引きこもってます。
最近ずっと考えてる。
自分の怒りはどこから来るのか。
自分の不安はどこから来るのか。
時間をかけて自分を知り、自分の傾向を感じて行く。
何かがあって落ち込んだ時。
その何かはきっかけに過ぎなくて、原因となるそのことから来てることが他でもあったはずだと遡って行く。
私は自分が怒りの感情になるのがすきじゃない。
怒っていいじゃない、人間だもの。って言われるけど、この感情に引っ張られる時間がもったいなくて好きじゃない。
きっとね、ははがいかりと悲しみのひとだったから。それをみて来た私はそのときのつらさをおもいだす。そして私はもう十分に怒りを経験したから、怒るのではなく、それは自分にとって嫌なことだから、とか、不安になるからそこに立ち止まりたくない、とか、整理して、怒りの中に浸る時間は身近くして手放したいっておもってる。
嫌だ、という感情は大切。
自分にとって大切なことがあるから、嫌だと思うのだから。
でも怒りを引きずる必要はないし、自分の怒りを人にぶつける必要もない。
大方の感情は誰かによって、何かによって引き出されただけで、それを誰かに向ける必要がないことが多いように最近思う。
負の感情をせいりしていきたいとおもう。
自分の問題として、それをどう受け止めるか、それだけのように思う。
どこから来るのか、原因をさぐっていくのもよし、時には逃げてもいいし、横において答えが出るのをまつのもいいし。
家族間では怒りの感情が出やすい。
もちろん喜びもだけど、怒りも容易に出て来る。
そしていつも思う。
自分の問題と家族に伝えたいことを分けて表現しないとね、と。
自分の経験がこうだったからこのほうがいいって自分の経験に引っ張るのも違うし、でも伝えたいことも大事にしたいし。
冷静に伝える。
それならば、相手は冷静にそれがじぶんにとってひつようなのか考えて行ける。
怒ったことのほとんどは自分の問題だなっておもう。
どうしていいのかわからないこともたくさんある。
どうしていいかわからないんだから仕方ないよね。
外に向かって表現したことが無性に空回りしてる気がして、焦ったり、はっとしたり、そんな時間がここんとこずっと続いてる。
んで、外で上手にコミュニケーションとってる人がいいな、っておもったり。人のことを羨んでも答えはないことを知ってるのにね。長いこと持ってたこの思考が、再発し、目の前に止まってるんだな、っておもって、それをその都度自覚するようにしてる。
その先がまだ見えなくてふと最近思った。
ああ、いまはどうもしないほうがいいよな、って。
ここを超える瞬間がまた来るとおもう。
それがいつになるかわからないどうしようもなさもあるけどね。
静かに自分の暮らしをしていくしかないよね。
その答えに落ち着いた。
だからがむしゃらがんばらない。
ここを超えた時には、また一つ、自分の苦しみや悲しみ、不安がどこから来るのか、みえているはずだから。
今年はイマイチ調子が良くない。節目の年だからだね。
食事も変えたし、こうして思考や習慣も変わりつつある。
「御自愛」していこうと思う。
自分と向き合う上で一番大事なのはそれかもしれないね。
何かに邪魔されずに自分にとってなにが心地いいか、いやか、かんじていく。
子どもの時からいつでも、協調性が求められて、がんばることがもとめられてきた。
自分がなにを考えてどんなことが嬉しくて、どんなことが嫌かを味わうよりも、誰かといること、だれかと何かをすることに割いてきた時間が長かった。
だから今更ちょっぴり引きこもり。
引きこもって、充電して、自分でいいんだって自分で納得してまた歩き始める。
その時に向けてちょっとお休みちゅう。
多分、引きこもりってそういう意味があるんじゃないかな。
不登校の話になると、必ず出て来る言葉、引きこもり。
引きこもってても家族と穏やかな関係があればなんも問題ないはずじゃないかなっておもう。
問題になっちゃうのは、自分自身を受け入れてもらえない怒りやもどかしさを、暴力などのこういになって誰かに向けちゃうこと。
家族間で揺るぎない信頼関係をむすべるように、小さな頃から関係を築いていく、つみかさねていく。それだけなんだろうな。
ひきこもるのはだいじなこと。
そういうほんもでてたよね。
じぶんもそうかんじています。
感情が豊かな人間は、小さな頃から適度に引きこもる時間が必要なんだろうな。
我が子たちは自分の時間も、誰かと過ごす時間も好きで、だれかが突然来たときも気持ちの切り替えが早い。変な風に人に気を使って我慢してない。
自分の時間を味わうってきたからそういうことができるのかな。
今更ながら、自分を感じつつ、成長させてもらってます。
成長して行きたいな。
そんな私はただいま引きこもり期。
プチマルシェがあって、移動ポケットを仕立てました。
レッグウオーマーも。