日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

言葉を使いこなせない中で暮らす経験をして。

言葉を使うって難しいって感じた日。

 

昨日、始めてあった人と話していたんだけど、自分の言葉にしたことの先に伝えたいことがあったことに気づかず、その人と別れた。

そうしてあとでふっと、その言葉の先に伝えたいことがあったんだって思い出した。

 

自分にとってはいつもその言葉で浸透してるけど、言葉にして伝えるならもう一言必要だった、ってね。これじゃ、ごかいをまねくよなって。そしてちょっと焦燥とどう思われたかなーって気持ち。

 

私の話し方の癖で、時々こういうことがある。

その言葉の先に伝えたいことがあるのに、そこまでたどり着かず終わってしまうことが。

 

言葉にするって難しい。

伝えるって難しい。

 

そうしてわがこの言葉を思い出す。

喧嘩をした時、どうして喧嘩したのか、どうしてそんな行為になったのか、それについてどう思うのか。いまだに時々、そこまで絡んでしまう。

今でこそ、だいぶ言葉を使ってくれるけど、わかんない、そういう子供達の言葉にハッとしたことがある。

 

言葉にできないことってたくさんある、って。いろんな感情の流れとか、相手の思いを踏まえた上での自分の気持ちとか。本当にわからないこともあるだろうし、上手く言葉にできなくてわからないっていってることもあるよね。

我が子との時間の中に、たくさんのこういうことがあり、私は言葉で伝えることをまだまだ要求してる部分があり、ハッとする。

 

きっとさ、こういうことって自分でその場でじっくり味わって、何度もなんども味わってやっと整理できて言葉になってゆくもの。いちいち、大人が自分の期待する答えを言わせるために求めることではないし、何でもかんでも把握しようとするもんじゃない。今の私は、そうおもう。

 

我が家は年に数ヶ月、タイで過ごす。

アジアが好きなウエスターナーも滞在してるので英語とタイ語のこの世界で過ごすのだけど、私はどちらもあまり話せない。

一年目は緊張してたし、困ったけど、いまはそれでいいと思ってる。

本当に話したい人は、こちらが理解するのも言葉が出るのも、待っていてくれるんだよね。

単語のつなぎ合わせでも一生懸命理解しようとしてくれる。間の取り方、ゼスチャー、目線、仕草。私も全てに感覚を研ぎ澄ます。

それで十分笑えるほどのコミュニケーションが取れるんだよね。

 

そしてふと、赤ちゃんたちってそうなんじゃないかなっておもう。

気持ちを通じあわせようとする。

相手の気持ちがあることをしり、自分の気持ちを表現し身体でぶつかり知って行く。

 

たくさんの感覚を研ぎ澄まし、お互いをわかり合うって楽しいなって感じてる。

難しい話ではなく、ここでみんなでご飯を食べて、それが身内じゃないからこそありがとうって伝えたくなって伝えてくれて、太鼓を叩いて踊って、仕事して。お互いの故郷に話は写真を見せながらして。

このやり方で友達100人できないけど、私は丁寧に関われる関係の方が心地いいから、お互いのことを思い会える距離間でお付き合いできるこの関係が好きで。

 

あまり言葉にできないこの感じも好きなのです。

たぶん人の原点であり、とっても大事な感覚を思い出してる。

余計な情報も入って来ず、ただ日々をのんびりと暮らして、きっと言葉はあれとって、とありがとう、で十分、笑。

言葉でない分、相手を全体で知ろうとおもう。

その人らしさは、その時の言葉ではなく、いつもの振る舞いの中にあふれてくるものだから、ってことを知る時間。

 

自分が言葉にすることが苦手だからこその気づきだけど、言葉は最低限でいいんだーってここで再確認。

自分にできる以上のことを時々勢い余ってして、ハッとする。

今回もそう。

 

そして人の目を久々に気にして、自分に改めて語りかける。

気にするならその時の言葉一つではなく、日常に溢れてくる自分の態度や仕草にきをつけて、と。

 

昔は自分軸がなかったから人にどう思われるかで動いてきて、帳尻あわなくなってたことがおおかった。でも、いつでも、今の自分に誠意。自分に嘘はつかない。優しい自分でいたい、したくないことはしない、間違ったらごめんなさい。

自分に誠意を持っていたら、小さな一つの間違いは小さな一つの間違いに過ぎない。

誰がなんと言おうと、それが自分の全てじゃない。

 

ならば人の目を気にする必要はない。

大事にしたいのは自分に対する誠意だけだったね、と自分にはなしかけ、昨日の焦燥感を薄めて行く。

 

言葉が通じない中から学んだことは蜜でも自分らしさを大事にすることでした。

そこにずっといたらいつか話せるようになる。そこにいた分だけ、ことばはついてくる。

だから今、タイで過ごすにはこの程度の言語能力が今の私には十分なのかもしれない。

言葉が使いこなせないことを楽しもうと思う。

 

そして、日本に帰ると、言葉にすることに対する義務感にスイッチが入りやすいから、自分ができることをしっていこうとおもう。

 

無理にことばにしない。

あいてに無理に言葉にさせない。

 

私の短所だと思っていたことが実は長所でもあるのかもしれないな。

みんななんでもできるわけじゃないもんね、人って。

マイペースでいこう。

 

とうきびとトマトの瓶詰め、作りました。

暮らしの中にたくさんの芸術。うつくしさ。

日々に感謝です。

f:id:yurukkosae:20190921081239j:image

f:id:yurukkosae:20190921081256j:image