま受け入れられてる?自分が親にされたようにしてるんじゃない?自分の経験値で、決めつけてない?とか、旦那さんに対しても、ここの配慮がたりなかったかな、とか、彼は今どんな心の状況にいるんだろう?とか、そのいらいらは、私の気持ちが子どものことで目一杯のさみしさから来てるのかもしれない、って。

 

ああ、私の彼らに対する理解の仕方の問題だ、と。

それともうひとつ、自分の昔の気持ちを表してくれてるのかもしれないと。

 

我が子たちが寂しがりなのは私と同じ。

私が寂しがりなのを引き継いじゃったみたい。

こんなに一緒にいるのに?って思っちゃってたけど、もっと一緒にいたいらしい。

寂しい気持ちを諦めて1人になることを選ぶのではなく、寂しいからもっと、って今のうちに言えるって大事なことだとかんじさせてもらった。長い目で、満たされて行くだろうし、私の中の親に対する寂しさもこの人たちが一緒にいる、ということでうめあわせてくれてるのかもしれない。

そう理解して、自分が満たされなかった思いをみたしてもらってる、彼らが私を好きでいてくれることは、何よりも私の自己肯定感の根を太くしてくれてる。

 

そして、自分を責めたり否定していても、家族の関係は良くならないことをしり、自分が気持ちよく生きれるように成長していく命がけの覚悟を彼らがくれた。

母であることの覚悟は、自分でもびっくりするくらいつよい。

 

私と家族でよかった。たのしいもん。

 

そう言ってくれる彼らの言葉に、また、今を超えて行こうと決まる。

時折萎えるけれどもね、萎えた時もあっていいんだーって思える自分への希望。

 

我が子にかける時間は自分にかける時間。

パートナーにかける時間は自分にかける時間。こちらはもう大人。私のできないこと、したくないことは別にしなくてもいいのだから。

そうおもえたから、いつでも自分が成長するための時間だと思える。

 

いい時間を家族で過ごしたい。

 

それだけのことが私にはとてつもなく大きなことを含んでる。

でも虐待をせずにすみ、自暴自棄にならずにすんで今を迎えてる。パートナーに暴言をはかずにくらしてる。

何があっても、自分はこの先どうなりたいかって、考える習慣がついてるから、今を受け入れることができつつあるし、失敗したら謝ることができる。

 

家族との関係を丁寧にして行くことは、自分をケアすることになる。

そうして相互作用で、自分が大事にされてる安心感をもらう。

 

こんなに自分のことを考えて、全ては子どものためではなく自分のためだしね、なんておもってる自分を普通じゃないとおもう。

結局、昔も大人の気持ちばっかり引き受けて普通じゃなかったけど、いまもふつうじゃないんじゃーん、笑笑。

 

親に満たしてもらえなかった。

そのおもいをずっともってきた。

けども、自分の親もその親に満たしてもらえなかった。だから仕方ないよね。

 

自分で自分を肯定する、大事にする、そういう感覚を身につけつつある。

今の家族に愛してもらってるし、友人が大事にしてくれてて、そんな自分をおろそかにしたくないと思う。おろそかにしたら、家族にも友人にもおろそかな態度になるから。

 

消えたいと思って来た思いが嘘のように消え、時折湧いてくるむかしの不安な感情を、どう自分で整理できるかな、と考える段階になったんだよね。

 

自分を超えて行く、自分を生きていく力ってそういうことなのかもしれない。

学校とかでいう生きる力はお金を稼ぐ力って意味なのかな。

それとは違う、今の自分でどうやって生きていけるか、っていう力。

 

我が子と過ごした10年間は、私が苦しかった過去から育ち直す10年間でした。

子どもたちのためにかけた時間が実は全て自分のためだった。たくさんの自分を超える覚悟を経験し、強くなったし、受け入れられるようになった。

そして血の繋がりで苦しんで来た私にとって、最大の難関、心地いい家族ってどんななのか、自分なりの答えを見つけつつあります。

今、ようやっと、自分を生きてる感じがする。もっと自分のために、愛のあるコミュニケーションを取れるにんげんになっていきたいとおもう。そうすることが家族を幸せにするのかもしれないと気づいたから。

 

自分のために時間をかけることの大切さを、家族と友人が教えてくれました。だから私は家族に時間をかけたいと思う。そして余裕ができたら友人にもだけどもう少し時間がかかりそうです。焦らずにそれまで待とうと思います。

かぞくと、ゆうじんに。いつもありがとう。

 

コクワをとったよ。

でも忙しくしてる間に季節は過ぎ、焼酎にはつけれなかったな。熟しきったコクワで酵素ジュースを少し。らいねんはやりたいなとやんわりおもう。

自然と共にある暮らしは待った無し。

だからできないことはしなくていい、とわりきるしかないんだよね。

ああ、やらなくちゃってスーパー行くたびに漬物コーナーみてあせるひつようもない。

だから、便利じゃない暮らしってけっこういい。余計なことで忙しくしなくていいから。

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